第11話

 春になって新しい社員が雪江の会社に入社した。水無瀬明里という背のすらりと高いモデルのような美しい女性だった。彼女は若かった。声まで美しかった。頭の形が綺麗で、髪の毛は絹のように細く、まっすぐでつやつやしていた。目は大きく潤んでいる。まるで西洋の妖精みたいに神秘的な美しさだった。ふと目を離した瞬間、彼女が消えていなくなりそうで、その美しさは幻だったように思って、落胆するような、そんな取り越し苦労をさせる。実際は彼女はいなくならないし、彼女は現実にその場に立っている。目を離して、振り向くと、花のような彼女がいる。男性陣は歓喜した。そればかりか、女性陣も、あまりの美しさに微かな嫉妬とあこがれと尊敬を抱き、どちらかといえば、好意的な気持ちを抱いていた。


 しかし、雪江は見てしまった。明里が現れると、浅田までもが、顔をトマトのように上気させ、目はきらきらときらめき、激しく胸をときめかせているようだったのだ。雪江は激しい嫉妬を覚えた。自分が成し得なかったことを彼女がしているのだ。何の困難もなく。


 どうして、私のときと態度がまるで違うじゃない!


 新人に仕事を教えるのは雪江の仕事だった。雪江が明里に声をかけると、明里は顔を激しくひきつらせて、雪江を怯えたように凝視した。彼女にとって、雪江の醜さは戦慄ものだった。こういう醜い人は性格も悪いのよ。嫌なことしてくるわきっと。彼女はそう心で考えて、警戒し、嫌悪で鳥肌が立った。ああ、悲しいことに、人は不快な感情を煽る相手が、犯罪者のような悪人であると思いたがるものだ。なぜなら、その相手を目の前から排除したいばかりに、社会的な制裁を加えられたら消えるのではないかと期待し、それゆえに彼に悪魔を当てはめるのである。また、自分が性格悪いために相手を嫌うのに、自分がそんな悪魔みたいだと思いたくない、聖人だと思いたいというのが人である。だから、相手の心が悪いから、それは誰もが非難できる欠点があるから、嫌うのだと決めつけ、安心し、自分は責められることなく、自由気ままに嫌うのである。


 明里の雪江に対するぎこちなさに気づいて、雪江はいつものことなのに激しい怒りをこのときばかりは感じずにはいられなかった。なぜなら、明里はすべてを手に入れている恵まれた人に見えた。浅田の心も手なづけている。自分よりも遙かに良い思いをしている人がどうして、不幸な自分を傷つけるまねができるのか。雪江は自分の幸福を盗まれているように錯覚した。彼女が幸福なのは人を踏んづける人間だからだと思うと、黒い憎悪が、こみ上げてくる。


 明里の軽蔑的な態度に敷かれているうちに、雪江は、自分が本当に嫌われるような恐ろしい悪魔的な存在に思えてきて、そういう人間にならないといけないような、そういう行動をとるように道がありありと見えてきて、一歩間違えば、そちらに転びそうになってしまった。しかし、雪江は、転んだのだ。転びそうになったとき、掴まるものがあったら、つい手が伸びるように、雪江は、周りの人間の印象によって、動かされるのを感じた。苛々していた。雪江は、明里が間違えると、優しく慰めようと思ったのに、ついきつい声が出て、「いいよ」と吐き捨てるように言ってしまった。それは、相手を見捨てるような、冷たい言い方だった。


 明里は、待ち望んでいたともいえる、自分の雪江に対する印象の正しかったことが証明され、ほら、やっぱりといいたげに、いつでも出せるように用意していた傷ついた態度をとった。それはあからさまだった。明里は俯いて、暗い顔をし、涙を流した。雪江はぎょっとした。それを浅田は見ていた。


 ああ、自分は悪い人間だ。そう思うと、雪江の心は固く強ばっていくのだった。明里を前にすると、変に緊張し、苛々して、自分にだけ嫌な顔をするのが憎くくて、雪江は言い方がきつくなるのを止められなかった。




 ある日、明里は聞けばいいことを、聞きに行くのがこわいからと黙っていて、一人で作業をし、ミスをした。雪江はそれに気づき、

「どうして、聞きに来ないの? 信じられない! それがあなたの悪いところだわ。あなた私を嫌っているんでしょ。だから、避けているのね。好き嫌いで仕事しに来ないで嫌なら辞めてもいいんだからね」


 明里はずばり心を言い当てられると、胸が壊れてしまいそうなほどに悲劇的な気持ちになった。彼女は目の前が真っ暗になり、辞めろと言われたことだけが頭に残った。彼女は泣いた。


「ちょっと雪江さん、その言い方はあんまりだよ」

 他の社員がとがめる。


 まるでいじめだ。でも、誰にもわからないのよ。私の気持ちは! 雪江は明里が泣いても、可哀想とは思わなかった。ただ、彼女の心の弱さが憎かった。それくらいで泣くの? 私だって泣きたい!


