第27話


「君は知的だなあ」


 ある日、小川は自分の家に上がり込んだ天使、もとい、雪江に言った。


「君のおかげで書く作品の出来がよくなっているよ。僕一人では駄目だった。人に見せるのが良いとわかったよ。それも君のような頭の良いひとに見せるのがいい」


「私頭なんてそんなに良くないのよ。でも、小川さんだって素直で向上心があるからうまくなるんだわ。自分でどうするべきかちゃんと知っていて、その方面に行くのがうまいわ」


「僕最近変わったことがあるんだ」

「なあに」

「小説にさ、意地悪な奴ばかりじゃなく、心底純粋な透明なきれいな心を持った人物を一人だすようにしているんだ。すると僕はすごく安心するんだ」

「それは小川さんの理想が存在するからよ。理想を目の前にすると気分がいいもんだわ」

 雪江はそういいながら、ふと五十嵐賢の微笑む横顔が頭をよぎった。そして、その想像を必死に頭から追い出した。


「どうしたんだい、そんなに顔を赤くして」小川はからかうように言った。

「あら、私、赤くなっているかしら。暑いんだわ」


 小川は嬉しそうに微笑んでいる。彼は自分を彼女が好いていると勘違いして、気分が良くなっていた。


「僕も君みたいに顔が赤くなっているだろう?」

「あ、ほんと。赤い」

 小川の純粋な笑みに引き込まれて、雪江も笑ったが、すぐに罪悪感が胸を突き刺した。彼は恋に雪江を引き込もうとしている。雪江はどちらかといえば嫌だった。彼とは友達としか思えない。しかし、小川に期待されるほどに雪江は逃げ道がなくなっていくようだった。


 自分の心を殺して。


 雪江は思った。

 彼を、小川を愛してしまえば楽だわ。私たちが結婚すれば、五十嵐さんはあきらめてくれる。


 雪江は表情を奇妙にゆがめた。


 結婚するなんて! そんなことができるの? だますことになる。でも黙っていれば、ばれやしない。私の心の気持ちなど誰が気づくものですか。

 結婚!


 そんな考えは先延ばしにして、雪江は頭を空っぽにした。目の前を適当に泳いでいる。とらえられないようにすいすい上手に避けて泳ぎながら。


 それでよかった。その方が幸せだった。ただ何も考えず生きるのだ。何かが決まりそうになるとすっと体を離してうまく逃げるのだ。




「雪江さん、僕のこと嫌いじゃないんでしょう」


 ある日、五十嵐賢は雪江の家をたずねて、茂がトイレにたったすきに雪江に話しかけた。彼の目は涙で潤っていた。そして、声は弱々しく震えていた。せっぱつまった何かを抱えている。そう思った。何か虐めるようで、雪江は悪いことを言えやしないと気を張った。


「友達として好きよ」


「それ以上でしょう。僕のこと特別に思ってくれているんでしょう?」

「さあ」そういいながらも、雪江は真っ赤になった。

「ほら」

 賢は勝ち誇ったように笑った。雪江が赤くなるのは自分を好いているからだと思ったのである。

「逃げないで僕の胸に飛び込めばいいですよ」

「馬鹿にしないで。私好きな人がいるの」

 雪江は相手に言いくるめられないように急いで言った。

「誰ですか相手は」

「三階の小川さんよ。彼も私が好きなの」

「あなたは僕を愛してるんですよ」

「違うわ。もうやめて帰って」


 茂がトイレから戻ってくると、賢は何か言い掛けていたのをやめて、口をつぐんだ。


 なんてことを言うんだろう。


 雪江は自分の軽い口を恨んだ。好きじゃないのに好きだっていって、何か誤解でも起こったらひどいわ。しかし、そういうしかなかった。近づいてくる賢を遠ざけるためには!


 その後、賢は茂とたわいない話をしながらも、時々、目配せするように、ちらちらと雪江の方をみた。


 雪江は視線を感じながらも、その方をみないようにして、テレビを熱心に見ているふりをした。ああ、横目に感じているのだ。賢が顔ごと雪江の方を向いている。寂しそうに、心細そうに、雪江が何か言うのを待っている。言わなくても視線だけでも投げるのを待っている。愛の証拠を必死に拾おうとしている。だが、雪江は心に固く誓ったのだ。自分なんかのつまらない存在のせいで、賢の未来をつぶしてしまってはいけない。彼にはもっと若い、同世代のきれいな女の子がお似合いだ。自分なんか死に損ないのおばさんだ。周りも雪江に間違いをただすように言っているのだから。そうあの女学生のことだ。いつか言われた。私は賢にすがらない。子供にすがらない。眩しい彼のところよりも暗い方へ落ちていく方が楽だ。それにそうすることに反対する人は誰もいない。




 自分をいじめているんだろう?


 

 きれいな水と一緒に両手で掬ったのに、するりと指の間から逃げていく魚だ。私を捕まえることはできない。私が良いと思う方に私は動くのだ。大切な人の言うことほど、私は反感を覚える。誰も私を止められない。

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