第29話


 いつしか週も明け、水曜日になった。この日、五十嵐賢は雪江の家を訪ねてきた。彼は何も知らなかった。無垢な顔をして現れた彼に、雪江は苛立つ。胸はわなわなと黒いもので渦巻いている。


「こんにちは」


 そういって彼は笑った。何にも知らない綺麗な笑顔を見せた。ふいに雪江の顔に暴力的な冷たい感情が顕れる。彼女はあわてて顔を伏せた。


 壊したいと思った。

 彼はなーんにも知らないんだ。


 だからその顔に暗いものを浮かべさせられたら。私のように嫌な気持ちになればいい。しかし自分の気持ちを悟られるのも怖い気がした。


 雪江はむすっとして嫌な顔をしながらうつむいて、絨毯からこぼれた糸を引っ張っていた。何かに熱中している振りをして、今の気持ちを悟られないようにしていた。自分でもまずいと思っているのだ。少しの刺激で、怒濤のように恐ろしい何かが自分の口から生み出されようとしていた。それはしてはいけないと思う。自分に禁止し、押さえてつけている。そうなることは酷くみっともない。自分は大人なのだから常識的になるべきだ。彼は若いのだ。少しくらい間違うことだって多めにみなくては。


「雪江さん、写真をとってもいいですか」


 何を急にそんな勝手なことを!! と雪江がかっとなって顔を上げると、賢は穏やかに笑って高いカメラを向けていた。


「新しいカメラを買ったんです。今まではポラロイドカメラだったんですが、将来のために冒険したんです。最初の写真をあなたで撮りたくて」


 雪江は笑いもせず、冷たく強ばったへの字口で、首を横にふる。


 ずいぶんのんきね。そんなに楽しいの? 人を不幸にしておいて、あなたは今幸せなの? ふーん、そうなの。


 舌の奥で出かかった言葉を飲み込む。大人の分別を。そう思って、雪江は自分にむち打つ。冷静になれ!


 賢はカメラのシャッターを押す。そんなこと雪江は許していないのに。


 雪江は大きく見開いた目から涙をぽろりと落とした。


 気づいて、賢は、

「どうしたんです」

と、優しく聞いた。


 もう嫌だ。


 雪江は両手で顔を覆った。そして思い切って、彼女は顔を上げた。なんともすさまじい顔をしている。


「あなた知らないのね。知っていたらそんなに平然としていられないものね。ねえ、教えたげようか。とても悲しい事が起こったのよ。あなたがこれを知ったら、きっと死んじゃうかもしれないわね。でも死ぬのは駄目よ。そんなことしたら卑怯よ。知りたいの? ねえ、知りたい? 言ってもいいの。私、つらいけれど、彼のためにもあなたがが傷つけば良いとも思うの。それはあなたの責任だわ。ちゃんと自分の言動に責任をもって貰いたいの。だから言うわね」

「なんですか、それは」

「小川さん自殺したの。あなた彼に余計なこと言ったでしょう」

「え」

「知っているのよ。本人から聞いたのだから。あの人は鬱病なのよ。あなたが、とんでもないことを言って刺激したから、彼、傷ついたの。そして、死ぬことを選んだの。あなたよくのんきに笑っていられるわね。私は彼が可哀想でならないのよ」

「もしかして雪江さんは小川さんを愛していたのですか」

「ただの友達です」

「では、僕は何も間違ったことは言っていませんよ。僕は素直なんです雪江さんは素直じゃないですね。小川さんが傷ついたのは、雪江さんの嘘に傷ついたんじゃないですか」


 賢は自分の非を認めたくなくて、罪から逃げるようなことを言う。彼はついかっとなった。追いつめられると反発したくなるのだ。


「私たち付き合っていないわよね。あなたがそのようなことを言ったから。彼はあなたの嘘に傷ついたのよ! しっかり反省したらどうなの。まあ呆れたことね。私のせいなの? これは。あなたが言わなけりゃ起きなかった事件でしょうに!」


 怒りの発作に雪江はめまいがするほどだった。


「僕は何にも間違っていないんです。雪江さんは僕のことを愛しているとばかり思っていました。この事実は間違いないと思うんです。僕はあなたの心がわかる。それは僕があなたを愛しているからです。小川さんが亡くなったのは辛いです。しかし、彼が選らんだ道じゃないですか。僕が追いつめたといえるんですか。そんな些細なことで」

「些細なこと? あなたそう思う?」

「いいえ、男女の恋愛ざたというのは引き吊りますね」

「私あなたを恨むわ」

「いずれ知られていたことですよ。たとえ違った未来があって、あらすじがどうであれ、結果は同じ事になっていたでしょう」

「どうしてそんな酷いことを言えるの? あなた血も涙もないのね」

「それは、僕一人悪いのなら落ち込みますけれど、僕だけが悪いんじゃないんですからね。仲間がいるから平気でいられるんです。その仲間とは今目の前に立っているあなたですが」

