第19話


 茂が仕事に行くと、雪江は家の中に一人、窓の外の雨を眺めていた。ざあと降る雨の音を聞きながら、雪江は胸が締め付けられた。その切ない痛みを押さえるためにそっと片手を胸に当てた。


 五十嵐賢という子はまた来るのであろうか。


 好きだと言われて若干ときめかなかった物でもないが、でも無理だと思った。なぜなら、彼が女を魅了する見た目であったために、胡散臭いのだ。どうせすぐ私じゃない別の人を好きになるわ。もっと可愛い子が世の中にはうんとたくさん居るんだから。どうして私にあんな惑わすことを言うのかしら。私の人生を騒がしく乱さないでほしい。また私は他人から傷つけられようとしているのかしら。運命かしら。もうあのときのようにはいかないのよ。もう傷つかない。そうならないようにするの。近づかない方が良いわ。私はあの子をはねのける。そして、私を守るんだわ。


 賢からの贈り物の犬のぬいぐるみに目をやる。それは低い棚の上に飾られてあった。茂がそうしたのだ。捨て犬のように彼はつぶらな瞳で雪江を見つめている。その隣に賢がとった写真が飾られている。


 ああ、雪江はうめいた。頬が燃え、胸がどきどきする。それがなにを意味しているか、理解したくない。しかし、雪江の意識は賢のほうに向けられる。彼を理解しようとして、彼の動作を視線を思い出してみる。


 私を好きだって?


 嬉しさがこみ上げてきて雪江は微笑んだ。そして信じられない思いで自分の内部を意識した。自分の理想を裏切るようにこみ上げてきた感情に戸惑う。おろおろしながら、雪江は違う違う、とつぶやく。


「いい? 雪江。好意を持ってはいけないの。また裏切るわ。そういう顔をしていたもの」


 雪江は棚の上の写真を、彼が見ている世界を、またのぞき見た。こんなすてきな世界を見る人が悪い人かしら? そう思ってみて、新たな視点から自分をみた。彼は私の中になにかをみたのだわ。芸術的ななにかが私にあると思ったのだわ。私はひょっとしてそうかしら。わからない。私は無為に生きている。それが良いのかしら。でも、私ごときになにか良いところがあるというの? ないわ。私はそれほど自分を良いとは思わないのだから。


 雪江は先の短くなった自分の足をなでさすりながら考えた。あの日、私は絶望し、自分を殺そうとしたの。男なんかに惑わされたのが間違いよ。一生の傷よ。私はバカだった。死のうとしたことではなく、あんな男を好きになったこと。あんな男は世の中にうんといるんだ。だから、五十嵐賢もそういう男に決まっている。そんなふうに考えると、自ずと熱い憎しみがわいた。胃が痛くなるほどの恨みが、雪江の瞼をちかちかさせた。


 そう思っているのに、どこかに甘い物を感じた。


 雪江は壊れてテープで補強してある鏡に自分を映して、ぼさぼさの髪をなでた。そして、少しでもましになるように髪を三つ編みに編んだ。ゴムで止めると、なんとなく満ち足りた。雪江は自分の中の女を意識した。それから洗い立ての朱色のショールを太股に巻いた。急に雪江は可笑しくなってくっくっと笑った。


 胸がわくわく踊っていた。他人によって見いだされたことの嬉しさ。雪江は賢に感謝した。感謝しながら全てを断りたい気持ちだった。イエス、ノーとあっちへ行ったりこっちへ行ったり気持ちの忙しないのに雪江は戸惑う。そうして、どこかで、イエスの方に落ち着こうとしている自分に気付く。慌てて雪江は首を振る。だめよ。あの子は幼い顔をしていたわ。きっと私よりも若いはず。まだ色々優れた青春を味わうべきよ。若くて可愛い女の子がうんといるんだから。私じゃない誰かと。


 空腹で胃の中がじりじりする。変なことを考えたせいで、飢えだした。いつもなら我慢できる空腹も今日は無理そうだった。雪江は椅子を持ち出し、ガスコンロの前に座り、具のないスープを作り、お椀いっぱい飲み干した。それでもまだ飢えていて、雪江はゆで卵を一つ作り、殻を剥いて、塩をふって食べた。だいぶ満足した。

 満たされると憂鬱がおそってきた。雪江はこれからやろうとする計画を頭に浮かべると不意に泣きたくなって、瞳を潤ませ、唇を微かに震わせた。


「もう来ないでくださいって言おう。私を忘れてくださいって言うんだ」


 終わりを作ることで、雪江は自分の心の内部に入り込もうとする刺激的な何かを跳ねつけようとした。私はもう激しく揺り動かされたくないのだ。誰からも傷つけられたくないのだ。


