偽本尊
増田朋美
偽本尊
その日はやっと秋らしくなってきて、涼しいなと感じることができるようになった日であった。しかし、風がよく吹いて、家のドアなどが、外れてしまいそうになることもあったらしい。そんな日だからあまり外へ出ることも少ないだろうなと思われたが、意外にそのようなことはなく、製鉄所に加藤美里さんが尋ねてきた。
「一体どうしたんですか。こんな日に、わざわざ車を走らせるのも大変なのでは?」
水穂さんが、布団の上におきて、とりあえず、美里さんの話を聞く姿勢になった。
「車だから、あんまり気にしなくて良いです。ごめんなさい。どうしても、相談したいことが有りまして。」
加藤美里さんは申し訳無さそうにいった。
「相談ってなんだよ。」
杉ちゃんが言うと、
「はい、実は母のことなんですけど。」
と、美里さんは言った。
「お母様って、加藤理恵さんのことですよね?」
水穂さんがいうと、
「はい、その母なんですが、私が母の会社に出勤したり、退社したりするときに、うちの主人のことを散々悪く言うものですから。」
と、美里さんは悔しそうに言った。
「うちの主人、ああ、真尋くんね。まあ、確かにお前さんたちは、言ってみれば、貴賤結婚みたいなもんだから、理恵さんにしてみたら、嫌な存在なんだろうね。」
杉ちゃんが言うと、水穂さんも、
「どこの文献でも、そういう結婚をしたら、社会的にペナルティがありますよね。」
と小さく呟いた。
「それで、真尋くんはどうしてる?」
杉ちゃんが聞くと、
「毎日、一生懸命勉強してはいるんですけど、でも、疲れてつらそうです。」
と、美里さんは答えた。
「そうなんだね。だけど勉強だけは、させてやれや。なんにもできないんじゃ、それこそ、理恵さんに突っ込まれちゃうから。」
杉ちゃんは腕組みをしていった。
「お前さんだって、加藤クリーニングの跡取りなわけだし、いまさら家を飛び出してどうのということも、真尋くんのおかげでできないでしょ。やっぱり身分違いの結婚をすると、幸せにはなれないよね。」
加藤クリーニングは、富士市内では有名なクリーニング会社だ。加藤美里さんの母親、加藤理恵さんが、一代限りで気付いた大御所企業である。美里さんは、その一人娘でもあった。
「確かに、父を早く亡くして、一人で私を育ててくれた母なので、多少私のことに口を出してくることはあるのかもしれませんが、でも私と真尋のことを、毎日毎日、ずっとグチグチいうのは、私も辛いです。」
「それで真尋くんのお母様は?」
水穂さんが聞くと、
「あたしのことは気にしないでよいと言ってくれますが、でも、母に直接やめてくれということはできないようで。」
確かにそのとおりだった。真尋くんの単心室症の治療費を払うために売春をするしかなかった真尋くんのお母さんには、それはできないだろう。
「そうか。真尋くんも就職できないんだろうし、困ったもんだね。美里さんのお母さんは、きっとお金が何でもしてくれると思っているとおもうから、真尋くんのような存在は邪魔なんだろうね。」
杉ちゃんが言ってはいけないと思われる事を言った。
「だけど、これは事実としてはっきりさせてやらなくちゃ。まあねえ、言ってみたら真尋くんは実績がないんだよな。ずっと寝たきりで勉強しているだけだからさあ。それもなんか、可哀想だけど、日本の法律ではそうなっちまうんだよな。」
「きっとそういう男性では、美里さんの事を任せられないと思っているから、そういうんでしょう。会社の経営状態はどうですか?うまくいっていますか?」
杉ちゃんが言うと、水穂さんがそうつけくわえた。
「ええ、売上は順調なんですけど、従業員さんが、最近相次いで会社をやめたんで、母は不安になっているようです。」
美里さんは正直に答える。
「はあ、それはどういう理由から?」
杉ちゃんが聞くと、
「ええ、理由はみんなそれぞれ違うんですが、母は私が真尋と結婚したことが原因だと言っています。私は、そんなことはなくて、ただ、たまたま会社をやめて行ったんだと言ったんですけど、母は不安らしくて。事あるゆえに、私と真尋の事を口に出してくるんです。」
美里さんはそう答えた。
「なるほどね。それじゃあ、会社を継いでくれそうな男を探すんだな。女では、三つ巴になっちまうし、経営の補佐役を連れてきたほうが良いだろ。誰か、いい感じのやつを連れてきてさ、理恵さんと、一緒に会社をやらせてみたら。」
杉ちゃんはすぐに答えを出してしまった。
