第30話


 その夜、雪江は不安の思いで夜中まで起きていて、気絶するように眠った。寝ては起きて、たった一時かほどしか寝ていないとみるや、もう一度目を閉じて浅い眠りに入る。その間、雪江は夢を見た。五十嵐賢がシロツメクサの花畑の中に立って、泣いている。雪江は可哀想に思って近づく。「大丈夫よ」そう言って、彼の手を握る。賢は泣きはらした目で雪江をじとりと睨みつけると、雪江を突き飛ばした。雪江は草むらに倒れ、そこに四つ葉のクローバーを見つけて、賢に教えてやろうとした。振り返ると、あたりは血みどろで、賢は白い顔をし、口から血を吐いて目を閉じて、横に倒れていた。彼の胸には大きなトンネルのような大穴が空いていて、そこから血がどくどくとあふれていた。雪江は叫ぼうにもショックで声が出なくて、泣くこともできなくて、ただ、恐怖に胸がわななく。


 雪江は冷や汗をかいて目覚めると、夢であることに安心し、又寝る。


 今度は賢が自分の夫となって小さな家にすんでいた。彼は髭を生やし、コーヒーにミルクを入れて、スプーンでかき回している。

「雪江、もうじきだよ」

 彼はそう言って、コーヒーをすすった。鼻の下のひげがコーヒーでぬれた。雪江はふと、自分をみると、大きなお腹をしている。

「もうじきだわ」

 雪江は幸福に満たされながら微笑し、ペットの雑種犬をなでていた。

 不思議ね。犬なんて飼っていないのに、夢では飼っていた。

 あとは覚えていない。目覚めるとともに、見た夢の殆どを忘れてしまった。雪江は賢を愛しているのだ。彼を手放すことがどんなに辛いか。




 次の水曜日になっても賢は来なかった。


 その日以来、雪江は町を車いすでさまよいだした。近くの駅によく行った。駅前に居座って、賢が通るのじゃないかと待ったりした。外に出れば、いつかは出会える気がして、方々をさまよい歩いた。


 あるひ、雪江は喫茶店に併設した雑貨屋で、賢を見つけた。心臓が飛び跳ねるようにときめき、嬉しさに涙がこみ上げてくる。賢は一人で、写真集を手にしている。そうかと思うと、灰皿の雑貨を見て、手でいじったりしている。


「五十嵐さん」

 雪江は大きな声を出した。


 会えたことが嬉しくて、気まずさなど忘れていた。彼が生きていることも嬉しかった。

「どうして家に来てくれないの」


「あ、雪江さん。僕、すみません」

 彼は恥ずかしそうに雪江の方まで歩み寄ると、頭を下げた。


「おばあちゃんが言っていたわ。簡単に私を諦めるのは愛していないからだって。そうなの? ずっと来ないつもりだったの? 私がこうしてあなたを見つけていやだと思った?」

「そんなことありません。僕、雪江さんが嫌がると思って遠慮していたんです。雪江さんは僕を恨んでいるから……怖くて」

「怖がらせてごめんなさい。前、私はあなたを責め立てて苦しめたわね。私、意地悪だったわ。許してちょうだい。私、性格が悪いの本当よ。今まで私、自分を隠していた。真実がゴールの迷路みたいに、まどろっこしかった。それで人を傷つけるのだから、私は自分の欠点を直すように努力すべきだったわ。本当にごめんなさい。また前のように友達になれる?」

「友達ですか。ただの」

「いいえ、特別な友達よ」

「やっぱりあなたは僕のことを愛していたんですね」

「ええそうよ。ちょっと耳をかして」


 雪江はかがんだ賢の頬にキスをした。賢はびっくりして雪江を振り返る。

 突如罪悪感が雪江を襲う。幸せだ。だが、それが悪いことのような気がした。自分は賢と別れることも考えていたのに、彼がいないと自分は壊れそうだ。結局彼が欲しいから自分から手を出してしまう。


「どうしたんです」

 雪江の動揺を目の中にみて、賢は聞く。


「私、いけないと思って。申し訳なくて。小川さんに」

「そうですか。やっぱり僕をふって、諦めて、僕を不幸にすることが小川さんへの懺悔なんですか?」

「そうじゃない」

「なら僕と結婚してください。やっぱり僕はあなたを諦められない。好きです」

「私も好きなの。でも私はあなたを不幸にするかもしれない。私の品のない口があなたを苦しめることもあるかもしれない。でも私、五十嵐さんが好きです。でもやっぱり駄目よ。あなたは若い。あなたには未来があるもの自由な未来。もっと良い人が見つかるわ」