「いつも思ってたけど、雪江さん、明里さんに当たりきついですよ。なんでそんなにくってかかるの? 明里さんは新人なんだから。もっと優しくしてあげなよ。雪江さんまた例の心の病気とか言わないでくださいよ」


 浅田は雪江に言った。彼は馬鹿にしたように半笑いでしゃべった。浅田君、私を馬鹿にしている? 心の病気といったら私を笑うの? もし私が泣けば私を笑うの? 明里のことは気の毒がるのに。


 雪江は真っ赤になり涙がこみ上げてきた。雪江は黙り込む。


「指摘してやらないと言えないですかあ?」


 浅田は舐めたような口調で雪江に聞いた。雪江は何のことだと言いたげに彼を見た。

「謝った方が良いですよ」彼は冷たい視線を雪江に投げかけた。


「……ごめんね」


 雪江は頭が真っ白になった。死んでしまいたいほど悔しい。しかし、この場の重苦しい空気を変えるには、自分が負けねばならなかった。


 それから、明里は雪江の顔を見るだけで涙ぐむようになった。雪江は何もしていないのに、彼女は、あたかも何かされたみたいに、へたしたら、涙の滴までこぼす。雪江は彼女とは事務的な会話しかしないで、長い時間彼女に対面しないように、逃げていた。


 あるとき、昼休みに、カフェの前で、浅田と行きあった。浅田は雪江を見ると、激しい憎悪を浮かべてにらみつけてきた。雪江はショックで頭が鈍くしびれ、顔は羞恥と悲しみに真っ赤になった。それを見て、浅田は、

「ぶっさ」

と馬鹿にした笑いを浮かべて言った。雪江は目を大きく見開き、聞きまちがいかと思って、彼を凝視した。

「今なんて言ったの?」

「すみません、つい本音が。前から思ってたけど、先輩って性格の悪さが全部顔に現れていますよね。整形した方がましなんじゃないかな」


 彼はいつも雪江のせいで泣いている明里の敵を討つつもりで、雪江を傷つけようとした。それが彼の正義だった。


 彼の言葉を聞くと、雪江の顔は大きくゆがみ、その顔色は赤を通り越して、どす黒い赤紫色に変わった。のどが鋭い痛みでつっかえるのを感じた。うそ、こんな人だったの? 昔はあんなに親しかったじゃない。こんなに変わるの?


 雪江は涙を見られまいと駆けだした。傷つけられた心が張り裂けそうだった。胸が軋んで痛い。雪江は髪留めを乱暴にはずした。明里が現れてから彼女に負けまいと、浅田の所有を主張しようと、意地でも毎日付けてきた、浅田からの贈り物。だが、今これを身につけるのはとても不愉快だった。熱した油が胃の中を落ちていくように、痛みを伴った憎悪が、首をもたげる。彼のせいで涙があふれるのが悔しかった。それほどまでに彼が大切なのが嫌だった。自分のなかで大きな存在が自分を苦しめるのが耐えられなかった。


 死んでしまう。


 雪江は世界が真っ暗になったように感じた。陰の世界に足を踏み入れたような猛烈な不安感と焦燥感。じりじりと首筋を炙られていた。誰かに背中を押されていた。暗い方へ暗い方へと押し出される。落雷のような激怒が、彼女自身を襲った。彼女は自分自身が心底嫌になった。周りに悪感情を持たせる自分が駄目なんだと、結論づけた。すると、胸がつぶれそうに苦しくなって、心臓は不整脈を起こし、頭はぼんやりする。彼女は歩いた。もう速く走れなかった。ゆっくりじゃないと、体がついて行かれなかった。


「死んだ方がいいんでしょ。私なんて。みんな望んでいるんでしょ?」


 頭がぐるぐるとしてもう何も考えられなかった。ただ、死ぬという一つのことだけが頭の中を大きく支配していく。


 悲しみと辛いしびれが彼女の舌を襲った。


「死ぬわ……」


 その言葉ははっきりとした声になって響いた。心はこんなにも弱っているのに、声はしっかりしているのね。自分のしゃべっている内容が正しいことだからだわ。私にとってより良いことだからだわ。


 死に、胸をときめかせて、雪江は足音もなくゆっくり歩いていく。幽霊みたいに、人々には映ったろうか。雪江は青ざめ、目の色は暗く、猫背になって、下ばかり見て歩いていた。


 ふいに踏切の激しい警報音が辺りに鳴り響いた。雪江は顔を上げ、目を輝かせた。目の前の線路に遮断機が降り、向こうから電車がやってくる。雪江は胸がつぶれそうになりながら、若干死の甘い痺れに興奮しながら、踏切の中に進入した。


「ちょっとあなた、何しているの?」


 小さな女の子を連れた母親が、雪江を見て驚いて言った。雪江は振り返り、気の抜けたような顔で、その母親を見た。そして、女の子を見た。


 ごめんね。トラウマ与えちゃうね。


 最後に優しい思いやりの気持ちになり、雪江は微笑した。親子は雪江の病的な表情にぎょっとして、怯え、凍り付いた。


 それは直ぐにやってきた。誰も助ける暇はなかった。強い衝撃の後、雪江は体をすりつぶされる強い痛みに叫び、意識を手放した。

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