「そうですね。ヨーロッパの王族などにも、他の国家から養子をもらうなどした例もありますし。」
水穂さんも、杉ちゃんの話に応じた。
「どうやって見つけたらよいでしょう?」
美里さんが聞くと、
「まあとりあえず求人票でも出してみれば?インターネットに載せてみるとか?」
杉ちゃんはすぐ答えた。
「わかりました。そういうことなら私、やってみます。母にもうこれ以上小言や、嫌味を言われるのは嫌なので、私が、対策しなければなりませんよね。真尋は、自分の体のことで精一杯ですから、私が、何とかしなければだめですね。ありがとうございます。」
と、美里さんは吹っ切れたように言った。
「ありがとうございました。今日は。もうどうしようか、自分でもわからなかったんですけど、2人に話をして、ほんとに良かった。」
そう言って美里さんは、杉ちゃんたちに丁寧に挨拶し、製鉄所をでていった。
とりあえずその日は、加藤クリーニングには戻らないでまっすぐに自宅へ戻っていった。どうせ戻っても社長で母に、真尋君の事を悪く言われるのはわかっていたから。その後は、いつもと変わらず過ごした。普通に、真尋君とも話をしたから、彼だって自分のことを、いつもと変わらないと思っていると思う。特に変わらないというのは、こういう時に役立つのだ。
それから数日が経ったある日のことである。
美里さんが、いつも通り加藤クリーニングに出勤すると、母で社長の加藤理恵さんが一人の人物となにか話していた。その人は、かなりキーの高い声で、ちょっと声の出し方に詳しい人であれば、なにか違和感を感じさせるかもしれない喋り方であったが、美里さんは、その時は何も感じなかった。
「それで、あなたのお名前は?」
と、加藤理恵さんがその人に言った。
「はい。須田と申します。」
と、その人は答える。理恵さんが、フルネームを紙に書いてくれというと、その人は、ボールペンを出して、須田龍子と書いた。
「すだりゅうこ?」
美里さんは思わず言ってしまう。
「いいえ違います。私の名前はすだたつこです。」
とその人、須田龍子さんは言った。
「ずいぶん言いにくい名前ね。なにか結婚でもして、やむを得ずそうなったのかしら?」
ち、理恵さんがいうと、
「いえ、生まれつきです。私は、生まれたときから、須田龍子ですよ。それより社長、本日の仕事は何をすれば良いんですか?」
と、須田さんはにこやかに笑っていった。
「ということはつまり?」
美里さんがいうと、
「ええ、今日からうちで働いてもらうことになりました。あんたにも紹介しておくわ。須田龍子さん。なんでも、あんたが出してくれた、求人票を見てくれたんですって。」
と、理恵さんはとてもうれしそうに言った。
「それでは、早速、クリーニングの仕事を覚えてもらうから、こちらに来て頂戴。一緒に仕事をして、覚えていきましょう。」
理恵さんはそう言って、須田さんをクリーニング工場に連れて行った。最近は、店舗に来店してクリーニングを依頼する客ばかりではない。宅配クリーニングというものもあるし、企業でクリーニングを申し込んでくることもある。だから、クリーニングも、時代に合わせて色々方針を変えなければ行けないのである。そういうことは、社長である理恵さんが独占することはなく、従業員にもそれを伝えることによって、会社が長続きしているのだと理恵さんは言った。母は、そういうところがすごい人だと思う。仕事面では、母は何でもテキパキとやって、尊敬できる人なのであるが、人選びという意味では、ちょっと偏りすぎているような気がする。
幸い、須田さんは、すぐに仕事内容を覚えてくれて、しっかりと仕事をしてくれるようになった。クリーニングを依頼してきた客とのやり取りも上手だった。他のクリーニング技術者たちともすぐ仲良くなれた。ときには、一緒に職人たちと酒を飲んだりすることもあったが、めっぽう酒に強い人で多少のことでは酔っ払わなかった。
「須田さんは、学校はどこなの?」
ある日、一緒に飲み会をしていたとき、理恵さんが聞いた。
「ええ?」
須田さんはわざと反応したようなふりをした。
「ああそれは私も知りたいわ。須田さん優秀で、仕事もできるから、藤高校とか、そういうところかしら?きっと成績優秀だったんでしょうね。あたしなんて、全然勉強できなかったから。」
美里さんも、思わず理恵さんの話に乗ってしまう。
「行ってないのよ。」
と、須田さんは言った。