「何を言うんですか。良い人なんか何人もいりません。あなたが好き。死ぬ前に見るのがあなたじゃないと僕は嫌だ」


 雪江はふと、夢のことを思い出した。血を流して倒れていた賢。そんな未来を自分が見届けるのも、粋な気がした。


「私を守ってくれる?」

 全ての狂気から。


「いいですよ」


 彼の優しさに包み込まれる。雪江は涙目になり、それを誤魔化すように微笑した。


「僕、こないだコンテストに写真を出したんです。結果は駄目でした。でもこの結果だけみて、僕に才能が無いだなんて思いたくないんです。もっとうまくなりたい。そのためには学ぶことも必要だと思うんです。大学に行こうと思います。高卒じゃあ、給料が悪いから。将来的に、お金があれば余裕もできる。雪江さんを養える。それに旅をして写真をとることもしてみたい。大学をでて、できることを広げたいんです。視野が広がれば僕の作品にも奥行きができると思うんです」

「いいわね」

「僕って酷いでしょうか。こんな自分の夢のことなんか話して。小川さんに嘘を言って、混乱させて彼を死に追いやった。自分があんな事をしなかったら彼は死ななかった。人を一人殺しておいて、自分の夢の話をしているんですよ。恐ろしいですよ。でも、僕思ったんです。雪江さんを幸福にしようと。どんな辛いことがあっても、雪江さんを苦しめないで幸せにすると。僕の責任なんです。いわば償いです。自分のしたいようにする、都合の良い償いだけれど。変ですか? 雪江さん、僕は小川さんのなせなかったことをします。あなたを一生守ります。結婚を前提につきあってください」


 雪江は胸がふさがった。溺れているみたいに苦しい。幸せを素直につかめばいいのに、目の前にかたい壁があるみたいに、自分が出せない。心をテープでぐるぐる巻きにしたかのように、塞ぎ込んでいる。


「ああ、私、夢を見ているんだわ。私が幸せになるはずがないのに」

 雪江は小声で言うと、賢の手をとった。

「あなた私を好きなのね」

「そうですよ」

「ありがとう」

「雪江さんは僕のこと好きですね」


 雪江はくすくすと笑う。そして、引っ張られそうな黒く暗い瞳で賢を見据え、ぞっとするような病的な顔で言った。


「ありがとう。私死ぬわ。苦しくて死ぬんじゃないの。幸せで死ぬの。私、結婚生活うまくやれない気がするの。私ごときが、あなたを幸せにできないと思うの。私はいつだって人を傷つけてしまうの。馬鹿なのよ」


「死ぬなんて嫌ですよ。あなたが愚かだろうが、そんなこと気になりません。僕が幸せにするのだから、あなたはただついてくればいいだけだ」


「私の父と母も自殺しているの。私の家系なのよ。私もやっぱり死なないとだめ」


「そんなことを考えるのはやめてください。死んだって意味がない。僕はあなたが不幸になるのをみたくない」

「私幸せだわ」


 賢は涙をぽろぽろと流し、苦しげにしゃくりあげ、へたくそに泣き出した。

 雪江は彼の泣き顔を見ていると満たされていく自分を感じた。


「ごめんなさい。私死なないわ。だから泣きやんで」

「あなたが僕の目の前から永遠に消えてしまったら、僕は後を追って死にますから」


 じんと胸がうずく。

 

 じゃあ、一緒に死ぬ?

