第5話

 澄んだ歌声が聴こえる。知らない歌だが懐かしい。

 ヴォイドが目を開けると明かりの灯った天井が見えた。背中に硬いスプリングを感じるし、仄かな消毒液の臭いもする。すぐに医務室だと察したが、歌声だけが異質なものだった。枕元に誰かがいる。


「母さん?」


 幼い頃の記憶が朧げに甦り、声をかけてしまう。

 すると歌声は止み、大きな赤い瞳がこちらを捉えてきた。ヴェールの間から艶やかな黒髪を覗かせる。白い法衣が明かりに反射して眩しかった。

 顔立ちは掘り込んだ彫像のように整っており、ため息が出そうなほどの美を感じる。


「気が付きましたね」

「聖女フォグ……?」


 名前を呼ぶと、少女は作り物っぽい笑顔で首を傾げる。あらかじめ決められた仕草をしているみたいだった。

 慌ててヴォイドが顔を伏せる。とてもではないが目を合わせていられない。遠くからでも見惚れてしまった相手である。

 しかも寝ぼけて「母さん」なんて呼んでしまった。恥ずかしさのあまり真っ赤になる。


「お怪我の具合は、どうでしょうか?」

「え? 怪我?」


 指摘され、上体を起こしたヴォイドは自分の身体を見下ろす。あちこちに包帯が巻かれていたが痛みは無かった。

 思い出せるだけでも、血も出ていたし、骨にもヒビが入っていた。相当な高さから落ちた上にデカい犬相手に何度も小突かれたのだから無理もない。最後は犬に押し潰されて下敷きになった筈だ。激痛を堪えてどうにか戦っていたのだが、それらの怪我は全て治っている。


「あの、変です。どこも痛くないなんて……」

「そうですか。それはよかったです」

「もしかして、あなたが俺の怪我を治してくれたんですか?」

「……癒しの奇跡は神の力です。あなたの怪我が治ったのであれば、それは神のおかげです」


 随分と控えめな言い草だが、助けてもらったことに違いはなさそうだ。

 普通の方法で治療されたのでは命を落としていた。それこそ奇跡の力とやらがなければ、ヴォイドはもうこの世にいなかっただろう。


「助けてくれて、ありがとうございます」

「お礼を言わなければならないのは私の方です。あなたが来てくれなければ、私は魔王の配下に殺されていました」

「そういえば、黒い犬みたいな怪物はどうなったんですか?」

「消えてしまいました。多分、逃げたのでしょうね」


 自分とフォグが無事だということは、誰かが倒したか逃げ出したかのどちらかだと思った。

 逃げたということはまた襲いかかってくる可能性がある。敵に相当な深傷を負わせたものの、回復してしまうことも有り得た。急に悔しさが込み上げてきて、握り拳に力が入る。


「すいません、俺がちゃんと仕留めていれば……」

「ひとりだけで背負わないで下さい。あなたには頼もしい仲間がいますよ」

「でも」


 俯くヴォイドの拳に、フォグはそっと手を添える。

 冷たい熱を感じたヴォイドが顔を上げると聖女が微笑みかけてきた。

 心臓が肋骨の外に飛び出しそうになる。戦闘中に負った怪我の痛みよりも、ずっと刺激が強かった。


「まだ、お名前を伺っていません。教えていただけますか?」

「えっと、名乗るほどの者じゃ無いです」


 まともに受け答えできないヴォイドを、フォグはキョトンとした目で見る。

 手を握られたまま時間だけが過ぎたかと思うと、不意に彼女は口元を抑えてプルプルと震え出した。


「ぷっ……」

「?」

「あははっ…… ははっ……」

「あ、あの…… 聖女フォグ?」

「あははははっ…… ご、ごめんなさい…… ちょっと驚いてしまいました」


 一体、どこに驚く要素があったのかヴォイドには見当も付かなかった。

 むしろ驚いたのはヴォイドの方である。それまで纏っていた神秘的な雰囲気が一気に薄れ、フォグは年相応な笑顔を見せてくれた。


「謙虚なのですね。けれど、命の恩人の名前も知らないなんて…… 不義を理由に神から罰を受けるかもしれません」

「俺のせいでそうなったら困ります」

「では、名前を教えてもらえるのですね」

「……ヴォイドです。外殻兵士隊に所属しています」

「私はフォグ。神に仕える貴教です」

「聖女じゃ無いんですか?」

「それは通称ですよ。公式な地位ではありません」

「貴教って…… 確か、教王様の次に偉いんですよね?」

「ですが、ただの肩書きです」


 サラッと受け流すフォグだったが余計に気が休まらなくなった。ここで失礼があれば一介の兵士に過ぎないヴォイドではどうにもならなくなる。教団に逆らったら火刑にされてしまうのだ。


「あまり緊張しないで下さい。何度でも言いますが、あなたは私の命の恩人です」

「わ、分かりました」


 こうして互いに自己紹介を終えたところで、ドアがノックされた。

 部屋に入ってきたのは豪奢な鎧に身を包んだ人物である。顔はフォグによく似ていて、彼女を二十代後半まで成長させたような容貌をしていた。黒い長髪は同じだが瞳の色は違って、深い青色である。視線の鋭さも相まって冷たい印象を受けた。


(あの鎧、もしかして中央教区の聖騎士様か?)


 鎧の人物がベッドの上のヴォイドを一瞥すると同時にフォグは椅子から立ち上がった。

 つい先程までの柔らかい表情は消え失せ、説教の時と同じ厳かなオーラを纏っている。その切り替えの早さに戸惑いを覚えながら、続いてヴォイドはベッドから降りようとした。


「キミは寝ていたまえ。怪我人だろう」

「お姉様……」

「人前では名前で呼べと言ってある筈だ」

「サングエ貴教、どうやってここに?」

「くだらない質問だな。『道』を使った。列車や動力船では遅過ぎる」

「ご心配をおかけして申し訳ありません」

「報告は受けている。得体の知れぬ怪物に襲われたそうだな」

「ここにいるヴォイド様が、命をかけて私を護ってくれました」

「そうか。それはご苦労だった」


 サングエの視線はヴォイドの方へ向いていない。声のトーンも平坦で驚きも謝意もまるで感じられない。最初に「寝ていたまえ」と言ったのはヴォイドを話の輪から外すためだった。


「聖女フォグ。今回の件で教王様がお呼びだ。すぐ中央教区に戻れ」

「……覚悟はできています」

(覚悟?)


 不穏な単語を聞いたヴォイドは首を捻ったが、その意味を二人に問いかけることはできなかった。

 硬い表情を崩したサングエは大きなため息を吐いて背を向ける。


「次期教王ともあろう者が戒律を犯すとは……」

「ごめんなさい、お姉様……」

「どんな代償を伴うか理解していなかったわけではあるまい」

「ですが私には、あぁすることが正しいと思えたのです」

「言い訳など聞きたくない。すぐに出発する。ついて来い」

「はい」


 フォグは一度だけヴォイドに微笑みを……作られた方の笑みをかけて、去っていった。

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