第18話
次の日、雪江は嫌な夢を見ていつもよりも早く目が覚めた。どんな夢だったのかは思い出せないが、悪質であったことだけは覚えていた。
外を見ると、雨が降っている。
天気が悪いせいで室内は薄暗く、電気をつける。雪江は嫌な気持ちで、ぷんぷんしながらトイレを済まし、ベランダにでる窓を開けてみた。細い雨が入ってくる。それを気にせず、雪江は手をかざして、寝起きで火照った手を冷やした。雨は悲しい音を立てて降っていた。
「こんな天気じゃあの五十嵐賢という人は今日はこないわね」
そう独り言を言って、なんだろうと思った。自分は他人に期待して甘ったれている、そんなの許されざるべきことだ。しかし、気になるのだ。雪江はベランダにでると、下の路面を見下ろした。なぜだか、そこに自分の待ち望んだ人が立っている気がしたのだ。
「あ」
そこには、一人の青年が立っていた。傘を後ろに反らし、こちらを見上げていた。ひどく顔立ちの整った細身の若者だった。
激しい動悸がした。雪江は身を引っ込め、窓を閉めた。
「あの人が五十嵐賢というひとじゃないかしら、いやだわ」
思いがけなく美しい男が自分の家の窓を見上げていたことに、雪江はただならない侮辱を感じた。のぞきだろうか。昔自分をいじめた浅田のことを思い出した。すると、浅田への憎しみがそのまま先ほどの青年に八つ当たりのように伸びた。顔が良いやつに騙されてたまるか。腹が立って顔をしかめる。
祖母が起きてきた。仕事に行く支度をしている。まもなく、呼び鈴がなった。
「誰かしらこんな早いときに」
茂が出ようとするのを、雪江は声をあげて制止した。
「まって。出ないで」
茂は不審に思いながらも、少し注意ぶかくして、玄関ののぞき穴をのぞいた。するとそこには五十嵐賢が立っていたので、なんだと胸をなで下ろし、嬉しくなって扉をあけた。
「あんた、また来たの? こないだはありがとうね。今あたしも仕事に行かないといけないから忙しいんだけれど、よかったら少し上がっていったらどうかしらね。雪江に会ってやってほしいの、友達がずっといなくて寂しい思いをしていたんだよ」
賢の右手には濡れて畳んだ傘がぶらさがり、水滴が傘の先っぽから垂れている。そして地面に黒いシミが広がっていく。賢は傘を玄関の外の横に立てかけ、家にあがった。
「僕、今日、日曜日でしょう。だから来たんです。晴れるかなと思ったけれど雨でした。なんだか悲しい雨で、お宅のお嬢さんのことが思い浮かんで、急いできたんです。さっき、外からこの家の窓を見ていたらお嬢さんが顔をだしてくれて、それよかさきににゅっと白い手が伸びたんです。雨に差し出すように。僕、興奮しました。これだと思ったんです。僕の芸術家の魂が疼いたんです。美しかったあの光景」
賢は自分でも驚くほどすらすらと言葉が出た。前は緊張したが、何度も会って、落ち着いたのだ。もしくは、興奮が賢から緊張をとったみたいだ。雪江を前にして自分を売り込まずにはいられない。なんとしても雪江の心に自分という存在を響かせたかった。そんな気持ちが賢を積極的にした。
「ありゃ、それはよかったね。あんたの写真は芸術的だからね」
ふと賢は茂から視線を逸らし、窓辺に座っている雪江に目をやった。そして、彼女がさっと隠すように足の上に広げたブランケットに目をやった。そこには不自然に膨らみがない。あるはずの足の膨らみがない。賢は動揺した。雪江がそんな傷害をおっていると初めて知った。普通の人とは違う痛みを持っている人への哀れみがこみ上げてくる。
青年の視線をたどって、雪江は自分の足を見られていると思うとたまらなく苦痛であった。そして、自分が普通の健康な人ではないことが憎らしかった。こういう恥ずかしい自分のコンプレックスになっていることを他人にみられるのは嫌なものだ。雪江は顔を真っ赤にして泣き出しそうに口を結んだ。そして、顔を逸らした。
雪江が弱り切っているのをみると、賢はそれは自分が見ているせいだと気付いた。そして申し訳なく思った。彼は雪江をなんとか慰めようとした。
「雨が好きなんですか?」
「え?」
「さっきベランダに出ていたから、出て、優しそうな手で雨を受けていたから」
「特には」
「僕、好きだな。美しいと思います。その、雨と、あなたが。すごく素晴らしい有名な絵画みたいな趣があります」
「私が美しいですか?」
「そう思います」
意地悪な思いつきが雪江の胸をくすぐった。
「よく見て。私が美しいですか?」
雪江はブランケットをめくって、短パンをはいた下半身の、短くて丸い足をみせた。赤ちゃんのひざかぶのような細さと長さのそこを賢は食い入るように見つめた。
「美しいと思います。あなたの全てが。あなたを取り巻く全ての物が、あなたを輝かせていますよ」
「そうかしら、嘘おっしゃいよ。私はみっともないと思うんです。こんなもの。私、自分が好きじゃないんです。なにがそんなに好きなんですか?」