 死ねないくせに。


「さよなら」

 雪江は車いすを動かす。


 駄目だわ。私。

 首に縄が巻き付いている感じがした。もはや雪江は死ぬことを決めていた。そうするのがけじめだと思った。


「待って」

 賢が雪江の前に立ちはだかった。

「僕を苦しめるんですか。小川さんを苦しめた後、僕も同じように苦しめるんですか。あなたは死ぬつもりでしょう。僕は好きになるべきじゃなかった。僕が好きにならなかったら、あなたに惑わされることもなかった」

「まあ、私が悪いの? 私を嫌いになってもいいのよ」

「そんなことはできない」


 賢は雪江が嫌がるのも無視して、雪江の車いすを押して、彼女のマンションまで送った。

 茂がパートから帰ってきていた。雪江が賢といっしょに帰ってきたのを見て、茂は二人が仲直りしたと嬉しかった。

「五十嵐さん、あんた夕飯をうちで食べていったら」

「いや、おかまいなく。僕、もう帰りますから」


 立ち去る間際、賢は雪江の手をそっと握って、振った。

「元気になりましょう。生きている間に楽しみましょう」

「そうね」

 雪江はにこにこしている。どこか心が壊れた人形じみていた。

 賢は悲しみに顔を暗くした。

「もしあなたが死んだら、僕は火葬されたあとの、あなたの頭蓋骨を盗みます。あなたは頭がないまま墓に入るんだ。僕はあなたの頭蓋骨を毎日抱いて眠るんだ」

「ほほほほ」雪江は笑った。

「本気ですよ」

 賢は血走った目で、雪江を凝視した。

「悪いことは考えないでくださいね」


 賢が帰って行くと、雪江は満たされた心地で、ぼんやり窓の外を見る。寒いと思ったら雪が降り始めた。茂がストーブをつけた。

「おお、寒い」茂は腕をこすり、夕飯の準備をはじめた。



 幸せだ、幸せだから、私は死ぬのだ。幸せすぎて、この幸せを枕にして、私は永遠の眠りにつきたい。そうなったら、うんと気持ちいいに決まっている。美しい死が私を呼ぶのだ。


 ビニールひもをもって、雪江はベランダにでた。窓を閉めて、冷気が部屋の中に入らないようにする。花びらのような白い雪が舞い落ちている。雪江の頬を冷たく触れる。雪江は目を細めて震える。


 お父さん、お母さん、あなたたちが死んだのも同じ雪振る日だったと聞いています。


 許してね。おばあちゃん。


 胸が凍り付くように寒い。それが熱した頭を冷ましてくれるようで、落ち着いて、楽に死ねる気がした。しんみりとした別れが美しいと思った。


 ごめんね、五十嵐さん。


 私は大人のつもり。だから大人らしく、いさぎいいやり方で、自分の人生を終わらすの。


 雪は勢いよく舞い落ちる。何もかも白くする。




 雪江と別れた後、賢は雪江の不自然な笑顔を思い出し、胸騒ぎがした。もう少し、慰めるようなことを言った方がいいのではないか。彼女は死ぬことに未練があるようだ。その気持ちを取り除くように励ましてやろうか。


 賢は来た道を戻って、雪江のマンションの前にきた。雪江の部屋のベランダに何か黒く大きなものがあった。なんだろうと思ったが、さして気にしなかった。


 そして、賢は、彼女の玄関の戸をたたいた。


「はい」

 茂が出てきた。

「雪江さんは」

「雪江ー」

 茂は叫んだ。

 しかし、返事はない。


 それは、点と点が線でつながるように頭にぴんときた。

 急いで、賢は玄関に上がり込むと、走って、ベランダに出る窓を開けた。


 頭や肩に雪をのせた雪江が赤黒い顔をして、首をつっていた。悲鳴を押し殺し、賢はすぐに雪江の首にまとわりつくひもを歯を使って、引きちぎった。


「雪江さん!」

 温かい部屋に運んで頬をはたいてやると、ごほごほと雪江はせき込んで、目を開けた。

「どうして」雪江はかすれた声で言った。

「死なないでくださいよ。どうして死ぬんですか。僕があなたなしで生きられないと知っているでしょう。僕を殺す気ですか」

 賢はぎゅっと雪江を掻き抱いた。

「どうして、あんた馬鹿なことをして!」茂が横で雪江を叱りつける。

「悪いことでも悲しいことでもないのよ。私幸せよ。幸せで死ぬの」雪江は困ったように笑った。

「馬鹿ですね。もうこんなことしないでください」

 賢は雪江の頭を自分の胸に押しつけると、嗚咽をかみ殺すみたいに泣いた。雪江は彼の胸の中で幸福を感じた。死ぬことよりも生きることの方がひょっとしたら幸せなのかもしれない、そう思った。




――完――

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雪江のこと 宝飯霞 @hoikasumi

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