第28話
賢は激しい苛立ちにおそわれていた。憤怒の吐息を漏らして、壁でもなんでも堅いものを殴りたくなる。
「小川」
雪江が言ったその男のことが気になる。雪江は賢を愛している。なのに、どうして他の男が好きだと言うのだろうか。両思いで幸せになるのが彼女は苦痛なのだろうか。
知らない内に雪江の内部に踏み込んだ小川という男が、賢は憎かった。どんな男だろう。
水曜日、雪江に会いに行き、彼女からは無視されて、茂に慰められ、なんとも寂しく惨めな思いをした日、その帰りに賢はふと思いついて、三階にエレベーターで上がっていった。そして、小川の表札を見つけると、憎しみに燃えながら、呼び鈴を押した。もう雪江さんに近づかないでくれ。そう言おうと思った。彼が邪魔しているから、雪江が賢を遠ざけようとしているのだと思っていた。だから、賢はなんとしても二人の仲を裂かねばならなかった。
「はい」
小川が出てきた。頬のこけたやせた男である。真っ黒い洞穴のような、妙に引き込まれそうな目をしていた。
「小川さんですか」
「そうですが」
「あの、雪江さんって知っていますか」
「知っていますよ。時々家に遊びに来る」
「雪江さんはあなたを好きと言っていますか?」
「いいえ、まだそこまでは」
「じゃあ、勘違いしないようにお願いします。雪江さんは僕が好きなんです。僕ら付き合っているんです。邪魔して貰っては困ります。今後は雪江さんとの交際を謹んでもらいたいんです。いいですか?」
「は? なんと」
「僕は五十嵐賢といいます。僕の言ったことが嘘と思うなら、こんど雪江さんに会ったときに、五十嵐賢のことを好きか聞いてみるといい。もし彼女の顔が赤くなったら、それは僕が正しいからです。あなたも雪江さんを愛しているんでしょうが、もうやめていただきたいんです。手を出さないでください。お願いします」
「君は学生かい?」
小川は制服姿の賢をみて勝ち誇ったように言った。子供だと思ってみくびっているのだ。
「そうですが、年齢なんて関係ありませんよ」
「雪ちゃんと僕は順調に交際していると思う。君と雪ちゃんが付き合っているなんて信じられないね」
「ところがですよ。僕らは愛し合っている写真だって撮った仲です」
賢は雪江と写ったぼやけたポラロイド写真を胸ポケットからだしてみせた。
「いつからのつきあいで?」小川は若干動揺しながら言った。
「ずっと前からですよ」
「雪ちゃんが君を好きなんて、そんなの間違いじゃないかな。もちろん友達としては好きだというのはありだと思うけれど」
「雪江さんに近づかないでください。彼女迷惑しているんで」
「近づくも何も、彼女が遊びに来るんだ。僕の方からしかけたのではない」
「本当は僕の事が好きなんですよ。でも恥ずかしいのか、僕のことを好きじゃないみたいな態度をとるんです。あなたの家に通うのもカモフラージュです。自分の心を隠しているんです。彼女が隠していても僕にはばればれです。彼女は僕を好きだ。間違いない」
「好きじゃないみたいな態度をとるのは本当に好きじゃないからじゃないかな」
「そんなことありません。僕のことを今度雪江さんに言ってください。激しく動揺するでしょう。彼女の顔色がお弁に語るでしょう」
「なんだかわけがわからないよ」
小川は下唇をかみしめ、ぼんやりと足下に視線を落とした。
「言いたいことはこれだけですから。では」
賢はマンションから去っていったあとも変に興奮していた。身を締め付ける蛇みたいな激しい嫉妬の気持ちで頭がどうにかなってしまいそうだ。ただ純粋に、自分のたてた仮説にすがり、気を落ちつけようとする。
大丈夫だ。雪江さんの好きなのは僕だ。
しかし、そうでなかったら。どうする。そうしたら僕は……諦める。そして、死ぬ。
上を向くと、眩しい電灯の明かりが目をついた。この光が天国の光だったらと、あの世といった世界にいく自分を想像して、憂鬱になる。
