第25話


 次の日、茂はパートにいき、真夏の暑さを感じながら雪江は一人、開いた窓の側に座っていた。クーラーの風が苦手なので、自然の風を浴びようとしたのだ。傍らには扇風機も回している。空は青々として、真っ白で大きな入道雲が浮いている。雨が降るかしら、そんなことを考えながら、雪江は氷の入った麦茶を飲んでいた。雨が降ると良いわ。そうしたら涼しくなるもの。


 そのとき、家の呼び鈴が鳴った。雪江は出たくなかった。無視をした。しかし、相手は帰らず、なんども呼び鈴を押している。雪江はしかたなくでた。ドアをあけると、目の前には、三人組の女学生が立っていた。昨日公園で睨みつけてきた少女たちだ。雪江ははっとしたように彼女らをみた。足のない体で惨めに自分よりも背の高い少女たちを弱々しく見上げる。


「五十嵐君と付き合っているんですか」


 少女たちの一人が泣きそうに震える声で言った。


「え?」

「もし付き合っているのなら別れてください。あたしたち、五十嵐君を不幸にしたくないんです。おばさん何歳ですか、気持ち悪いですよ。高校生相手に」


「私、付き合ってませんよ。友達なんですよ。彼とは」

「本当ですか。昨日見ていましたよ。良い雰囲気だったじゃないの。恋人同士みたいに」


「あの人が勝手に私を好きみたいで、でも、私は好きじゃないんです。わきまえていますよ。しっかりと。私はもっと自分に合った人と恋仲になるでしょうし、彼とはまずないわ」

「それは五十嵐君を嫌いということですか」

「まあそうかしら」雪江は恥ずかしくて自分の心をかくして嘘を言った。


「酷い。性格が悪いですね。あなた。五十嵐君はあなたのことを真剣に愛しているのに、あなたみたいないい加減な人とはやっぱり五十嵐君は釣り合いませんね。あなたは、性格の悪いあなたは自分と同じような人と付き合うべきです。それは五十嵐君ではありません。同じように心の悪い誰かと」


「あなたたち五十嵐君が好きなのね」


「そうですよ。だから腹を立てているのです。あなたみたいなおばさん、本当に気持ち悪いわ。五十嵐君の未来をつぶさないでください。若い人に手を出さないでよおばさん。学校で噂になっているんです。五十嵐君が大人と付き合っているって。冗談じゃないわ。あなた五十嵐君をだましているんでしょう。どんな手を使って彼を射止めたの? 五十嵐君の優しさにつけこんで軽い気持ちで彼を振り回さないで! 非常識よ!」


 そういって、女学生の一人が両手に顔を埋めて泣き出すと、あとの二人が慰める。


「ごめんなさいね」

 雪江は狼狽え、謝った。


「謝っても許さないわよ。あなたがどんないい加減な気持ちで五十嵐君を傷つけたか、今日話を聞いてわかりました。私たちはあなたを許しません。これからは五十嵐君に近づかないでください。あなたなんか、あなたみたいな最低な人に見合った、同じ最低な人と仲良くしていればいいのよ。ふんっ」


「ごめんなさいね」


 女学生たちは言うことだけ言うと、満足したようで、後ろを睨みつけながら帰って行った。それがあたかも雪江の頬をぶつように、冷たくて、雪江はずきりと、胸が締め付けられるように痛んだ。酷い仕打ちだ。恐ろしくて震えてくる。


 雪江は改めて今後のことを考える。他人から愛されることに浮かれていた。それで我を忘れ、温かい綿の中に埋もれていた。何時間でもそうしていた。誰かに言われるまで、自分は駄目だと思いつつも、気持ちの楽なところに黙って足を止めていた。


 いけないのだわ。


 雪江は思う。男は私を不幸にする。それ以前に自分が悪いせいで、嫌な思いをするのかもしれない。どうやって生きたら楽なのだろう。どうやったら誰にも迷惑をかけず、気持ちが落ち着いて生きられるだろう。


