第12話

 死にきれなかったのだ。


 雪江は事故で両足を失った。しかし、生きていた。だが、心は死んでいた。痛みが恐ろしくて、雪江はまた死ぬ気がなくなっていた。ただ、死んだようにうつろに毎日を生きていた。


 食べることも面倒で食べない日もあった。そのために雪江は痩せてしまった。痩せたために雪江は驚くほど美しく生まれ変わっていた。美しくなろうが雪江にはよくわかないことだった。彼女は未だ自分が醜いと思っていた。鏡はすぐに割ってしまった。生きている自分がどんな顔をして目の前にいるのか見るのが嫌だったのだ。


 茂は雪江が美しくなったことを喜んだ。孫が死のうとしたのは辛かったが、生きていてくれたことが嬉しい。それに、生きる希望も見えてきた。美しくなったならより喜びが舞い込むだろう。雪江が結婚して家を出て行くことを考えて、茂は祝福したい気持ちで嬉しいのと辛いので胸が高鳴った。しかし、雪江に結婚のあてはない。一緒に暮らせることが嬉しい。もう孫が誰かに馬鹿にされることもない。


 食事の時間になって、目の前に食事を並べられても、それを見ているだけで、いっこうに手を着けようとしない雪江に、見かねて、茂は「食べな」と何度も呼びかける。すると、やっと、一口二口口に含み、いつまでもゆっくり咀嚼し、時々、口に含んだまま、飲み込まずに、ぼうとしている。「味噌汁も飲んで」そう茂に言われて、従順に雪江は味噌汁を一口のみ、口の中でつぶれた食べ物をのどの奥に流し込む。


「苦しい……」

「お腹いっぱいなの?」

「あとで食べるわ……」


 居間に雪江の布団を敷いていた。雪江は布団に横になり、テレビをぼうと眺める。感情のない虚ろな目で。


「バナナパウンドケーキを焼いたんだよ。食べない?」


 昔だったら、喜んだ雪江の顔が見られたのに、今は気のなさそうに首をふる雪江がいるだけで、茂は寂しさを感じた。


 食べ物はもう嫌なんだ。食べ物以外で喜ばせよう。


 二人きりになってから、家を売り払いマンションに住んでいた。五階だての、三階が二人の住処だった。古いところだった。壁には湿気でカビが生えている。いくら掃除しても綺麗にはならない。排水からはどぶ臭いにおいが上がってくる。窓が北側で、日も当たらない薄暗い部屋。何年も二人はここに住んでいたのだった。


 目を楽しませよう。孫のために、茂は、ベランダに鉢植えを置き、柵を作って、蔓薔薇を植えた。そして、他にも小さな薔薇や、大きな赤い薔薇を植えた。それはやがて花開き、可愛らしい見た目と、春の暖かい風とともに、芳しい香りを部屋に運んだ。


「まあ、みてごらんなさいな。綺麗だねえ」


 その日は暖かく良い天気だった。ベランダに柔らかい椅子を置き、雪江を座らせると、彼女の頭に薔薇を一輪さしてやった。


「可愛い」茂は嬉しそうに微笑み、小さな手鏡を雪江に見せてやった。よく似合っている。しかし、そこまで可愛くはない。雪江は自分をそう評価した。彼女はもう自分が美しいか醜いかはわからなくなっていた。醜いんじゃないかと気になった。風呂に何日も入っていなくて、髪はべとついていた。爪の間には黒い垢がたまっていた。みっともないこんな自分が美しいとは思えなかった。


「少し上を向いて」

 茂は雪江の唇におそるおそる口紅をぬった。人の唇に化粧するのは妙に緊張して手が震えるものだ。


「ほら可愛い。薔薇と、可愛いあんたと。ぬいぐるみなんかがあったら、まるで絵本のお嬢様だよ。ここはお城だよ。後ろを振り返って家の中を見ちゃ駄目。おばあちゃんが育てた綺麗な薔薇を見て、それから下の汚い建物を見るんじゃなく、美しく雄大な青い空をみるんだよ。あの純白に輝く雲を見なさい。まるで天国じゃないの。そうだ。紅茶でも飲もうよ」


 祖母が部屋に姿を消すと、雪江は一人になり、じっと健気に咲く薔薇を見つめた。霧吹きで水を吹き付けたばかりの、水滴のついた瑞々しい赤やピンクの薔薇の美しさは、雪江には眩しいばかりだった。しゃんと茎の先に咲いたバラの花が、なんだか、顎をあげて威張っている人のように見えて、無性に腹が立った。おもむろに雪江はバラの花を握りつぶした。赤い花びらがちぎれて、手のひらに残った。それをベランダの外に投げ捨てた。花が死んだら醜くなるのかと思った。しかし、落ちていく赤い花びらは、くるくると回りながら風に乗って、それは美しかった。


 死は美しいんだわ。


 雪江は次々に薔薇の花を摘んで、花びらをちぎり、下へ落とした。風に乗って飛んでいくそれが、まるで自分の命まで遠くに運んでいくように感じて面白かった。

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