「この間五十嵐なんとかという子が訪ねてきたよ」
小川は、傍らで小説ノートを読んでいる雪江に唐突に言った。
雪江はノートから顔を上げ、ぎこちない笑みを浮かべていった。
「彼なんて言ってました?」
「何でも君が彼を好きだとか。両思いだとか。嘘だろうけれど、つきあっているんだとか言って。でも君はそんなつもりはないんだろう? 相手は若い学生だ……」
「本当に何を言ってくれたんだろう」
雪江の耳はほんのり赤くなり、可憐であった。小川はそんな雪江をみて、不安に胸が震えた。
「雪ちゃんは彼が好きなの?」
「いいえ」
雪江は無理に笑って、さらに顔が真っ赤になる。両目に涙をためて、ノートをもつ手は震えている。
「震えているよ。何がそんなに怖いんだい?」
「別に怖い事なんてないわ。馬鹿馬鹿しい」
「雪ちゃん、僕は君が好きだ。雪ちゃんは僕をどう思っているの?」
「……好きですよ」
「本当に?」
「ええ」
「嘘をついたら僕は……」
「私、あなたとなら結婚してもいいと思っているわ」
雪江は怯えた子供のように顔を歪めて気味の悪い笑みを作った。
「君は、君は、嘘をついているな」
「そんなことないわ」
「わかった。君が何を考えているか。あの子の言うことは本当だった。君は僕のことなんか、全然愛していない!」
「どうしてそう感じるの?」
「君が嘘をつく人の顔をしているからさ。どうして赤くなるんだい。五十嵐なんとかと両思いで嬉しいのか? 僕と結婚したいといった口で、顔は嫌そうだ。実に嫌そうだ……君は僕に脅迫でもされているのかい? 僕は君が嫌ならそれでいいんだ。しかし、君は何のつもりで僕の心に入ってきたの? 僕をもっと、もっと苦しめるためか? 僕は騙された」
雪江は面目なくて、うつむき、顔を上げられない。自分がひどく下品な顔をしていると思って。
「帰ってくれ。そして、もうここに来ないでくれ」
「ごめんなさい、ちがうの」
「出て行ってくれ。僕は……一人になりたい」
雪江は家に帰り、居間に座り込む。両手に顔を埋め、うめき声をもらす。
私はいやらしい。酷く汚い女だわ。
純粋な彼を騙して、結婚したいだなどといとも簡単に述べて。嘘をついたのよ。彼にわからないと思って、でもお見通しだった。私はどんなにいやらしい人間に見えたろう。彼は怒っていた。傷ついたんだわ。彼の好意を利用して、逃げた自分はなんて愚かなことか。
謝らなきゃ。
私の罪を認めるのよ。
でも、だからって、賢と付き合うのではない。できることとできないことがある。世間体をみるのよ。
私を理解してよ。
ブロックがはまらないの。ちゃんと正しいところにはまらないと。
諦める諦める。
賢のことは諦める。
そうすることが良いと思ったの。だから正解だろう道に進もうとしたの。何も騙すつもりはなかったの。
小川に言うのよ。
世の中にできないこともある。好きだからといって一緒になるのが正解じゃない。私は現実的な考えで小川を選んだのだ。
それが悪いことなら、私が悪いわ。私の責任だわ。私を嫌いになってくれていい。
でも、私の弱い心も理解して欲しい。
「小川さんベランダで首つって亡くなったそうよ」
明日謝りにいこうと雪江が思っていた最中のことだ。
茂はパートから帰ってくるなり悲しそうに興奮した口振りで言った。
「さっき外に救急車が来ててね。もうだめだって。顔が青白くて、もうだめだったみたい。道を歩いている人が首つっている小川さんをみつけて通報したって」
「なんで」
雪江は絶望し、一瞬息が止まった。
「可哀想にね。せっかく一度は命を救ったのに。それでも駄目だったのね」茂は言って、買い物袋をダイニングテーブルの上においた。
「あんたも仲良くしてたのにねえ」
「どうして!?」雪江はようやっと息をすって吐いて、言葉を絞り出した。
「なんで、どういうこと」