 きっと私が間違っているのだ。だから嫌な思いをするのだ。だから障害にぶつかるのだ。雪江は自分の頭を何度も叩いた。


 五十嵐さんとは今後は終わりよ。もう会わない。


 心が乾いてひび割れる。嫌だと心が悲鳴を上げる。好きなのだ。しかし、自分を守るために、他人を、五十嵐賢を不快にさせないために、まだ始まっていない内に、後戻りできなくなる前に、切り捨てなくてはならない。嫌でもそうするのだ。それが正しいと思うから。そうしたら、今よりも下に落ちる事が無い気がするから。


 雪江は仰向けになって、大の字に横になった。天井の丸いシミを見ている内に、熱い涙が目尻からこぼれ、こめかみを伝うのを感じた。髪の中が冷たく湿り気を帯びた。雪江は震える唇から息を吐き出した。


 何もかもがばかばかしい。生きていることがばかばかしい。こんな問題一笑にふせたらいいのに、そうできなくて、真剣に問題に向かおうとする自分がいる。

 むくりと起きあがって、雪江は涙を手の甲で拭うと、氷の溶けた冷たい麦茶を一気に飲んだ。その冷たさはのどを気持ちよく滑り、先ほどからひりひりと痛かった胃に落ちていく。痛みと冷たさが混じり、なんとも気分が悪くなった。雪江はまた大の字に横になった。ごおおおと外から音がするので、顔を窓の方に横向けると、白い飛行機が、飛行機雲を作りながら斜めに飛んでいく。青い空は眩しいくらいである。雪江は目を閉じた。疲れて眠ってしまった。夜になって茂が帰ってくるまで、雪江は寝ていた。


「あら寝てたの。すぐご飯をつくるから。ご飯ができるまでもう少し寝ていても良いよ」

 茂はそんなことを言いながら台所で買ってきた食料を並べ始めた。


 雪江は一度目を覚ますともう眠る気にならず、明るい電灯の下、むくりと体を起こし、テレビをつけた。泣いたせいで目元がかぴかぴしているようだ。雪江は目やにを爪ではがしながら、むすっとしていた。元気な気分ではなかった。腹を立てた後のようななんともやるせない気持ちでいた。


 夜ご飯、雪江はちっとも手をつけようとしなかった。茂は心配になり、「あんたこのごろ食べていたのに、今日はどうしたの。ね、一口だけでも食べなさい」

「いらないの」

「どうして」

「食べるどころじゃないの。私、悩んでいるんだ」

「何をそんな気にしているの?」

「五十嵐さんよ」

「五十嵐君がどうしたの」

「……もう会いたくないの。家に来ても、私は知らないから。おばあちゃんだけ仲良くしていればいいわ。私は、もう関わりなくない。一人でいたいの」

「何かあったの? せっかく良い人がみつかったのに」

「現実に……我に返ったのよ。あの子は高校生でしょ。大人に比べたらまだ無知で、真剣なつもりでも真剣じゃないの。心の底では。恋愛のままごとに付き合わせられたくないの。私を好き、とか言って変なの。彼なんていつでも逃げられるわ。まだ子供だからと言い訳して。いつか私を邪険に捨ててしまうような気がする。それは酷くこっぴどくね。ふりまわされたくないの。わかるでしょ? もうこりごりなの。心が壊れるのは。またつらい思いをする。それが怖い」

「大丈夫よ。あの子はあんたを苦しめやしないわ」

「するわよ。最初は誰だって良い顔をするのよ。でも、次第に化けの皮が剥がれていくのよ。それでわかるのよ」


 雪江は白い目でにらむようにして、額に飾られた賢と雪江の写った写真を見た。それが、自分の胸をつかんで引き留める。笑顔の賢が、彼の優しい笑顔が、雪江の心を愛撫する。ぞくりと雪江は感電したように背筋を伸ばした。必死に何か、必死に自分にまとわりつくものを引き剥がさなくてはと焦る。すぐに取ってしまわないと、肉の中までしみ入るように。


