第13話
そこに一人の青年が通りかかった。彼は五十嵐賢という高校生だった。なにか障害でもあるのか、頭が悪く、運動もできなかった。しゃべると滑舌が悪いので彼は意識して喋らないようにしていた。しかし、彼の容姿は並外れて美しかった。彼は出来が悪い分、芸術的なものにいくらかの才能を見いだしていた。才能があるというよりも、芸術を愛していたのだ。
彼は目の前に降り注ぐ、美しい花吹雪をみて、感動した。この間は公園で沢山の園児たちの吹くシャボン玉に感動したばかりである。
見上げてみて、彼は、あっと驚き、目を輝かせた。
彼は雪江を見た。今まで見た誰よりも美しい女性。儚げで、夢みたいな。賢は恋をした。そして、胸が躍った。
「こんなところにこんな人が住んでいたなんて」
彼は腰に手を当て、いつまでもそこに立って見上げていた。
「雪江!」
大切に育てた薔薇が無惨な姿になっているのを見てショックを受けた茂が悲痛な声を上げた。雪江の姿がベランダから消える。彼女は祖母を苦しめたことに動揺し、思いつきで自分勝手をしてしまったことを恥じた。彼女は自分一人で椅子を降り、手で這って部屋に戻った。そして、隠れるみたく布団の中にもぐりこんだ。茂は悲しいが、泣きはしなかった。呆れたように少し責めるように、雪江の布団の膨らみを見つめた。
「雪江? あのこは雪江というのか」賢はにこっと微笑んだ。そして、彼はスキップしながら、家に帰った。
家に帰った賢は、母親にただいまといい、おやつのチョコレートを貰うと、自分の部屋にこもった。彼の部屋の壁には沢山の額縁に入ったポラロイド写真が飾ってあり、本棚には束になったファイルが入れられている。このファイルには賢が撮り溜めたポラロイド写真が納められている。賢は本棚からファイルを取り出し、広げてみた。写真に写っているのは花や動物や、空、路地などである。なんでもないたばこの吸い殻が水たまりに浮かんでいる写真もあった。それから雨で濡れた黒い道路が家の窓の明かりで染まっている写真。蓮の池にかかった虹。まるで絵画のようなその芸術的な写真は、彼の宝物だった。
「あの人も好きに違いない。こういうのが。彼女の好きな花束に添えて送りたいな」
賢はチョコレートをかじり、椅子に腰掛けた。そして、心躍るような楽しい気持ちになって口を押さえてくすくす笑った。目の前に雪江の喜ぶ顔が目に浮かぶ。そして、彼女は賢をきらきらした尊敬のまなざしで見つめるのだ。それは、顔だけで無能だと言われてきた賢の自尊心を擽るものだった。好意を寄せている人から才能があると認められると、まるで、自分の心の中の浅ましい気持ちまで認めて貰ったみたいに心が安らぐのだ。賢はおもむろに床に横になり、腹筋運動をやりはじめた。鍛えて男らしい体になって雪江を魅了しようと思ったのだ。しかし、普段運動する習慣のない彼は、すぐへたばってしまった。心地よい疲れが、その身を襲う。やりきったきがして、彼は自分の体が鍛えられたと感じた。それで満足した。彼はその夜眠れなかった。雪江の存在に彼は心から感謝した。出会えて嬉しい。生まれてきてくれてありがとう。幸福な胸のときめきが、彼の気持ちを高ぶらせた。眠って彼は夢を見た。途中で目が覚めて、また眠り、夢を見ては覚め、何度もバラバラな夢を見た。それは楽しい冒険をしている夢で、愛や勇気や、希望にあふれていた。やり遂げることに夢中になって、彼は疲労したが、妙に清い心地だった。朝起きると、眠っている間に見た夢の内容はすっかり忘れてしまった。しかし、彼は夢よりも現実の方が楽しみなのである。
朝だ。今日は日曜日だ。十時になったらお店が開くから、花を買って、それから、あのマンションに行こう。足を踏み出さなければ景色は変わらない。そういう彼の信念が、彼に行動を促す。
花屋では赤い薔薇を買おうと思っていた。しかし、店先に鮮やかな黄色の向日葵が飾ってあって、なぜだか、賢は雪江が向日葵の種を毟って殻をむいてポリポリとハムスターのように食べている姿を想像して、可愛くて胸がドキドキした。彼は向日葵を買った。
雪江のマンションの前に来ると、賢は自信を無くした。花束をぎゅっと胸に引き寄せ、彼は雪江がベランダにでているかもしれないと思って、上を見上げてみる。しかし、そこはカーテンの閉じた妙に冷たい窓があるだけである。人の姿は見えなかった。賢は落胆した。急に知らない人が花を持って現れたら警戒するんじゃないか、そういった不安が彼から勇気を奪うのだった。一時間ばかりうろうろしたあと、彼は意を決してマンションの中に入った。花の香りに引き寄せられる虫のように、彼は行かずにはいられなかった。少しでも近くにそばにいたいのである。
エレベーターがあったが、階段を使った。すぐについたのじゃ、心の準備が出来ないから、ゆっくり考え事をしながら、階段を上がっていった。外から見て、この部屋だろうと思った、玄関扉の前に来ると、賢はその閉ざされている玄関扉をじっと見つめた。まるで呼吸でもしているみたいに、扉から圧迫感を感じた。尻の肉を引き締めて、彼は呼び鈴を押した。
「はい」
まもなく、肌が弱いために染めることを辞めて白い髪になった頭をおだんごにまるめた老婆がでてきた。茂である。彼は青年をみると、宗教の勧誘かと思って、顔をしかめた。
「何でしょうか」
「ぼ、僕は五十嵐賢という者です。お、お、お嬢さんに渡してください」
無理矢理押しつけるようにして、花を渡すと、賢は逃げるように立ち去った。すっかり上がってしまい、不審者や色情魔としてみられる恐怖が彼の足をそわそわさせた。うかつにお嬢さんが好きですといったら、ストーカーみたいだとか、そういった嫌悪で追い払われると思った。それよりも好きという勇気はまだなかった。恥ずかしさが彼の意識を靄のように白くしていた。
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