「行ってないって、だってあれだけ仕事もできて、お客さんとのやり取りも上手なのに、学校行ってないのはおかしいでしょ。それとも海外の高校とかだったのかしら?」
と、理恵さんがにこやかに言うと、
「ええ、本当に行ってないんですよ。三ヶ月でやめちゃったんです。」
須田さんはそう答える。
「そうなんですか。そういうことなら、少なくとも三ヶ月は学校に行ってたのね。それでは、短い間だったのかもしれないけど、どこの学校に行ったのか、教えて頂戴よ。例えば、いま問題の多いと言われる吉永高校とか?」
理恵さんはそう聞いてしまった。
「いえ、違います。吉永高校は行きたかったんですけど、いけませんでした。だから私は、富士市立高校だったんです。」
須田さんは言った。
「あら、富士市立高校?あそこは珍しいわねえ。だってあそこは、もともと機械いじりが好きな子ばかり行くところよ。うちの従業員でもいなかったはずよ。だって、生徒さんの9割位は男ばっかりで、女はクラスに一人か二人くらいって聞くわよ。それとも、男ばかりのクラスで、辛くてやめちゃった?」
理恵さんは、蕎麦を食べながらそう言うと、
「ええ。まあそういうところですね。私も、機械が好きだったんですけど、確かに、女性は一学年でも私を含めてたった6人。だから寂しかったです。」
須田さんは言った。
「そうよねえ。男ばかりの学校じゃ確かに寂しくなるわ。まあ、うちは洗濯屋だから、男ばかりではなく女もたくさん依頼に来るから安心してね。ぜひ、ここで長く働いてちょうだいよ。最近の若い女の子は、すぐ働き始めても辞めちゃうみたいだけど、それはできればやめてほしいなあ。」
理恵さんがそう言うと、
「ええそれは決していたしません。」
須田さんはにこやかに言った。
「ありがとう、わかったわ。じゃあ、もういっぱいビール!」
理恵さんと須田さんは、更に酒を飲んでいた。やがて理恵さんがベロベロによってしまったが、須田さんはそのようなことはなかった。理恵さんを背負って、美里さんと一緒に自宅へ帰ることもできた。それを見て美里さんは女性にしてはよく体力があるなと思った。もし学校で、柔道とかそういうものをやっていれば、納得するのだが、行っていないとなると、なんだか不思議だった。
その日は、近所の公園で秋祭りがあった。美里さんは、理恵さんといっしょにちょっと顔を出すことになった。理恵さんが、須田さんを一緒に誘った。三人は、浴衣を着て、まつりに参加した。まつりでは出店がいっぱい出ていて、綿菓子とかチョコバナナとか、そんなものが色々売っていた。「よう!美里さん!」
そう声をかけられて、美里さんが振り向くと、杉ちゃんと水穂さんが、麩菓子を食べていた。
「ああ、こんにちは。確か美里のお友達の、」
理恵さんがいうと、
「はい、影山杉三です。杉ちゃんって呼んでね。こっちは親友の磯野水穂さん。今日は調子が良さそうだったんで、連れてきちゃったよ。」
と、杉ちゃんは車椅子に乗ったまま、頭をペコンと下げた。同時に、水穂さんが、よろしくお願いしますと言って頭を下げた。
「で、お前さん、こいつは誰だよ?」
杉ちゃんに言われて、美里さんは、
「はい、うちの会社に入社してくれた、須田龍子さんです。ほんとにこの人、仕事がよくできて、本当になんでもやってくれるんですよ。だからすごく助かってるのよ。」
と理恵さんが紹介した。須田さんは、よろしくお願いしますと言って、頭を下げる。
「はいこちらこそよろしくお願いします、と言いたいところですが、お前さん浴衣の裄が短すぎるんだ。もうちょっと大きなサイズの浴衣は手に入らなかったのか?お前さん身長何尺?多分、6尺近くあると思うけど?」
いきなり杉ちゃんに言われて、須田さんは困ってしまった。
「6尺ってなんですか?」
須田さんがそう言うと、
「何だ、尺貫法知らないの?腕の長さが一尺だ。今の曲尺だと、」
「30センチ。」
杉ちゃんと水穂さんがそう言うと、須田さんは顔を赤くした。
「なんでそんなに恥ずかしそうにするんだ。良いんだよ、だって、6尺くらいある女性は今どきならいると思うよ。そういうことなら、もう仕方ないでしょう。それなら、着物だってもうちょっと、大きなものがあると思うから、それでよく選ぶんだな。いいか、裄丈というのはな、手首がちょっと見えるくらいの長さがちょうどいいんだ。お前さんみたいに、腕が丸見えでは格好悪い。」
杉ちゃんがそう説明すると、
「そうですね。ごめんなさい。」
須田さんがそう言うと、