 雪江は歯をむき出し、不気味に笑顔を作った。


 それを見て、茂はぞっと恐怖にとらわれた。雪江の笑みはあまりにも病的だった。


「どうしたの。雪江。あんた変だよ」

「変なもんですか。普通よ」

「寝なさい。少し寝た方がいいよ」

「さっきまでずっと寝ていたのよ。また寝るなんて可笑しいわ」

「でも雪江、あんたには休息が必要よ。何もよけないことは考えずじっとしていなさい」

「考えないといけないわ。周りが私を急かすのだもの」

「誰も急かしやしないよ」

「するのよ!」


 そう叫ぶと、雪江は怒鳴ったことが悪い気がして、祖母に申し訳なくなり、布団をかぶって隠れた。心は甚だ動揺している。雪江は泣いた。泣くのが良いと思ったのだ。どうしてだか、今日あったことを茂に言えば楽なのに、そうできなかった。そうしちゃいけない。秘密にしなければと強く思った。そして一人心の苦しみと戦っていた。


 茂は自分もこっそりエプロンの裾で目尻にたまった涙を拭うと、手のついていない料理に、ラップをかけて、冷蔵庫にしまう。


「お腹が空いたら食べなさい。冷蔵庫に入れておくから」


 そうして、茂は自分だけ食事をとった。


 祖母の咀嚼音を耳へ敏感に感じながら、雪江は暑い布団中に入ったまま又眠りについた。起きると夜中である。茂の寝息が隣の寝室から聞こえる。雪江はテレビをつけて、通販番組をみる。大して集中しないで何となくぼうと見ている。すると、つまらない、と自分の心が訴えた。


 生きていてもつまらない。何にもない。恐ろしいことしか待ち受けていない。そんなら、死んでも良い。でも自分で死ぬのは苦しいから、どうにかして、自分の体が砂になって、いや、それよりも細かい塵になって、消えてしまえばいい。


 夜の虫が騒がしく鳴いている。


 胸が、痛い。締め付けられる。どろどろした悲しみが血管を伝って心臓に流れ込む。ああ、嫌だ。


 何か、気分転換にできることが、何か楽しいことが、何もかも忘れ去って、心奪われることが、あったらいいな。心が苦しめられると、雪江は外に救いを求めた。誰かが助けてくれないか。何か素晴らしいものが外から舞い込んでこないものか。そうなったら私はきっと苦しくない。




 ばーん。




 そのとてつもなく大きな音に雪江はびっくりした。


「何の音?」茂も寝室から声をかけた。

「外から聞こえたわ」


 雪江はベランダにでる。街灯に照らされた道路が見える。そこに誰かが倒れていた。雪江はのどの奥でひっと声をあげた。飛び降りだわ! あの音は飛び降りて地面にぶつかったときの音よ。そうに違いないわ。


 雪江はすぐに救急車を呼び、起きてきた祖母に外に行って、倒れている人の様子を見に行くようにお願いした。茂はパジャマのまま、カーディガンを羽織って、外に降りていった。雪江はベランダから祖母が倒れている人に駆け寄るのを見ていた。


「ああ、良かった。この人生きているわ」


 茂は大きな声で言った。音に起こされて、住人がぞろぞろと出てきた。


「怪我をしているわ。動かさない方がいいよ」


「あら、この人三階にすんでいる小川さんじゃないかい」住人の一人が言った。


 雪江も下に降りて救助にあたりたかったが、こんな体では邪魔になると、いけないでいた。ベランダから只見守っているばかりだ。


 やがて救急車が到着した。小川という人は男性で三〇歳くらいであろうか。そのときには、体を起こして、会話もできるようだった。


 彼が救急車で運ばれていくと、茂は家に戻り、雪江に言った。


「ありゃ自殺未遂だよ。あの人、やっぱり階層が高くないと死ねないですね、だって。どうしたんだろう。私の周りは病んだ人ばかりだ」


 自殺未遂。


 雪江は小川という男に同情した。強く共感できるものがあった。


「可哀想に!」


 雪江は自分が自殺しようと試みた過去を思い出し、胸が熱くなった。死のうとした彼の勇気を誉めたいような気がした。しかし、後で、そんな誉めたいとか、愚かしいことだと考え直した。だが、雪江は興奮していた。何日間も興奮しっぱなしだった。自分と同じように死にたいと思い、自殺を実行をした人が近くにいたのが嬉しい。変な同族意識を持ってしまっていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る