第21話
水曜日はよく晴れていた。梅雨入り前の涼しい空気が心地良い。賢は学校の授業を終えると、花屋で花束を作ってもらい、それを購入して、傍らにもち、雪江のマンションに向かった。考え事をしているうちに、いつの間にか、雪江のマンションにたどり着いていた。外の道路から雪江の部屋を見上げると、窓が開いてあり、そこからレースのカーテンが、風をうけて、はためいているのが見えた。めくれたカーテンの影に、薄暗い部屋の影が見える。
賢は緊張して、胸がどきどきした。今日はいつものようにすぐ帰るんじゃないんだ。招待されたのだから、長く居座れるだろう。はて、何の話をして雪江との時間を過ごそうか。そんなことわからない。思いつきで何とかなるだろう。激しい胸の高鳴りが賢を急かすのだ。雪江が好きだ、その思いだけで何もかも押し切れるような気がした。賢は頭脳派ではないので、考えることが苦手であったのだ。
エレベーターに乗って、部屋の扉の前にたどり着き、呼び鈴を押す。ぴんぽんと高い音が鳴り響く。
「はい」
やがて、がちゃりと扉が開かれた。そこには先まで洗い物していて、エプロンの裾で濡れた手を拭いている老女、茂がたっていた。
「あらいらっしゃい。どうぞ入って」
「おじゃまします」
部屋の前に垂らされたビーズののれんをくぐって、賢は雪江の姿を探した。彼女は窓辺の座椅子に座って、足があるはずの場所にショールをかけて隠していた。賢が入ってくると、彼女はこちらを振り返り、何を考えているのかわからない無表情な顔をしてじっと賢を見守った。
彼女は激しい感情に圧されていた。怒りや、悲しみや、自分を哀れむ気持ちや、新しい友達に対する感激の気持ちやら、自分の感情はどれが本当なのかわからなくて、迷い、決め出せずにいた。そこで、感情を失しているような顔になったのだ。それに彼は学生なのだ! 学生服を着ている。なんてことだろう。若い子相手に自分はどきどきしている。
「のどが渇いていない? どうぞお茶でも飲んで」
茂がグラスに入った麦茶を三人分持ってきた。賢に差しだし、雪江にも渡すと、最後の一個を自分にとよせて一口飲んだ。
「あ、花を」
だしそびれていた花束を雪江に渡そうと近づけたが、雪江が受け取ろうとしないので、代わりに茂が受け取った。
「ごめんなさい。この子つむじ曲がりで」
茂は愛想良く言ったが、賢は少し落ち込んだ。まだ雪江が自分に心を開いていないとわかるからだ。
雪江はむすっとしていた。彼女の心は動揺していた。動揺を隠すために顔を強ばらせている。なんせ、賢のかっこうである。学生服を来ている。彼は学生なのだ。子供なのだ。未成年なのだ。
「あなたいくつ」
雪江が聞くと、賢は
「十八歳です」
と答えた。
震えるように雪江は息を飲む。具体的な年齢を知り、彼の若さに改めて感じる衝撃。
「子供じゃないの」
「違います。見た目はそうでも、僕の心は自立しています」
「でもご両親の家に居て暮らして、養われているんでしょう?」
「そうですが、でも高校を卒業したら僕は社会人になるつもりです」
「高卒? 大学くらいは行った方が良いわよ」
「僕は頭が悪いので。そういうところに通うのは無駄だと思うんです」
自分を罵倒する言葉を自分の口から吐くと、賢は羞恥を感じて顔を赤らめた。自分の欠点を知った雪江はどう感じるだろう。きっと軽蔑するだろう、そう思うと冷や汗がでるような嫌な気持ちになった。
「でも今時高卒を雇うとこといったら、肉体労働くらいしかないでしょうよ。なにか、将来の夢というのはもっているの?」
「芸術で生きていきたいと思っています。写真が好きで」
「それなら美大にいったら」
「絵が下手ですから、それに受験で学力審査があったら僕はきっと最下位でしょうし、無理でしょう」
「努力しないうちからそんなことを言って諦めるのはよくないわ」
「でも」
