第4話

 無数の視線に晒されたフォグは、心に薄い膜を貼る。自分を覆ってくれるものを空想し、無遠慮な眼差しを断ち切るのだ。そうしながら喉を震わせ、神の恩寵を唄う。スフィアにおいて最も尊いものが何なのかを聴衆に訴える。


(またですね)


 視界の隅で妙齢の女性が泣き出してしまった。

 フォグの説教に心を打たれたのだろう。

 よくあることだ。こういうときは目を合わせてやって微笑みかける。すると周りにいた民衆にも涙が伝搬していった。


(演出は実にうまく機能しています)


 フォトンによる光源も、楽器隊の音色も、掘削坑の底という場所に最も相応しいシチュエーションを作り出す道具だった。普段は水晶を掘り出す現場なのに、今は神秘が存在している。教団が鉱山の街に施設を建てるのを渋ったのは、こういう代替手段があるからだ。


 勿論、開催する時間帯もちゃんと織り込んである。夕食を摂るよりも少し前に限る。一日過ごしたせいで身体は疲れているし、食事の前で脳に栄養が回っていない。考える力が最も損なわれる。大半の人間は自覚が無いまま、雰囲気に呑まれやすくなるのだ。

 会場は最早、フォグの手中にある。静かな熱狂に呑み込まれた人々はスフィアの歴史を辿り、魔王の所業に怒り、神に感謝を捧げていた。一体感の最中にあってフォグだけは自分を保っている。その孤立感は心の薄幕を最も簡単に突き抜けてきた。


(あぁ……)


 演技じみた動きで天を仰ぐ。大地に穿たれた丸穴の底から暗い夜空が見えた。星々の瞬きがなんと美しいことか。

 けれど空に『太陽』が昇ることは無い。

 人類は永遠の闇の中で生きている。

 全ては事実だ。否定のしようもない。


(いえ、ここには大きな嘘があります)


 自分はそれを知っている。その後ろめたさと共に生きている。

 そんな人生ももうすぐ終わるのだ。だから耐えられる。

 あと少し。あと少し……


(あれは?)


 見上げた空、黒い点が岩壁から反対側の岩壁へと飛び移っている。その度にパラパラと小石が降ってきた。演技を忘れたフォグはその点に見入ってしまう。

 釣られて聴衆も天を仰いだ。聖女の視線の先に何があるのかと興味を惹かれたのだ。一体感は薄れ、ざわめきが拡散していく。


「何か落ちてくるぞ!!」


 不意に誰かが叫び声を上げる。

 その意味を理解できたのか、はたまた本能的なものなのか、皆が我先にと悲鳴を上げながら逃げ出した。

 フォグは動かない。

 もしかしたら、あれこそが終わりなのではないか。

 そんな考えが浮かんだ刹那、甘美な笑みが口元に浮かんでくる。


(お母様の思惑から外れて、終わるのですね)


 瞼を閉じて息を止めた。

 次の瞬間、凄まじい風圧がフォグを襲い、ヴェールが吹き飛ばされて黒い髪が揺れた。しかし、誰もこちらを見ていない。背を向けて出口へと殺到している。

 フォグが目を開くと、巨大な黒い塊が地面に落下していた。幸いなことに光源装置の上だったため、ヒトは潰されてはいない。だが灯りを失った教壇の周りは暗くなっていた。


 そいつは重たげに身体を起こして四本の脚で立ち上がる。桁違いに大きいが犬の姿をしており、まるで影が立体になったように不思議な質感をしていた。ピンと立った三角形の耳をパタ付かせ、臭いを嗅ぐような仕草を見せる。

 奇妙なことに目も鼻も口もない。だが漆黒の体躯は明らかに何かを探していた。


「『灰人』ではありませんね? 何者ですか?」

「……」


 声に反応した黒い犬はフォグへと向き直る。

 犬の鼻先のシルエットが割れ、ガラスを砕いたかのような刺々しい口蓋が露わになる。食事のための器官には見えなかった。嗤った……ように思える。

 だが次の瞬間、黒い犬はバランスを崩して危うく倒れかけた。地面から伸びた眩い輝きが犬の前脚を斬り裂いたのである。


「えっ?」


 黒い犬は声を出せないらしく、しかし身悶えして苦痛を露わにする。残った三本で自重を支えていた。

 濃紺色のマント姿の青年がフォグと犬の間に立ちはだかる。

 フォトンを宿したガラスの剣を構え、腰にはランタンを下げていた。


(兵士? あの犬と一緒に、上から落ちてきた?)


