第24話
「だめよ」
賢が遊びに来た日以来、雪江は自分を叱っていた。
「未成年は少年で、まだ何も知らない少年で、恋だって成熟していなんだからね。恋をしているつもりでも、少年の恋というのはどこかすぐ砕けてだめになってしまうような、未熟な、淡い水彩画のようなぼんやりしたものなのね。今に飽きるわ。私を好きだったことなどすぐ忘れるわ。そこに未練なんてないのよ。それが少年よ。少年の心など惑わしたところで、あとで大人になったあの人に切られるのよ。突き飛ばされて踏みにじられるのよ。そういう未来が見えるわ。止しましょう。私。好きになったら負けだわ」
雪江はふとすると陽気に浮き上がりそうな自分を心の中でなだめた。楽しいとか幸福だとか思っちゃいけないと感じた。どうしてか自分をいじめてみたくなる。そうしないと自分が派手に転ぶのをみるようで嫌なのだ。
雪江はあの日、賢から貰った写真を見てみた。
そこには賢と自分が写っている。二人とも笑っている。二人とも頬を赤くしていた。雪江はそのことが恥ずかしくて見ていられなくなって、写真を伏せた。いやらしい何かを感じたのだ。けがらわしいとも思った。
「もう寝るよ」
午後十時に茂がそういって、寝室に引っ込んだ。
雪江は電気を消し、テレビだけつけてぼうとしていた。テレビの明かりが映像が変わるたびにちかちかして、部屋の壁をなめる。通販番組を見ながら、雪江は何者かに守られて抱きすくめられているような緊張を感じた。賢の存在をひどく意識した。雪江は溜息をもらした。彼に車いすから抱き抱えられておろされたときの暖かさを思い出す。優しくそっと、チョコレートを型に流すように神経質すぎるほどにそっとおろされた。雪江は綿のように軽く床に尻をおろした。子供なのに力があるわ。子供、子供、雪江は呪文のようにつぶやく。そうしたら、自分の心が彼から離れると思っているみたいに。そう雪江はもはや彼に恋していた。気持ちが向かないようにしようと思ったが駄目だった。彼なら、死んで消えてもいいような雪江の生存許可をくれる気がした。彼だけが埋もれた雪江を見いだしてくれるのだ。
「どうして彼は年上じゃないんだ」
雪江はいらいらしながらつぶやいた。
高校生という犯罪的な年齢が、雪江を遠ざける。もし、彼が年上だったら自分は子供のようにわがままでいられた。なのに彼は違うから、自分が大人にならないといけない。うじうじ引きこもって甘えた自分に大人になれというのか。どうやって。それはひどく疲れることのような気がした。しかし、子供のような雪江のままで彼に頼りたい気もした。彼なら大人のように雪江を抱きしめてくれると思うのだ。彼に頼ろうとする自分が気持ち悪い。雪江は自分が嫌だ。恋をしたりして、馬鹿みたいな自分が嫌だ。浅田のけんもあったろう。男はわるものだ。
トイレに行きたくなり、廊下にでると、雪江はそこで、野菜のようなにおいを微かに感じた。それはかめ虫のにおいだと気付くと、賢を思いだし、体がぽっと燃えるように熱くなった。
「もう来ないで」
雪江は心の中で願う。
「私を狂わせないで。私だけの時間を盗まないで。私をどうにかしようとしないで。それはきっと恐ろしい結果として私とあなたに待ち受けているわ。恋、それは、きっと、絶対、私たちにとっては嫌らしい何かよ。駄目な何かよ。吐き捨てられた痰だわ。臭い、汚い汁の。べとべとした……」
心でなんと思おうが、芯のところで同じ気持ちだったので、雪江と賢は急速に近づいた。彼は毎週水曜日に家にやってきた。そして、茂もいれて、三人で散歩に行くのが日課になった。
「雪江さん可愛いです」
雪江のふとした仕草に、賢は茂の耳元に訴える。本人に話しかけないのは、気恥ずかしさからだ。口からでる自然にわき上がる気持ちを、賢は雪江の祖母に聞かせた。茂はふふと笑い、若い二人の恋を側で見守った。
ある時、賢は燃えるような目をして、雪江を見つめていた。雪江が公園の鳩に取り巻かれながらパンくずを落としてるところである。茂と賢はベンチに座っていた。
「雪江さん、女神様みたいだな」
賢はそう思って、新鮮な気持ちで雪江を見ていた。こんなにも狂おしいほどに愛しい気持ちになって、胸やぶれそうな片思いの今、賢はふと、このまま何の進展もなく恋人になれず、雪江を失うのではないかと危惧した。雪江は美しい女性だ。きっと他にもいい男が、自分よりも高学歴で金持ちの男たちが雪江を狙うかもしれない。ああ、僕には何もない。僕は、僕自身の誇れるところは芸術の夢があるということだけ、雪江を幸せにできるほどの財力もなければ、地位もない。僕は劣等人種だ。はたして雪江のような素晴らしい女性を僕は守れるだろうか。守ってみせる。だけど、彼女はこぼれ落ちやしないか。指の間からすり抜ける砂のように、彼女は僕じゃない人のところへある日突然行ってしまうかもしれない。縛り付けるんだ縛り付けなくてはならない。でもどうやって?
賢は苦しくなった。自分がひどく惨めだった。恋の息つけぬ胸の痛みが彼を苦しめた。
「五十嵐さんどうしたの? 具合でも悪いの?」
暗い気持ちに沈んでいた賢に雪江が声をかけた。彼女は不安になった。自分といるのが嫌になったのではないかと思ったのだ。
賢は雪江の哀れみを宿した神秘的な美しい黒い瞳にみいりながら、
「離れないでください。僕の側にずっと居てください」と言った。
雪江は赤くなって笑った。甘い雰囲気に恥ずかしくなって賢も赤くなった。
ふと、誰かがこちらをじっと見つめていた。三人組の女学生である。彼女たちは怒ったような、なんとも嫌な目でこちらを見ていた。雪江はそれに気がつき、怖くなった。周りの人はよく思わないのかもしれない。雪江は賢からだいぶ歳の離れた女だ。賢は学生だ。犯罪だ。雪江は後ろめたさに居心地が悪くなり、女学生もずっとこっちを怖い目で見ているので、もはや楽しめる気分ではなく、帰ろうと茂をせかした。
その日は早めに帰った。しかしながら、その三人組の女学生というのは怪しいものだった。とてもつもなく黒く恐ろしいものを彼女らは持っていた。雪江は彼女たちに押しつぶされるかもしれない。そんな怖さがあった。
そうだ、女学生たちは激しい怒りの感情のままに、こっそり雪江たちの帰る後を追っていた。そして、雪江の家までとうとうついてきた。彼女たちは仲間のうちでこそこそ話し合い、しばらくすると帰って行った。そんなことがあったのに、雪江は知らないのだ。勿論、茂も賢もつけられたことにまったく気付かなかった。
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