第26話
水曜日になって、賢が訪ねてきても、雪江は知らん顔をしてじっとしていた。その方が良いと思った。もしかしたら、自分に興味をなくしてくれるかもしれない。その方が彼にとっていいのだなどと考えたりして。
賢は茂に出されたお茶を飲んだりして、居座っていたが、雪江の冷たい態度に居心地が悪くなって、すぐに帰って行った。
「ちょっと可哀想だよ」茂はそういったが、雪江もそんな気持ちがしたが、どうすることもできない。彼には未来がある。私にはないのだ。私なんかに関わっているとろくな事にはならないんだから。
「小川さん退院したそうだよ」
救助されたときの迷惑をかけたからと小川からお菓子の包みをもらって、茂は言った。
「さっきエレベーターで会ってね。お菓子をもらったの。あんたも一つくらいは食べなさい」
「そうなの?」
雪江は胸がわくわくと踊った。
「私、お礼を言いに行くわ」
彼が死のうとしたことに雪江は興味がある。彼に近づいて話が聞きたい気がした。何か、深い何かを得られるような気がする。
こんなにも雪江を行動的にするのは、彼が自分と同じだからだ。同じ気持ち。慰め合いたい。
手ぶらでは申し訳ないので、雪江は茂が作ったカボチャの煮物をタッパーにつめて持って行くことにした。
「一人で行くわ」
そういって、雪江は車いすを器用に動かして、三階の小川の部屋に向かった。
「はい」
呼び鈴を鳴らすと彼は出てきた。松葉杖を突いている。右足にギプスをしている。それ以外は怪我はなさそうだ。
「同じマンションに住んで居るものです。雪江と申します。私が一番最初にあなたの飛び降りたのに気づいたんですよ。傷は痛みますか? よかったらカボチャのにたのを差し上げますから。食べてください」
小川は暗い瞳でじっと雪江の顔を見据えた。それから、ゆっくり手を差し出した。雪江はその手に、カボチャの煮物のはいったタッパーを押しつけた。
「どうも」
小川はそっけなくお礼を言った。彼からは一向に話をしようとしない。なんかヘンな人だわ。しかし、雪江は自分次第で彼の心が開くと思い、話しかける。
「死ぬのが失敗に終わって嬉しいです。こうして私はあなたを見つけて、出会えたのですから。私も昔死のうとしました。でも失敗して、こうした哀れな体になってしまいました」
「あなたも?」
小川は目を見開くようにして息を飲んだ。
「私たち、同じです。これから仲良くしましょう」
そんな積極的な言葉が言えたのは、そこに逃げ道を見つけたような、妙に勢いづいた心からである。小川との出会いで、五十嵐賢とのことがないものになる気がした。小川に近づくことで五十嵐賢がずいぶん遠くに離れていく、そんな算段があった。
「どう仲良くするんですか。次の自殺の時に一緒に死のうってんですか」
小川は馬鹿にしたように言った。
雪江は小川の冷たい口調にむっとしたが、彼は暗い気持ちに落ち込んで、とげとげしくなっているのだからと心を落ちつける。彼は可哀想なのだから。優しくしてやらないといけない。自分を苦しめるためにわざとぴりぴりした人を遠ざけるようなことを言うのだ。
「そうじゃありません。同じ気持ちをもつもの、すなわち仲間です。私たち仲間なんですよ。世の中に自分のようなものは一人きりだと思うのはあまりに寂しいでしょう。他に仲間がいると思えば、気持ちもだいぶ楽になると思うんです。現実と戦うのは自分一人じゃない。他にも同じような人がいる」
雪江は熱くなり、瞳を潤ませた。自分の言ったことがうまく伝わらないんじゃないかと不安になった。
しかし、小川は微かにうなづくと、雪江を家に引き入れようと体を横にずらし、
「少し入りませんか」
男の人の家に女一人で入るなんて、危うい気がしたが、彼もけが人でたいした事もできないだろうと高をくくって、雪江は車いすを降り、床をはいずっていった。
「むさ苦しいところですが。気に入らないと思いますよ」
小川は杖をつきながら、ゆっくり雪江を居間に通した。部屋に入るとそこはゴミ屋敷のようにいろんなものが散らばり、積み重なりしていた。服が投げやりにそのへんに放ってあり、本のタワーがいくつもできてあり、崩れて散らかっているのもあり、ビールの空き缶が散乱し、食い散らかしたコンビニ弁当がそのままである。
「片づけられないんですよ。僕。むしろ散らかっている方が気分がいい」
小川は荷物を脇に寄せ、人の入るスペースを作ると、そこに雪江を座らせた。雪江は、壁のところを黒い虫が張ったような気がして、ぞっとした。
「ずいぶん良い部屋ね」
「そうでしょう。一番落ち着きます」
雪江はふと横をみて、ノートの束を見つけて、あらっと思った。ノートの表紙には小川全集一などと手書きでかかれている。
「これは?」
「僕が書いた小説です。僕が死んだ後きっと発掘されて有名にでもなればいいんですが。生きている間はなかなか芽がでないんで。きっと死んだら有名になるんですよ。そこにためておくんです。いつかのために。僕は自分ではおもしろいのを書いていると思うんですけど、編集はみとめてくれないんです。運が悪いんです。だから、死んでから有名になるんでしょう。まあ自分では良いと思うんですが、他人にしたらつまらないものですよ」
「本当? ちょっと読んでも良い?」
「いいですよ」
小川は真新しいノートをとると、そこに文字を書き始めた。
雪江は全集ノートを一冊手にして、ぺらりとめくってみる。あまりきれいじゃない字が並んでいる。読んでみると、それは憂鬱な話であった。雪江は気持ちが沈んでしまった。どうしてこの人はこんな暗い話を書くのだろう。何がそんなに嫌なのだろう。女にでも手厳しく振られたのだろうか。