「いや、謝らなくていいのですから、次から気をつけてくれればそれで良いのです。」
と、水穂さんが言った。突然、涙をこぼして須田さんは泣き始めてしまった。杉ちゃんたちは一体どうしたんだと言う顔をする。とりあえず祭りの会場では恥ずかしいので、杉ちゃんたちはまつり会場から離れた遊具のあるところに、彼女を連れていき、水穂さんがお菓子を彼女に渡すと、
「いや、いりません。そんなものを食べる資格なんてありません。」
と、須田さんは言うのであった。
「なんで?」
杉ちゃんがそうきくと、
「だって、私は、自分の思い通りにするために、皆さんの事を騙して生きているだけですから、そんなふうに優しくしてもらう資格なんてありません。」
須田さんは半分涙をこぼしていった。
「それどういう意味かなあ?ちゃんと答えを出してくれないと、僕は納得しない性分なのでねえ。はじめから終わりまでちゃんと話してくれないかなあ?できるだけわかりやすく面白く頼むよ。」
杉ちゃんにそう言われて、須田さんは、しゃくりあげながら、こういったのであった。
「実は私、男子校出身だったんです。だけど、どうしてもそれができなくて、女性になる道を選んで、名前も違うものにして、容姿も声も全部変えてしまって、今まで生活してきました。私、戸籍上では、須田龍子ではなくて、須田龍介となってるはずなんです。だけど、それがどうしても嫌だったから、ここに入るときも、今まで仕事してきたときも、みなさんを騙してたんです。」
「そうなんだね。」
と、杉ちゃんは言った。理恵さんの方は、今まで騙されていたのかと怒りの顔をしていたが、
「お母さん、この人は例え私達を騙していたのかもしれないけど、一生懸命やってくれたじゃないですか。だから、許してあげましょうよ。」
美里さんは、そう言って理恵さんをなだめた。
「そうだけど、今まで女性だと嘘をついて、うちの店で私や皆さんを騙すとは、言語道断よ。それはやはりバツを受けてもらわないと。」
「そうですが、もしかしたら、本当の姿であることに彼女は苦しんでいたのだと思います。本当の姿ではなくて、偽りの姿であったとしても、それが彼女の求めている姿だったのかもしれません。」
水穂さんが理恵さんに言うのであるが、
「でも、あなたは、私だけはなく、うちの従業員や客も騙したのよ。その責任はどう取ってくれるの?」
理恵さんの表情は真剣だった。それは確かに事実として認めなければならないことでもあった。だけど、本当のことは、彼女にとって苦しいことであるという水穂さんの主張も確かである。どちらも良くないことだが、どちらも悪いことではない。
「まあなあ、確かに、理恵さんの言うことも本当だし、水穂さんの言う事も本当だ。だけど、考えてくれ。例えば、日蓮聖人だって、本尊とする宗派もあり、しない宗派もある。そういう偉いやつだって誰が真実なのかわかってないんだ。だから、男性か女性かなんて、本当にちょっとしたことじゃないか。それで良いじゃないか。人間なんてな、何でもわかるようなことはないってことだよ。」
と、杉ちゃんはでかい声でそういったのであった。確かに、杉ちゃんの言うとおりだと思ったのか、理恵さんはそれ以上何も言わなかった。
「彼女は、女性らしさをまた追求すると思うよ。だから、それを生きる目的としてもいいじゃないか。そういうやつだっているんだと思えばそれで良いんだ。それでいいと思えばそれで良い。」
杉ちゃんはそう話を続けたのであった。
「だから、彼女をこれからもずっと、お二人の会社で雇ってあげてください。お二人を騙していたことも、確かにあると思いますが、でも、それを反省することもきっとできるでしょう。」
水穂さんがそう言って、理恵さんに頭を下げた。理恵さんは、そうねと小さい声で言った。
「ばんざーい!交渉成立だ!」
と、杉ちゃんが車椅子でバンザイをする。
「それにしても。」
美里さんは思わず、一番聞きたかった事を口にしてしまった。
「どうしてうちの会社を知っていたのですが?」
須田龍子さんは、にこやかに笑ってこう答えた。
「ええ。真尋君のクラスメイトだったんです、私。」
みんな、一瞬黙ってしまったが、すぐに杉ちゃんがそうなのかといって笑いだし、やがて他の人も笑いだしてしまった。秋祭りは、その間にも更に続いていくのだった。
偽本尊 増田朋美 @masubuchi4996
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