「勝手に仲間にしないでちょうだい」

「しかし、小川さんを殺したのは僕ら二人の責任でしょう。もしも責任をとわれるというのならですが。僕は仕方ないと思っています。今回のことは。彼は弱かった。それだけです」

「ふざけないでよ、あなた。本当にふざけているわ! 反省すべきだわ。私たち。しんみりと。自分を仕置きするようにきつく、心に暗闇を迎え入れるの。毎日だって泣いてやらなけりゃ……私、そうしないとすまないの。小川さんが可哀想。私たちのせいで。自分が憎い。自分が嫌い。あなただって私と同じようにすべきよ」


 雪江はぶるぶると涙に震えながら、ちり紙で鼻をかんだ。


「まああんたら落ち着きなさいよ。お茶でも飲んで少しゆっくりしなさい」

 茂は側でみていたが、雪江と賢の口論に気圧されて、何も言えなかった。やっと彼らの会話に一区切りができると思い、このさい口を入れた。


 茂は熱い緑茶をコップに入れて、皿に入れたかりんとうを添えて持ってきた。それを小さいテーブルにおいて、手招きした。


「さ、おいでなさい。食べて飲んで少し休むといい。あんたら、少し興奮しているようだからね。それはいけないよ。頭を空っぽにして、頭の働きを休めなきゃね」

「僕は……本当に小川さんに申し訳ないと思うのならば、僕と雪江さんは結婚すべきであると思います。彼が命がけで身を引いたのですから、僕たちは彼の思惑通りに結ばれるのが良いと思います。そうじゃないですか? 彼の気持ちをくむことが、今の僕たちには弔いになるんです。雪江さん、僕はあなたを愛しているんです、本当に、本当に」


 雪江は聞きたくないというように耳を両手で塞いだ。

 それを見て、賢は自信をなくして、最後の言葉は尻窄まりになった。


 地獄をみるべきだ。私たちは。いいえ、私だけでも。そもそも私がはっきりしないで嘘の心で小川に近づいていたのが悪いのだ。私が思わせぶりをしたから悪いのだ。のどがからからなのに、雪江はお茶が飲めないでいた。飲んでしまったら、なにか今の反省の気持ちがうそっぱちになると思ったのだ。


「さあ、飲みな」


 泣きそうな顔をしている賢に、茂は茶をすすめる。湯飲み茶碗を彼の顔の側までもっていく。それを両手で賢は受け取り、震える唇でお茶をすすった。ごくり、こわばったのどに音を立てて、熱いお茶は賢ののどをくだる。賢は今や恐ろしい。怒りに任せて乱暴なことを言ってしまった。それで雪江が傷ついているのは明白である。僕はどうして間違ったことを言ってしまうのだろう。発言を取り下げたい。雪江を悲しませるために僕の声はあるんじゃない。雪江を幸せにする。そうしないときっと僕と雪江の恋愛の神様は怒るだろう。賢はお茶を全部飲み干すと湯飲み茶碗をテーブルに置き、静かに雪江の方を見やった。


「小川さんは僕たちを見守ってくれていますよ」

「見守るどころか、睨んでいるに違いないわ。本当に酷い」


 誰にともなく酷いと非難の言葉を口にすると、雪江は眉根にしわをよせて、苦しそうにうつむいた。彼女は考えている。死ぬこと!


 こんなに辛い、こんなに苦しいのに、雪江はどこかに救いを求めている。賢が絶対的に自分を守ってくれたら、もしかしたら、今の苦しい気持ちは和らぐ。ずっと好きといってほしい。悪いのは自分だと雪江にかわっ全てを引き受け苦しめばいい。引き寄せるように体を抱いて欲しい。そして二人で修羅の道を歩むのだ。そうやって逃げるのだ。自分の罪の気持ちから。わがままに騒いで、自分を傷つける雪江を止めて欲しい。そんなことするもんじゃないと一括してほしい。そうすれば余計に誰かを傷つけることはないから。むやみやたらに刃物を振り回さなくてすむから。


 しかし、賢は雪江の怒りに気圧されて、黙り込んだ。彼はもはや泣く寸前であった。自分は一生雪江を笑顔にできない、そう思った。


「今日は帰ります」

 賢はやっとそれだけ言うと、背を向けて荷物をとった。


 雪江ははっとした。今更ながらに、言い過ぎたと思った。どうしてこんなことに。そうするしかないと思ったのだ。そうしないと小川の魂が浮かばれないと思ったのだ。しかし、それは小川のすることであって、雪江のすることではない。汚い言葉でののしった自分が恐ろしい。必要以上に自分は罵っていた。それがひどく嫌らしい。自分に吐き気を覚える。


