第15話


 五十嵐賢は、次のアプローチの方法を考えていた。

またマンションを訪ねようか、今度も花を持っていこうか。同じ手法じゃ飽きられるかもしれない。高校生の賢は学校に行って授業中も雪江のことを考えていた。教師が教科書を読み上げていろいろ説明していたが、その声は遠く果てしないところから聞こえているようで、頭に入ってこない。ただ、賢の頭には雪江がこのあいだの花と写真にどんな反応をしたかという嬉しい妄想が輝いていた。あの人もきっと芸術のわかる人だから、僕のプレゼントを喜んだろう。そう思うと、心が満たされる気がした。


 学校の帰り、賢はゲームセンターに寄った。ちょうど可愛い犬のぬいぐるみの詰まったクレーンゲームがあって、彼はおっと思った。


「あの人はこういうぬいぐるみでも本物の生き物を愛するように可愛がりそうだ」


 ぬいぐるみにキスしている雪江の姿を思い浮かべ、賢は頬がかっと燃えた。それはうっかり、賢があらかじめ、ぬいぐるみに接吻し、それを何も知らない雪江にプレゼントし、雪江も間接キスをすることを考えたからだ。賢は唇を舐め、瞳を潤ませ、小銭を投入した。クレーンのアームは弱かった。五千円くらい使ってやっととれた。彼は嬉しくて跳びはね、周りから変な目で見られた。


「ようし、今度も写真を送ろう。どの写真が良いかな」


 家に帰った賢は、部屋の床に写真をばらあき、ひとつひとつ手にとって見ていった。青空の下、揺れるブランコと風船の写真がある。


「これなんかいいな。テーマは飛び立とう優しい未来へ。つまりは、僕の胸に飛び込むことで幸せになれるということだ。なんだか夢みたいでいいな」


 賢は犬のぬいぐるみにたくさんキスをあびせ、抱きしめた。あたかもこれが、犬の姿をかりた雪江だと思って。


「賢」ドアをノックされ、声が聞こえた。母だ。

「何」

「あんたもそろそろ大学受験のこと考えなきゃね。お母さん、考えたんだけど、塾に行かせようと思って。どう良いでしょ。一人で勉強するより、勉強がはかどるでしょ」

「いい。僕さ、大学行かないかもしれない」

「馬鹿言わないで、今時大学行かないでどうするつもり」

「カメラマンになるんだ」

「それだって学校行かないとなれないでしょ」

「芸術家になるんだ。僕が取った写真を売って暮らすんだ。写真集を出すんだ。それに僕学校どころじゃないんだ」

 結婚するから忙しいんだ。賢は鼻の穴を膨らませ、興奮した。

「僕はやってゆけるよ」

「何を言っているのそんな上手く行くものじゃないのよ。失敗したときのために大学くらいは出ておかないと。次の職につけないでしょ」

「次の職ってなに。僕にはカメラと芸術しかないよ」

「まあ、いっちょまえのこと言って。悪い方も考えて行動しないと後で困るのよ。あんたの前向きは長所だけど、欠点でもあるわね」

「お母さんだってわかってよ。僕は勉強もスポーツもできない。できそこないだ。でも芸術にはすこし光が見えるんだ。僕にはカメラしかない」

「お母さん不安だわ。どこかの家みたいに仕事もせずにずっとあんたが家にいるようになるんじゃないかって。そうなったら、お母さん、あんたのこと追い出すかもわからないわよ」

「そうはならないよ。きっと」

「わからないわ。だってあんた、堅実的な生き方しようとしないのだもの」

「勉強も運動も嫌いだ。でも何もかも嫌いな訳じゃない。芸術がある。だから、僕は大丈夫だっていうんだ。たとえホームレスに落ちぶれようと、僕は愛するものにをそばにありたい」

「あんたって頑固ね」


 母が部屋を出て廊下を歩き遠ざかっていく足音を聞き、賢はほっとした。


「僕は思う。無駄なことに時間を費やして、好きなことに時間をかけられなかったら後で後悔する。それも好きなことが永遠にそこにあればいいけれど、限られた時間しかいてくれないとしたら、失ったとき、僕は、ずっと奪われた無駄な時間について考えるだろう。全力であの人のそばにありたい。僕は雪江さんのそばにいかなくちゃ。あの人が生きている内にあの人が一番輝いているうちに側にいて、やがて枯れていき姿形がなくなるのを側でじっとみるんだ。側にいたいんだ。彼女の全てを人生を愛したい」