「水曜日……」


 雪江はカレンダーの日付けを目で追った。


「お別れを言うわ。できるわよね、雪江。そんなの簡単よ。やるわ」


 水曜が来るのをわくわくと胸を踊らせながら、怯えたように待った。火曜日になると、雪江は落ち着かなくなった。風呂に入っていつまでも鏡の前で櫛を使って髪をといている。祖母に指摘されて、やっと櫛をつかうのをやめた。こんな自分が怖かった。自分ではないなにかに変わろうとする自分が怖かった。

「あの子にお返しをしないといけないよね。貰ってばかりじゃ、なんか申し訳ないわ」

「それならクッキーの缶を買ってあるよ。それをあげようよ」茂はいつの間に用意したのか、高いクッキー缶をとって見せた。それは紙袋に入れてあった。少し小さめである。

「美味しいの? 見た目だけよくて、美味しくないのはいやよ」

「おばあちゃんの職場の友達が美味しいって言っていて買ったんだよ。おばあちゃんだって、まずいのをあげようとは思わないよ」

「なら、いいの」

 雪江はほっと小さい溜息を吐いて、言った。


 夜になると、雪江は窓を少し開け、涼しい夜風にあたっていた。そうしながらも、ぽっかりと空に浮かんだ月を見上げた。月は白く煌々と照っている。


「おばあちゃん、私おかしかない?」

 雪江はそう訪ねずには居られなかった。なにか、恐ろしいもので自分が壊されようとしている気がしたのだ。そしてその壊れはすでに始まっている気がした。


「どこが」

 茂は洗い物の手を止めて、居間に顔を出した。青ざめ、不安そうに瞬きを繰り返す雪江を見て、茂は気の毒になり、優しく笑ってやった。


「良かったねえ。あんた最近良くなっているよ。ごはんも食べる量が前よりも増えたし、顔が明るく輝くことが多くなった。今はちょっと具合が悪そうだけど、心配なんだね。明日が。堂々としなさい。何も怖くないから。人と会うことが良くなるきっかけになったのね。おばあちゃん嬉しいよ。なんも心配いらない。振り返ってもどろうとしないで。変化を受け入れて堂々と前に進みなさい」


 そういって茂は目尻に涙を浮かべた。こうして茂が孫を励まし、その励ましにより、にわかに孫の顔色が良くなるのをみて、良いことを伝えたと幸福に感極まったのだ。


「私言うわ」雪江は手を震わせながら言った。

「何を」

「あの人にもう来ないでくださいって」

 茂はびっくりして、目を丸くしてなだめにかかった。

「どうして、あの子は良い子じゃないか。あんたはあの子に会ってから良い方に変わったよ。それなのに、もう会わないなんて、なんてもったいないんだろう。せっかく良い友達になれると思ったのに。どうして、あんたはそう暗い方に頭をつっこもうとするの? あんたは自分から惨めになろうとしているんだ」

「自分のこと可愛いじゃだめなのよ。あの人だって私なんかよりもっと可愛い女の子と連れ合いじゃれ合うべきよ。私は自分のことを思うんじゃなく、彼のことを思って考えたの。私といるせいで、人生の時間を無駄にしほしくないの」

「バカなことを言っていると思わないの?」

「馬鹿なことなものですか。私なりの優しさです」

「これがチャンスなのかもしれないんだよ。あんたの幸福を掴む……」


 そういわれると、雪江は悲しげに笑った。そして、のどに棘が刺さったみたいに詰まった。雪江は寂しかった。自分が哀れで涙がこぼれそうだった。そう、自分のために泣きたいような気持ちだった。しかしそうするのは酷く馬鹿げている。彼女はこぼれそうな涙を目を見開いて乾かし、テレビをみているふりをした。


 雪江の頑固さに茂は溜息が出た。孫は一度言うときかないんだ。そう知っていた。茂はじっと雪江に訴えるようなまなざしを送ったが、雪江はこちらをみないので、あきらめて視線を逸らした。そうして、洗い物の続きを始めた。明日の水曜日を楽しみにしていたのに、今では暗い気持ちである。ずんと砂の重石を胸に乗せたみたいに、酷く疲れてしんどい気持ちだった。言葉もなくしんと冷たい部屋の中でテレビの馬鹿笑いと、洗い物の皿のこすれるがちゃがちゃいう音が響いていた。

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