「楽な方に行こうとしても努力しなかったら、いつか行き止まりに出会って、どうしようもなくなることがあるんだから」
「僕が子供だからそんなお説教をたれるんですか。僕は大人です。自分の人生の舵は自分で取るし、責任だって自分でとります」
「威勢のいいぼっちゃんね」
雪江は自分の言葉が可笑しくてふっと笑った。
雪江の美しい笑顔を見ると、賢は胸がどきどきして、顔が熱くなった。
「生意気言ってるでしょう僕。すみません」
「あなたはまだ若いからね」
若いことを指摘されるたびに賢は苛立ちを感じた。それは雪江に対する苛立ちではなく自分に対する苛立ちである。のぼせ上がって、そうじゃないと否定して、認めて貰いたくなる。
「努力しなくては」
雪江は繰り返し言った。
そんなこと言われなくてもわかっているのだ。でも自分の努力には限界があることを賢は知っている。
「わかっています」
賢はうつむいた。やるせなくて涙があふれてくる。
「近所のデパートまで行って、そこのフードコートでお茶でも飲まない?」
ぎこちない空気に耐えられず、取りなすように茂が提案した。
「行きたくないわ」
雪江が言うと、茂は目で責めるように見て、
「家にいてもつまらないし、外でちょっとした食事をしたら楽しいと思うの」
「行きたくないわ」
「行きましょうよ」
賢は雪江の顔をじっと見て、拝むような気持ちで言った。
つらい、雪江は思った。どうしてこんな惨めな姿で外を出歩かなくてはならないの。それに私嫌だわ。賢という子。子供とデートみたいなことをするなんて犯罪よ。私がいろぼけたおばさんにみえるわ。
「きっと楽しいですから」
にこにことさわやかな笑みを浮かべて賢は言った。
「おんぶして連れて行きますか」
「やあね、車いすがあるのよ」
茂と賢がはしゃいでいる横で、雪江は顔を曇らせていた。嫌だとわめいて暴れてやろうか。しかし、そんなことをしたら、その場の空気がぎすぎすして、痛々しくてたまらなくなる。怒ってその場を凍り付かせるのは何だか嫌だった。自分をせめられることが嫌だった。
泣きそうに黙り込んでいると、賢が雪江の体を抱き上げた。雪江は目を丸くしてびっくりした。
「おろして!」
「車いすを」賢は涼しい顔をしていった。雪江は軽かったので、たいして持ち上げることは苦痛ではない。
「はいよ」
茂が用意した車いすに雪江を乗せると、雪江は顔を覆って泣き出した。
「よほど外に行くのが嫌なのね。この子ずっと家にこもっていたきりなんですもの。でも無理矢理にでも連れて行ってならさないと、永遠に外に出ることはなくなってしまうでしょう、だから今日は無理にでもリハビリがてらつれていくわ」
さきほど子供扱いされて、下に見られていたのに、今では泣きじゃくる雪江のほうが子供に見えた。賢は自分が優位に立ったような気がして、愛しくてどうしようなかった。守りたいと思った。
とぎれた足の上にショールをかぶせてやり、車いすを押して、三人は家を出て、エレベーターに乗った。エレベーターを降りて外にでると天気の良い空の穏やかな日差しが降り注ぐ。賢は眩しく目を細めた。手で眉の上に傘を作って、透き通った青空をみる。
「見て。空が青くて綺麗だ」
雪江はまだ顔を覆ったまま、泣いていた。
風が強かった。それに伴い、雪江の絹のようなさらさらした細い髪がふわりと揺れた。そのたびに甘い香りがにおうようで、賢は一生懸命にそのにおいを胸に吸い込もうとした。
三人はゆっくり進んで歩いた。時々、立ち止まり、セキレイのととと歩いて居るのをみて笑ったりした。犬の散歩の人をみると、可愛い犬が喜びながらこちらに近づこうとしてリードを引っ張っているのを見て、賢と茂は嬉しそうに笑った。雪江だけ仲間外れにされたみたくむすっとしている。
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