「僕ですか。僕はあなたの全てが。今一瞬の憂いを秘めた輝きが。いや、こんなことを言ってもわかってもらえないと思いますよ。僕は写真が好きです。絵になる被写体が好きです。それしか僕の得意なことはないんです。勉強も運動もてんでだめで、僕の人生をかけたいと思うのは芸術なんです。あなたが赤いバラの花びらをベランダから落としたとき、僕は感銘を受けました。素晴らしいじゃないですか。夢の世界が目の前にあったんです。僕はそこに浸りたい。そして、その楽しみを共有したい。僕はあなたが好きだ。あなたに流れている魂の息吹が、ちょうど僕を快く慰めてくれるんです。僕はあなたとつながれると思うんです」
「あなたは学生さん? 若いからそんなことを考えるんだわ」
雪江は賢を大学生だろうと考えた。なんせ、白いTシャツとジーンズ姿なので、高校生とまでは思いもしなかった。
「若さとか関係ありません」
「いいえ、世の中を知らないのはよくないことですよ」
賢は雪江の声が高く澄んでいることが気持ちいいと思った。そして、さらに惹かれる自分を思った。雪江は美しかった。苦しげに潜めた眉と、まつげの長い綺麗な目、こけた頬におろした髪の後れ毛が二三本ふわりとかかっている。華奢な体は子供のように小さい。骨が繊細なのだろう。
「僕と付き合ってくれませんか」
「私をバカにしています?」
「いいえ、そんなつもりは……」
「あなたは美しい青年です。私じゃなくても他に良い人がいるでしょ」
「他の人なんて嫌です」
「そうかしら、あなた、私の足を見てから気持ちがそれているはずですよ」
「僕はそれくらいでそれませんよ」
「私他人としゃべるの嫌いなの帰ってもらえませんか」
「雪江、そうつんけんするものじゃないよ」茂が横からとりなした。
「帰ればいいんだわ。家に帰って一人になったらよく考えることでしょうよ。私がどんなにくだらない女か」
「そんなふうに自分を下にみるのは良くないです」賢は悲しくなって声を張り上げた。
「あなただってそう思っているはずよ。心の中で」
雪江はブランケットを再びまとうと、テレビをつけて、それに集中しているふりをした。
「私もそろそろ仕事に行かなきゃ」茂はそういって、車の鍵をつかむ。
「僕はしばらく、ここにいていいですか」
燃えるようななにかに急かされるように興奮して賢は言った。
「だめよ」雪江が強く言った。「あなたが暴漢だった場合、私は逃げられないから」
「そりゃ、僕は信用できないかもしれない。でも、僕はそんな嫌な奴ではないですよ。腹の立つほどバカな男かもしれませんが、僕は、あなたを辱めるつもりはありません」
雪江はなんだか恥ずかしかった。こんなにも執拗に求められると、嫌になってくる。
「だめよ。おばあちゃん、この人追い出して」
雪江はきつい顔をして言った。祖母の方を向いたが、もう賢のことは視界にいれなかった。
賢は雪江の視界に入りたくてうずうずしたが、いっこうにそれは交わされない。賢はもどかしい思いがした。
「今日はまあ、時間がないから。あなたも外に出ましょう」
茂は賢をうながす。
賢はこの日をのがすともう雪江にあえない気がして必死だった。そうなんどもこの家にずうずうしく訪れる勇気はないのだ。いやあるかもしれないが、その勇気は明日おこるかわからないのだ。勇気があるうちに全て終えてしまいたのだ。
「雪江さん、一緒に喫茶店でも行きませんか?」
「私もうずっと家から出ていないんです。わかりますでしょ? こんな姿になってからよ。それももうずっと、私は自分を隠して生きてきたの。おいそれと喫茶店にいけるほど、私は強くもないんです」
雪江は自分を笑って、疲れ切ったように口角を持ち上げた。
「それにね、天気の悪い日に外出するのはおもしろくないわ」
「なら、晴れた日にまた伺います。朝来るよりも午後の方が良いですよね」
「来なくてもいいです。もう」
「嫌です。来たいんです」
「しつこいのね」
「すみません」
「謝られると腹が立ちます」
「じゃあ、もう謝りません」
「それがいいわ。さあ、出て。さよなら」
悲しげに顔を曇らせた賢の腕をひいて茂が彼を外に連れていく。
「私がいるときにまたいらっしゃい。水曜日がいいわ。その日は午前だけ仕事だからね」
そんなことを茂は言って、賢の背中を軽く叩いた。その叩き肩は優しく、励ますようだった。
「わかりました」
雨の中、賢はとぼとぼと岐路についた。そうして彼は歩いている間考えた。
「やっぱり可愛かった。あの人の足があんな具合なんて知らなかったけど、僕がなんとか助けてあげられないかな。彼女はコンプレックスになっているようだし。家にこもりきりみたいで暗いな。ちょっと可哀想だ。雪江さんの心の助けになりたい。僕の中の全てを捧げて、励ましてやるんだ」
雪江から歓迎されなかったこと、冷たくあしらわれたことなどは大して気にならなかった。それよりも強い強い愛情が賢の気持ちを雪江のほうへとどめていた。だから、なにを言われても傷つかなかった。好きだから許せるのだ。それに彼女も心の底から冷たいわけではないだろうと思った。
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