第14話


 茂は花をいぶかしげに眺めながら、横になってテレビを見ている雪江に声をかけた。


「あんた、五十嵐賢という子知り合いなの?」

「誰?」

「五十嵐賢だって。さっきこれをあんたに渡してって、すぐ帰っちゃったけどさ」


 雪江は何を貰ったのか見るために顔を動かした。それが向日葵だとわかると、つまらなそうにまたテレビに視線を戻した。


「そんな人知らないし、人違いじゃないの」

「隣の部屋と間違えたのかね」


 茂は、向日葵を持って、部屋を出ると、隣の家を訪ねた。しかしそこでも五十嵐賢という子は知らないという。しかたなく茂は、向日葵を持ったまま部屋に戻ってきた。


「知り合いじゃないのにこんなものをくれるなんて、赤の他人のフアンかしらね。ほら、あんたがよっぽど美人になったから、知らずにフアンが出来たんだ」

「気持ち悪いわ。その人。こんな花いらない。何のために」

「そりゃ、あんたに好かれたいんだよ」

「好きになんかなるものですか」


 雪江は過去の失敗を繰り返さないように慎重になっていた。自分が好きになったら向こうは馬鹿にする。男は私みたいな女が嫌いなのよ。男なんて嫌い。汚らしい。あんなものこの世からいなくなってしまえ!


 布団のなかにもぐって、雪江は悔し涙がこみあげてきた。


「あれ、ほら花束のなかに何かあったよ。写真だね。あらあ、綺麗だこと」


 それは夕日と明かりの灯った黒いビルの群である。何とも寂しく美しい写真だろうか。撮影者の優しい性格や、押し殺したような興奮が伝わってくる。のびのびした心の良い写真である。


「雪江、見て」

 茂は布団をめくって雪江を掘り起こした。雪江は涙に顔をぬらしていたので、茂はびっくりし、息を飲んだが、すぐに優しい気持ちになり、

「泣くことないよ、何に泣くの」

「知らない」

「ほら、見て、こんなに綺麗なんだよ。世の中は」

「見たくない」


 外部の人間が自分を踏みつけようと今まさに構えている。そんな気がして、雪江は外の人間が入ってくるのを拒むように目をそらした。そうやって逃げるのが良いと思ったのだ。誰かが自分を気にかけていると思うと心が破裂しそうなほど怖かった。また傷つけられる、そう思って、どうかすると発狂しそうで、雪江は苛々し、憎しみがこみ上げてきた。毛布を口に含み引き裂こうとするように噛みしめた。自分の中の凶暴な感情を毛布を噛みしめることで発散しようとする。毛布はなかなかに丈夫で、肉をかみ切るようには行かない。その方が良かった。あっさりずたぼろになったら、あっけないからだ。自分の怒りを受け止めて踏ん張って貰わないと、雪江は満足しないのだ。


 茂は花瓶に花を生け、写真をタンスの上にかざった。それらを眺め、彼女はなんだか心地よさそうに微笑を浮かべ何度も頷いた。これらのロマンチックなものに、茂は心を奪われ、一人喜んでいた。


「素敵だねえ」


 夜になって月が出ても、茂は家のカーテンを閉めず、電気もつけなかった。暗い部屋のなかにテレビの明かりが瞬く。今日が満月のため、茂は水晶のかけらを窓辺に置き、月光に晒していた。雪江が事故を起こしてから、茂は神様に祈るような気持ちで、占いの本に書いてあったとおりに水晶を飾っていた。邪悪なものを祓い、家のなかに幸福が舞い込むことを彼女は期待していた。


 二人の女は空にぽっかりと浮かんだ真珠のように白い月を眺めていた。小さな灰色の雲が流れ、月を覆う。月の光が雲を透け淡く輝いていた。


 茂がしきりに家の中が幸福に満たされるように祈っている横で、雪江は空の上に小さく浮いた自分を想像していた。彼女は今日は死ぬのにうってつけだなと思った。彼女はおもむろに唇を結び、鼻をつまみ、自分から呼吸を止めた。しばらくすると、苦しくなって、耐えきれず、口を開け、空気を取り込んだ。ぜえぜえと胸をふるわしながら、雪江は脱力した。ひどく自分がいい加減な存在に思えて、怒りがこみ上げてくる。


「そろそろ閉めよう」


 茂はカーテンを閉め、電気をつけた。そして支度のできている夕食を火で温めはじめた。


 雪江はテレビを見る。歌番組がやっていた。その歌のメロディに雪江はいつしか胸を弾ませていた。何も考えず他人が考えた歌の詩を心に取り入れ、癒され、昔の傷ついた心を思いだし、慰められた。ふと雪江はタンスに飾ってある賢という子から貰った写真に目をやった。なんだか懐かしさを感じる切ない写真だった。都会はこんな顔をよくする。雪江はそう思い、心がふわふわとどこでもないところへ飛んでさまようのを感じる。


 温かい卵のスープだけ飲むと、雪江は夕食を終えた。口をもごもごと咀嚼させている自分の姿がひどく滑稽に思えて嫌になった。ばからしい。あらゆることが自分を舐めているように思う。そして、反感の気持ちが起こる。食事をそれっぽちしかとらないので、茂は心配し、悲しみのこもった目で雪江をじっとみつめ、

「もっと食べないと病気になるよ」と言う。


 そんな言葉おせっかいだ。食べたくないときは食べない。私は好きなようにやる。雪江は食卓を離れ、布団に入って、テレビを見る。通販番組がやっていた。こんなものがあったらこうしよう、商品を使う妄想をしながら、ぼうとテレビを見る。楽しい気分を味わいながらも苛々している自分がいる。


 洗い物を終えた茂が雪江の側に座布団を敷いて、煎餅を頬張る。雪江がほしがると思って態と美味しそうな音を立てて食べていたが、雪江は気にならなかった。ほしいとも思わないし、特別うるさいとも思わない。自分というものが深い穴底に落ちている気分だ。人のことよりも自分のことが気になる。苛々。腹が立って、憎たらしい。どうして、自分はこんななのだろう。他の人はどうして、自分に自信があるのだろう。嫌にならないのだろうか。


 何気なくテレビの前のテーブルに目をやると、向日葵を生けた花瓶の周りを蠅がぐるぐる回っていた。


「おや、蠅」


 茂は蠅たたきで蠅を叩いた。潰れた蠅の横でつんとすましているような黄色い顔の向日葵が嫌に気取って見えた。すると、蠅のような汚いものにたかられても平然としている自我を持ったようなこの花に、雪江は羨ましいような、励まされるような気がして、

「美しい者は自分が美しいとわかっているのだわ。だからこう自信満々なのよ」と独り言を言った。


「え」茂が問うと、

「なんでもない」雪江は唇を突きだし、振り払うように言った。

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