「帰るの?」

 雪江は寂しげに言った。子犬のように彼女は両目を潤ませた。


「はい。また来週来てもいいですか」

「駄目」

 ひやりと腹が冷える。素直になれなかった。反発を続けないと自分が壊れる気がした。


「なら、もう来ません」


 そういうと、静かな足音を立てて、賢は帰って行った。玄関の扉が優しく閉められる音を聞くと、雪江はわっと泣いた。自分はどうして、優しくしてやれなかったろう。小川のためと意地を張って、賢を傷つけて、彼を傷つけることで小川の復讐をしていた。しかし、そんなことを小川は望むだろうか。それに間違っている。傷つけるべきは、小川を騙していた自分なのだから。


 賢は怒って行ってしまった。もう帰ってこない。終わったのだ。


「あんたは嫌な女になっていたよ」

 先ほどの態度を茂はとがめる。


「知らないわよ、そんなの」


 雪江はかりんとうを一つとって、しゃぶった。別に食べようと思っていなかったのに、普段していないことをしたくなった。食べることを引き寄せて、自分に刺激を与えたかった。黒糖が溶けて口の中に広がる。その甘みにいやされ、脳がしびれる。雪江は何だかいらいらして、かりんとうの入った皿を払い落として、ぶちまけたい衝動に駆られた。皿が激しく割れる音が鳴ったらどんなに小気味良いだろう。



 死にたい。


 コンクリートに頭をぶっつけ、自分なんて、ぐちゃぐちゃに砕けてしまえばいい。



 雪江は先のない足をむやみにもみしだき、思い立ったように仏間まで這っていくと仏壇の前で線香に火をつけ、手で仰いで煙にすると、手を合わせた。


 お父さんお母さん、私にもう一度死ぬ勇気をください。死ぬのは怖い。でも、そうするのがいいのなら、死ぬことで責任をとりたい。


『そうやってあなた逃げるの。いつも逃げてばかり。一つだって解決するまで辛抱して最後につき合えない』


 母の声が聞こえた気がした。あるいは父の声であったかもしれない。


 私、私、こんな恥辱を感じていて、生き続けるなんてできない。愚かな心。口から出る言葉も悉く品がない。賢はもう家に来ないだろう。私は自分の愚かしさのために大切な人を失った。そんな冷たいだけの人生に耐えられるはずがない。今死んで、全てを無くしたい。間違いを無かったことにするには死ぬしかない。死が、傍らにあった。それは雪江を迎えるために笑って手を広げている。ああ、飛び込めばいいのだ。すぐに。でも一度死に失敗したときの痛みを思い出し、雪江は躊躇した。


「私言い過ぎたわ。もしかしたら五十嵐さん、傷ついていて、自殺なんてしないでしょうね。私なんかの品のない言葉に思い詰めて、大切な命をなくすなんてことないかしら。私、こうしちゃいられない。すぐ謝りに行かないと。でも、私は彼の家をしらない。いつも彼の方から会いに来てくれるから。どうしよう。謝らないと。私が本当は全て悪いのに、彼のせいにして責め立ててしまった」


 罪に耐えられなかった自分の甘さを今は恥じる思いである。私は馬鹿だ。気持ち悪いことをしていると思う。謝って許して貰ってどうするというの。また仲良くするの? いいえ、私は五十嵐さんの隣に座っていい女じゃないわ。


「私が悪いのだから気に病まないで。私はあなたに相応しくありません。これを気に別れましょう。もう会わない」


 そんなことを言う予行演習をして、失敗に打ち倒れそうな弱い自分を慰める。顔を覆えば、自分が透明人間になる気がして、雪江は両手で顔を覆ってみる。消えたい、そう思うのに、ふすまの隙間からおそるおそる自分を眺めている茂に気づいて、透明になどなりやしないのだと急に馬鹿らしくなる。


「昔からだわ。私。ちょっと引っ込んでいる間に変わったかと思ったけれど、前とちっともかわらない。吐く言葉にとげがあって、人を傷つける。人のせいにすれば、自分が悪くならないとでも思って居るみたいに、ぽんぽん下劣な言葉をはいて、雰囲気を汚して、私はいったい何様なの。本当に嫌だ。私は自分が本当に嫌だ。自分なんて死ねばいいのに。そしたらこの汚れた世の中も少しは綺麗になるでしょうに」


「そんなこと言うもんじゃないよ。自分を大事にしないから他人も大事にできないんだよ。あんたは」

 茂が息を漏らすように小声で叱った。


「ねえ、おばあちゃん、失敗した後、人はどうすればいいの」

「しっかり反省して、また同じ失敗をしないようにするんだよ」

「でも、私には次はないわ。五十嵐さんはもうここにはこないし、私も会いに行けない。会いたくても居場所を知らない。反省したところで彼は何も知らないんだ」

「大丈夫よ。五十嵐さんは来るよ。毎回続けていたことをいきなりやめられるかい」

「でも、私、きつく言ったから、怒ったと思うの。だから彼、愛想を尽かしたと思うの」

「あんたのことを愛していない人はそうだろうさ。簡単に諦める。でも彼は、あんたを愛しているんだよ。そう簡単に離れられやしないさ」

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