雪江がふいに赤くなったとき事情も知らずに喜んで笑っていた小川の顔、全てを知られて、雪江が後ろめたさに赤くなったときのショックを受け青くなった小川の顔、そんなことを思いだし、本当に自分が大嫌いになった。雪江は胸を引き裂かれる思いがした。騙されて傷ついて小川は死んだ。自分のせいだ。私が彼の気持ちを利用し、逃げ場にしようとしたせいだ。彼の純粋な心にシミを、黒いシミをぬりつけてしまった。
雪江は、わっと泣き出した。許せない。自分の卑しさが許せない。取り返しのつかないことになった。自分だけ攻めるよりも誰かのせいにするのが楽だ。雪江は賢のことを考えた。彼がよけいなことを言ったからよ。両思いだとか言って、誤解されるようなことを吹き込むから悪いわ。そう怒りをにじませてみても、小川の死んだ事実を覆すことはできない。
雪江はぶるりと震えた。
いいえ、全ては私のせいだわ。五十嵐君は事実をいっただけ。私が小川さんを騙して取り入ったのだから。ああだから私は幸せになっちゃいけない。こんな酷い人間は惨めな一生を送るべきよ。私はうそつき、卑怯者。死んだ方がいい。私なんて。私なんていなくなってほしいってみんなが思っているわ。私を知った人はみんなそういって裁くのよ。
雪江は涙にむせび、息を詰まらせた。
「おばあちゃん、私酷いことをしたの。小川さんに。だから彼死んだの。私死んだほうがいいよね?」
「おやおや、いったい何をしたっていうの。何をしてもあんたが死ぬ理由になりますか」
「私、小川さんの気持ちを利用して、自分の本当の気持ちを押し殺していたの。私の秘密がばれないように、小川さんに近づいて、小川さんの心をもてあそんだの。私全然意識していないのに、小川さんにあなたと結婚したいといったの。そんなつもりもないのに。そういわないと自分の正体に殺されそうだったの」
「小川さんが死んだのはあんたのせいじゃないよ。色々な問題がからみあったのよ。いろんな要因で死ぬのよ。あんたが悪いことをしたからって、それだけの理由で死ぬわけがないんだ」
「でも、私……」
雪江は青くなりぶるぶると震えていた。
自分なんか死んだ方がいい。こんな嫌な奴なのだから。心底そう思って、雪江は自分自身を憎んだ。祖母の慰めに弱気な自分は心を動かされるも、そうして、罪を全部小川のせいにして他人事にしようとする自分に気づいて情けなくなる。馬鹿でどうしようもない自分が酷く嫌だった。
「そう、遺書、遺書はあったのかしら」
雪江は恐怖に襲われながら言った。
「私のことを書いてあるかもしれないわ」
もし小川の言葉で決定的に雪江を裁くことがかかれてあったらと思うと、雪江はぞっとする。そんなことされたら、雪江はあまりの罪深さに心が壊れるかもしれない。
「気にするんじゃないよ。雪江。あの人がそんな女々しいことするものですか。もし書いてあってもあの人は病気だったのだから、何も真剣に思い詰めることはないよ。きちがいの言うことなんか……」
雪江は顔をくしゃりと歪めた。世界が瞬く間に暗くなった。断崖にたって、今にも背中を押されようとしているみたに、恐怖が、雪江を苦しめた。
「私ほど悪い女はいないわね。私が自殺に失敗したとき、あのとき死んでいれば良かったのよ。電車に首を跳ねてもらえばよかったのよ。とんだ死に損ないだわ。私、他人を傷つけるような人間だってわかったときに、全て諦めるべきだった。また同じようにひとを傷つけて。なんて愚かなのだろう。ああ、小川さん、ごめんなさい。私なんかに振り回されて、小川さんが可哀想だ」
雪江は布団の中に潜り込むと、うわーんと泣いた。布団の中に隠れたのは、祖母から泣き顔を見られたくなかったからだ。そんなことをして同情されたくなかったからだ。
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