②借金に追われた男のカバン
ビルの屋上に立って、下を見てみる。
ここから落ちれば間違いなく、あの世に行くことになるだろう。
森田直哉は、まだフェンスの内側にいた。
(どうしてこんなことになったんだ・・・)
自然と涙が込み上げてきた。
直哉は化学薬品を取り扱う工場で働いていた。
実家が金銭面で苦労していることもあり、高校卒業後すぐに就職し、15年ずっとここで働いてきた。
直哉がどんな人かといえば、工場の人に印象を尋ねると、ほぼ全員が『真面目で、人当たりが良く優しい』と答えるくらい、直哉はいい人だった。
社長からも気に入られ、近々昇進する予定もあった。
大変なこともたくさんあったが、ここから幸せな人生が待っているはずだったのだ。
だが、いい人だからこそ人を信じやすく、故に騙されやすい。
あの日は、雨が降っていた。
「うそだろ・・・」
工場から帰っている途中で雨が降ってきた。
最初は小走りで駅に向かっていたものの、結構本格的に降ってきた。
このままではずぶ濡れになってしまう。
直哉は仕方なく近くにある喫茶店に入った。
からん、ころんとドアを開け、中に入ると、おじいちゃんが1人いるだけでほぼ客はいない。
いつもなら喫茶店に入るという贅沢はしないのだが、今日は仕事が終わらずパソコンを鞄に入れていたので、ずぶ濡れになって壊すわけにはいかない。
スマホで調べると1時間もすれば雨はやむようだ。
直哉はパソコンが壊れてないことを確認すると、コーヒーを注文した。
直哉が周りを少し見回していると、1人で座っている女と目があった。
少し微笑んで頭を下げてくる。
直哉も照れながら少し頭を下げる。
それが綾子、いや本当に綾子という名前なのか今となってはわからないが、綾子との出会いだった。
直哉はしばらくスマホを見ながらコーヒーを飲んで過ごして、窓の外をみると雨がやんできたようだ。
荷物をまとめて店を出ようとすると、後ろから誰かがきた。
「雨やんだみたいですね」
さっきの目があった女だった。
白い肌にくりっとした目、薄い唇にはほんのりピンクの口紅が塗られている。
長い髪は綺麗に整えられている。ベージュのワンピースも彼女の美しさを際出せているように感じた。
要は、美人だった。
「あ、そうですね」
直哉は緊張しつつも声を絞り出すと、彼女はにこっと笑った。
「駅に行きます?」
「あ、はい」
「じゃあそこまでお話しませんか?」
美人からのお誘い。
直哉は喫茶店に入った自分に心から感謝した。
この日から1年も経たない内にあの時の自分を恨むことになるのだが。
駅までの道は信じられないくらい話が盛り上がった。
彼女は、小川綾子といった。
近くの会社で働くOLで、コーヒーが好きであの店にはよく行くそうだ。
またあの喫茶店で会いましょうねと微笑むと綾子は反対側のホームへ歩いて行った。
彼女の微笑みが直哉の胸の中に残り続けていた。
それから直哉は喫茶店によく行くようになった。
コーヒーが一杯350円という安さだったので通いやすかったのもある。
それ以上にまた彼女に会えるかもしれないと思うと、つい足が喫茶店に向かってしまうのだ。
からん、ころんの音が鳴るたびにドアを見てしまう。
あれから2週間経つが、彼女はまだ来ない。
今日も来ないかなっと思って、荷物をまとめようとすると、からん、ころんとドアが開く音がした。
振り返ると彼女が立っていた。
彼女は直哉を見つけると、微笑んで前に座った。
その日から直哉は喫茶店に通うことはなくなった。
綾子と連絡先を交換し、毎日ように連絡を取るようになったからだ。
今まで彼女がいたことない直哉だったが、不思議と綾子とは話が盛り上がったし、メッセージのやり取りも終わることなく続いていく。
そしてそんな日々が1ヶ月続いたのちに、直哉が告白をして交際が始まった。
直哉にとっては何もかも初めてで楽しくて仕方なかった。
職場の人間からも「何かいいことあったのか?」とよく聞かれるくらい、機嫌がよかった。
そんなある日の深夜に綾子からすぐに会いたいと連絡があった。
急いで待ち合わせの場所にいくと綾子が泣いている。
事情をきくと、親が事故を起こして相手方に150万円支払わないといけないが、親に貯金がなく、代わりに綾子が借金しようとしたが、連帯保証人がいないと借りられないという。
「明日までに振り込まないと、訴えられてしまう・・」
綾子の大きな瞳からぽろぽろと涙がこぼれる。
「直哉さん・・・」
直哉は一瞬考えたが、貯金で150万くらいはどうにかなるし、何より綾子にこう言われてが断れない。
直哉は貯金の150万円を出すと言ったが、自分で返すから連帯保証人だけと綾子にお願いされて、翌日にはハンコを押してしまっていた。
そして翌日には綾子と連絡はとれなくなっていた。
ここからはあっという間に人生が転落していった。
「1500万!?」
綾子が借金したのは150万ではなく、1500万だった。
綾子を信頼していたので、金額をよく見ずにサインをしてしまった。
「小川さんがどこにいったかわからない以上にあなたに返してもらいます」
借金取りの男がにやっと笑っている。
ここで初めて騙されたのかもしれないと気付いた。
最初はなんとか返済をしていたものの、元々高収入ではないのであっという間に支払うのが厳しくなった。
貯金ももう底をつきている。
さらに支払いが滞ると、職場にも電話がかかってくるようになった。
職場で借金のことがバレてしまい、なんとなくみんな距離を置いているのが伝わってくる。
直哉は15年築いてきた信頼関係すら失っていることに気づいた。
社長からもトラブルは困ると遠回しに退職を促された。
警察に話しても相手にされず、もう手の打ちようがない。
そして今森田直哉は屋上に立っている。
直哉はフェンスを上り、とうとうフェンスの外側に立った。
(もうこれしかない―)
そう思って下を見た時、見たことのある人物に見えた。
(綾子-)
直哉を騙し、金を持って逃げた女だ。
直哉はフェンスをよじ登り、内側にでると、ビルの階段を駆け下りた。
ラッキーなことに綾子は信号に引っかかっていた。
声をかけようとするが、やめた。
シラを切り通されたら終わりだ。
職場なり、家なり居場所を突き止めた方がいいだろう。
直哉は綾子をつけ、職場を見つけ出した。
直哉は驚きで、腰を抜かしそうになった。
綾子の職場はあの借金をした会社だった。
直哉はこんな怒る力がまだ残っていたのかというくらい腹が立った。
なぜ自分が死んで、こいつらがのうのうと生きていくのか―
(許せない)
直哉はそのまま地元のショッピングモールに寄ると、量産されている安物の黒のボストンバックを手に入れた。
そして職場に戻って退職届を出すと、ひっそりと薬品を持ち出した。
(絶対許さないからな)
直哉は手袋をはめ、爆弾づくりを始めた。
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