第23話


「写真をとりませんか」


 賢はポラロイドカメラを取り出し、言った。あわよくば雪江の姿を写真に写して、それをお守りみたく大事に手に取っておきたいと思っているのだ。しかし、その思惑を、茂は見据えて、優しく言った。


「私があんたたちの写真をとってあげるわ。ほら、カメラをかして。どうやって撮るの? どこを押すの。ほら五十嵐さん雪江のほうに寄って」


 一枚目は少しぶれて、失敗したが二枚目はうまくとれた。そして、賢は失敗したのを自分のものにし、うまくいったのを雪江に渡した。


「こんどはおばさんと雪江さんをとりましょう」

「あらいいのよ。私なんかとったってどうしようもないのよ」

「記念になりますから」


 賢は二人の写真をとって、そのできたのを渡した。


「あらよく撮れてる」


 空が淡い色に輝きつつあった。


「もうすぐ夜だわ。早いのね」雪江は紫がかった雲をみながら言った。

「でも夜は長いですよ」

「夜が明けて、青い朝が来ると、私は死にたくなる」雪江はなんだか寂しくなって言った。

「僕はあなたから拒絶されると死にたくなります」

 そこまでしつこくされると、雪江はげんなりする。

「死にたくなっても死にはしないでしょう」

「そうですかね」

「そうよ。私みたいなのに拒絶されて死ぬなんて馬鹿よ。世の中にはもっと良い女がいっぱいいるわ。ここにしかないと思っちゃだめよ。もっといるんだから、広いところへ目を向けるべきよ。同い年の子に可愛い子が居るでしょ。学校とかにいるでしょう」

「いません」賢は怒ったように強い口調で言った。

「僕にはあなたしかいないんです」

「ねえ、おばあちゃん、すごい人だわ」

 雪江は呆れかえり、他人事のように祖母に話を振った。

 実際、まんざらでもなかったが、喜ぶ自分が不潔に思えて、雪江はこみ上げる思いを押し隠した。


「帰りましょうか」茂がぽつりと言った。どこか名残惜しげである。


「ひっ、虫が」雪江が身をよじり悲痛な声を上げた。「とって、とって!」


 見ると、雪江の服の下の方に、小さな虫がとまっていた。かめ虫であった。

 賢は自分の出番であると思った。なんにせよ、今この虫をとれば、雪江が自分に良い感情を持つだろうと心くすぐるように感じる。


 すぐに賢は虫を掴んで、手の中で虫がもがくのを気味悪く思いながらも、地べたに落とした。賢の手の中から強烈な臭気があがった。かめ虫が臭い汁をだしたらしかった。まずい、賢は思った。臭くなったことで雪江が嫌がりはしないかとひやひやする。


「ありがとう」雪江はほっとして微笑んだ。賢が臭い香りを雪江に近づけないようにと右手を背中の後ろに隠しているのが、なんとも紳士てきであった。


「手に汁がついちゃった。水で洗ってきます」


 賢はそういって、駆けていった。水で洗っても、においはなかなかに落ちなくて、臭かった。石鹸で洗わなくてはだめであろう。賢は涙目になった。車いすを押すのに、手が雪江の顔に近づくので、それで、彼女の鼻孔にこの臭いのが香るというのがなんとも情けなく感じる。雪江にいやな顔をされると思うと、すごく申し訳なくて、胸が痛んだ。


 しかしながら、帰り道、雪江はにおっていることにはまるで気付かないように何にも言わなかった。怒っているのかと思ったら、雪江はかすかに笑っている。口元だけ弧を描くようにして、優しい顔をしている。彼女は賢に感謝していた。かめ虫のにおいがついたら嫌だったろうに、かまわずすぐにかめ虫をとってくれたのが、優しい、良い人に思えた。車いすを押す頭のうしろにある賢の手から、確かに臭う。しかし嫌ではない。そこには優しさがあるから。


 マンションにつくと、賢は雪江を車いすから抱き下ろし、こっそり後ろを向いて、そっと自分の手を鼻先に持っていき嗅いだ。臭かった。その事実が、彼を苦しめた。こんなに臭い手じゃ、雪江も不快だったろう。雪江を苦しめたことが、賢には許せなかった。あのとき、かめ虫をはじきとばせば臭いなんてつかなかったろう。どうして包み込んじゃったかな。そうだ、雪江さんに触れるときは乱暴になんてできないだろう。だから包み込んだのだ。


「五十嵐さん、ごめんなさいね。においがまだ残っているんでしょ。洗面所に石鹸があるから洗っていって。本当に悪いわね。雪江の服にかめ虫がいたばかりに、あなたには損な役をさせてしまったわ」


 茂がすまなそうに眉根を寄せて、上目遣いに賢を見て言った。


 進められるがままに賢は洗面所で手を洗い、泡を流すと、歯ブラシが置いてあるのをみて、雪江のだろうかと思いをはせ、触れようとして止めた。


「ありがとうございました」

 賢は居間に入ると、そう大きな声で礼を言った。


「もう暗くなってきたから帰りなさい。親御さんが心配するといけないから」

 茂はカーテンをしめ、電気をつけながら言った。


 雪江は賢に背を向け、テレビを見ている。いつもなら布団に入って横になってみていたのだが、今日は、賢もいるしと、緊張と気恥ずかしさに抑圧されて、起きていたのだ。変に神経をとがらせているためにしゃんと張った背中がぴりぴりと痛んだ。


 彼女は思った。お別れの言葉を言うために彼を見たらいいのに、そうできない自分がいた。私は意外なほどに彼を気に入っている。だから、その心を悟られるのが屈辱である。彼にも、もしかしたら浅田のような部分があるかもしれない。そうなると嫌だった。美しい外見を持つ人は悪い人であると、そうではないと誰かに否定して欲しい。だれか信用のおける人に。それに彼は若く、未成年で、自分は年上で、犯罪のようだ。そのことに震えおののく。


「では雪江さん、僕、帰りますから」


 雪は緊張して胸がどきどきと忙しなく、しかも激しく轟いていた。彼女は自分の心臓の音にあわせて、自分の体が揺れているように感じた。意識が遠のくように思われた。彼女はなんとかして、首を動かし、賢を見ると、変にニヤリと笑ってうなづいた。声を出すのがなんともしんどかった。声をあげたいのにのどに蓋がされて居るみたいに微かな空気がもれるだけだった。雪江ははっとして、泣きそうに顔をゆがめた。その顔を見られることをはばかって、また背を向け、テレビの方をみた。


 雪江のそっけない応対にも、賢は満足だった。彼女は恥ずかしがり屋だ。賢はそう思い、自分が彼女を守りたいという思いを強くした。


 賢は茂にもお別れを言って、また来ることを約束し、マンションを出た。道には街灯がともっていた。空は日中の陽のなごりをのこし、うっすらと暗い青である。星がいくつか瞬いていた。


 ポケットに入れてある大事な宝物を賢は取り出すと、街灯の下でそれをみた。雪江ととったツーショット写真である。ピントが合っていなくてぶれている。もう一度きれいなのを取り直して貰えば良かったが、神経質だと思われないかと拒んだ。しかし、そこには雪江がいた。まがいもない雪江だ。賢は写真を胸に引き寄せ、ぎゅっと自分の胸に押し当てた。それが自分の体の一部になるように。踊りたい気分だった。なにか楽しい気恥ずかしいものが胸ではじけていた。スキップするようにして賢は歩いた。


「わーい」

 賢は声を上げて、飛び跳ねた。

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