 信じられない光景にフォグは息を呑む。

 肩越しにこちらを振り向いてくる兵士は若かった。年齢はフォグと同じくらいだろうか。


「聖女フォグ、まだ動かないで!」

「は、はい」


 反射的に返事をしてしまうと青年は笑った。大丈夫、と言外に伝えてくる。

 しかし、傍目からも大怪我をしているのが分かった。マントの色が濃くなっている部分は出血の跡だろう。頭からも出血していた。


(これで、終わったかもしれないのに)

「はあああっ!!」


 裂帛の気合いと共に青年が駆け出す。黒い犬が大きく頭を振り、青年を薙ぎ払おうとする。

 ガラスの剣が輝きながら幾重にも軌道を描く。

 犬の頭部には切れ込みが入り、ごっそりと影が欠けた。青年は勢いを止めず、残る前脚に飛び掛かっていく。

 フォグは動かない。一体、これはなんだろうと考える。


(強い。普通の兵士なら『灰人』を討つのがやっとのはずなのに…… もしかして、お姉様と同じ『天然』?)


 この場に教王を守る聖騎士がいたとして、あの青年のように得体の知れぬ化物と戦えるだろうか。どこかタガが外れているような……そんな怖さを感じ、フォグは震える。同時に胸の奥に熱いものが宿った気もした。

 争うことも許されない、強大な力へと立ち向かっていく。そんな青年の姿に心惹かれる。

 目を逸らすこともできずにいると黒い犬はもう一本の前脚を失った。刺々しい口蓋ごと頭を垂れ、地面に突っ伏す。それでも這うように巨躯をくねらせて青年を狙う。

 一旦、距離を置いた彼は肩で息をしていた。限界が近い。痛みのせいで動きも鈍っているようだ。


「今です! 逃げて!」


 青年のありったけの声量が坑内に響く。一瞬、その意味が理解できなかった。

 黒い犬は舵の役目を果たす前脚を失い、フォグへと尻尾を向けている。あれでは容易く振り向けまい。走り出せば逃げられそうだった。小さな横穴に飛び込みさえすれば、あの巨体ではまず追ってこれない。


(あぁ……)


 青年の意図は分かった。自分を逃すために戦ってくれたのだ。

 それなのに身体が動かない。

 さっきまでは動かなかったのに、今は動けない。


(私は……)


 迷いが時間を奪っていく。

 周囲には誰も残っていない。聴衆も楽器隊も逃げ出した。青年と敵と自分。

 走り出せば助かる。そうしなければ望みが叶う。

 どちらでもいい。それなのに……


「早く!」


 青年の声で我に返ったフォグは、彼に背を向けて走り出した。法衣が邪魔で足が上げにくい。裾を踏んだら転んでしまいそうだ。岩壁の横穴では、先に避難した教団の人間たちが「フォグ様、こちらです!」と手招きしている。

 穴に飛び込み、背後を振り返った。

 青年の刃からは輝きが失われ、後ろ脚だけで立ち上がった巨大な犬が倒れて込んでいく。

 最期に青年は満足そうに笑っていた。


(なんで笑えるの?)


 彼が犬の腹に潰されると場が静まり返る。皆が「早く逃げましょう」と袖を引っ張ってくる。

 そんな連中を押し除けて、濃紺色のマントの集団が飛び出していった。外殻兵士隊である。

 先頭を行く大男はフォトンを宿した剣を掲げて叫ぶ。


「ヴォイドを助けるんだ!! 急げ!!」

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