「小川さん、あなたなぜ自殺しようとしたの?」
「運が悪いからですよ。宝くじも小説も当たらないし、誰にも認めてもらえないと自分がちっぽけだと気づいたからです。嫌なんです、僕。現実が僕にだけに向ける冷たい面が」
「冷たい面?」
「僕フリーターなんです。簡単な仕事でも僕はミスする。迷惑をかけすぎていづらくなると辞めて、いろんな仕事を点転としてきました。学歴もなしに僕の働ける職場は今はもうないですよ。この付近には、全部やりました。でも僕は無能なんですよね。女に生まれていたら良かったんですが、せめてあなたのような美人に生まれていたら働かないで主婦になっていましたよ」
「あら、私美人じゃありません」
「まあ、男は生計をたてなくてはいけませんから、難しいものですよ」
雪江は本を一冊読み切ると、いつの間にか外は夕暮れである。
「おもしろかったです。暗くて憂鬱で、死にたくなるような話です。それが良いですね。雰囲気を感じます。でもどこかに救いをかけたら、もっと良くなる気がします。出版社に投稿するなら一般人の目に入れるなら、そうしたほうが良いと感じます。ごめんなさい。調子に乗ってヘンなこと言ってしまって。気にしないでください」
雪江は小川の真剣な暗い憂鬱な目を目の当たりにすると、狼狽えて自分の意見を引っ込めた。
「救いですか」
「……はい。でもそんなのなくても十分良い作品だわ」
「いえ、考えてみましょう。今まで暗い縁にのめり込むことばかり考えていましたが、救い、ですか」
「そう。そうしたら、ヘンなことですが、きっと良いものが書けますよ」
「でも、救いといってもわかりません。僕自身救われた経験に乏しいので。どんなのを書けばいいでしょうか」
「そうですよね……ええと。そうです、なにか主人公に幸福を与えるべきです。自分がされたら嬉しいというような。小川さんは何をされたら嬉しいですか?」
「僕ですか。僕は、社会の陽の芽をみることです」
「じゃあ、そういったことを書けばいいんではないでしょうか」
「同情した他人に思いがけなく幸運を橋渡しされるとか?」
「そうですね、努力してきた何かが報われて幸福になるとか」
「ああ、はい、はい。わかりました」
小川は渋い顔をして、
「努力したって報われませんよ。そんなの嘘です。僕は現実を書きたいですね。やっぱり」
「我を張ると売れません」
「僕の芸術なんです」
「それなら、芸術を極めればいいわ」
「でもそうしたら売れないんでしょう」
「売れっ子になりたいのなら、売れる話を書くしかありません」
「僕は、僕は、自分の芸術を極めてから死んだ方がいいな」
「あなたの芸術は、あなたが死なないと完結しないんですか?」
「そのほうがロマンチックだと思うんです。悲しみが僕を幸福にするんです」
「ああ、私もそうでした」
雪江は感極まって、じっと小川の両目を見据えた。潤んだような媚びるようなそんな目で、雪江は小川をみたのだ。
小川はどきりとした。後ろめたい感情を顔に表した雪江は凄いほど美しかった。
「今度死ぬときはあなたにお知らせしましょうか」
この言葉は小川なりのくどきもんくであった。
「知らしてください。そうしたら、私あなたを止めますから。なぜって? それは、あなたが陽の目をみない内に死ぬのが嫌だからです。小説を書き続ければ、いつか認めてもらえるわ。だって私もおもしろいと思うんですもの」
「そうですか、そうですか」
小川は満足したようだった。
「臭くありませんか?」
「え?」
「ここ。ゴミがたくさんあるでしょう。こんな暑い日に連れ込んですみません」
急に小川はこの美人を苦しめるのがつらくなった。良い子だ、小川は雪江に対し、そう思った。嫌じゃ無かろうか。こんなところに来て。
「クーラーをつけていますが効きが悪いんです。ほら、ものがたくさんあって。食べ物もすぐ腐ってしまうんですよ」
「腐った食べ物だけでもゴミにだしたらいいですよ」
「そうですね。でも面倒で」
「今は気分が落ちているからやる気が出ないんだわ。誰も認めてくれないと投げやりになっていたんでしょう。でも今度からは違います。私があなたの才能を認めたわ。おもしろいわ。凄く暗い小説だけど、私は好きです。私の恥ずべき昔を思い出します。あのころの暗い気持ちをふと思い出すと、死にたくなりますが、それが心地良いです。私が認めたのだから、続けてください。私があなたのフアン一号です。ほら、少しは気分が良くなりました?」
「うん。僕、頑張ろうかな」
雪江と小川はそれから何度かお互いの家を行き来した。そこで語られるのは、小川の小説についてである。雪江は、何十年もため込んだ小川の全集ノートを一つづつ読んで、感想を言った。小川はやる気がでた。そして、どんどん明るくなる自分に気づいて、小川は雪江に恋心を抱いた。しかし、雪江の方では恋に発展するほどではなかった。まだ五十嵐賢に対する恋心の炎がくすぶっていた。それを忘れたいがために、雪江は小川にのめりこんだ。他の男がそばにいることで、賢を遠ざけられると思っているみたいに。
毎週水曜日になると賢は雪江に会いに来る。雪江は無視をする。挨拶すらしない。
しかし、彼女の顔を見れば、そのときの愛の大きさをお弁に語っているとわかるのだ。雪江は、賢に見つめられていると思うと顔を赤くせずには居られない。いけないと思いつつも、好きな気持ちを隠しきれない。じっさい彼が訪ねてくれて嬉しいのだ。
賢は雪江が赤くなるのをみて確信した。彼女は僕を愛している。でも押さえているんだ。その恋心を。
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