 次の日、学校に行った後、賢は雪江の住むマンションに向かった。白くなめらかで四角いその建物の窓を下から見上げる。光の具合で、窓ガラスは黒く塗りつぶされたようになっている。賢は気持ちがはやるのを感じた。エレベーターがあったが、賢は階段を使って、雪江の部屋の前までやってきた。片手には紙袋を下げている。それはぬいぐるみと写真の入ったもので、プレゼントである。賢は辺りを見渡した。誰かに見られている気がしたのだ。しかし、誰からも見られていないとわかると、急に勇気づいて、賢は呼び鈴を押した。


「はい」

 奥から声がした。ドアがぱっと開いて、額にしわをよせた茂が顔を出した。

「あらあんた、また来たの? こないだはありがとうね」

「いえ、あ、のですね……こ、これを」


 賢が紙袋を手渡そうとすると、茂は当惑したように手をつっぱね、

「そうそういつも貰えないよ。あんたのこと何も知らないのに、こうやって物ばかりもらっても、気負っちゃうでしょ。あんたがどうゆうつもりでこういうことをするのか、まずははっきり言ってもらいたいね」

 と、ただじゃ貰ってくれない気配で、賢は頬を真っ赤にして、つい泣きそうな顔をしてしまった。だいたいコミュニケーションというのが彼はあまり得意じゃなかった。言葉が上手く浮かばず、彼は完全にあがってしまい、声を出そうと必死なのに、鯉のように口をぱくぱくとして、え、あ、とかよくわかない声を出し、しまいには、うつむいて悲しげに自分の靴の先を見ていた。


「恋をしているのね、あんたは……ウチの孫に」


 茂はこうしてみていて何だか気の毒になって言った。


 賢は頷いた。そうすると、居ても立っても居られない恥ずかしさに襲われて、彼は紙袋を地べたに置くと、茂に背中を向けて、一目散に逃げ出した。


 馬鹿なことをしたと思う。こんなみっともない姿。きっと雪江が軽蔑する。しかし、どうすりゃよかったんだ。自分は精一杯だったのだ。一杯一杯で、他に良い動き方を考える余裕がなかった。賢は雪江のマンションの見えなくなったところまで駆けてくると、やっと落ち着いた気がした。そして、一方的に物を送って、自分は何も返されていない。返しが帰ってくるのを待つ余裕もなかったことを考えた。そして、なんだか呆然としたような虚脱感に襲われた。せめて、雪江の喜んだ顔でもおみやげに持って帰りたいと思う。でも、それができないところが、馬鹿みたいな自分なのだと思う。


「僕はいつも無駄なことをして損をするのだ。逃げ腰なのがいけない。これじゃ戦いに負けに行くようなものだ。相手の気持ちを受け止める余裕が無くちゃあ何事も始まらないんだ……」


 賢は心が切なく、寂しくなっていった。体が石のように重かった。失敗したと思った。そう思うと気分が沈んで、何もかもがつまらなく、無意味に感じた。自分が考え思うことも何の価値がなく感じる。賢は来た道を戻って雪江のマンションの前にやってきた。道路から、雪江の部屋のベランダを見上げる。カーテンが開いていた。黒い窓がぽっかり開いていた。すると、カーテンが揺れた。誰か出てくる。賢は思わずニヤリと笑って身構えた。雪江の祖母だった。彼女はベランダに出て、花に水をやった。ふと、彼女は下に誰かがこちらを見上げていると気づいて、顔をその方へ向けた。賢は彼女から見られると、恥ずかしくなって、また逃げ出した。


「ようし、今日は仕方ない。今日は無かったことにするんだ。上手く行かない日もある。急ぐことはないんだ。雪江さんは待ってくれるさ。他の人でないんだ。僕しかいないんだ。彼女を愛せるのは愛する資格のあるのは僕だけなんだ。だから、僕がくるまで雪江さんは待ってくれるさ。絶対そうさ」

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