第10話
ファンデーションを厚く塗りたくり、本来の顔の赤みが隠れた自信と、今までのようではいけないと言う、自分を責めるような気持ちから、雪江は顔を上げて、きちんと目を見て、浅田と話せるようになった。
そして、香水はつけていなかったが、化粧から香る甘い匂いが雪江の周りを取り巻き、それを雪江も吸い込みつつ、なんだか良い香り。大人の女の香りだわ。と背が伸びたかのような目線が一段高いところにたったような、そんな優越性を覚えた。
自分が女らしく成長したことが雪江は嬉しい。もちろん、浅田から貰った、髪留めは付けてきた。付けるのが礼儀だと思ったし、つけたかったのだ。浅田が自分に寄り添ってくれている、そんな気がして。
女らしくなったことで、雪江は自分に女を強く意識した。そして、恋の気持ちが彼女の背中を押し、踏み出す毎日が生き生きとした。見える世界が薔薇色に見えた。景色が色鮮やかで鮮明で、瑞々しく、道ばたに咲く雑草の小さな花や、街路樹の節くれ立った太い枝や、青青とした葉っぱが太陽の光を反射してきらきらと輝く様や、空の透き通るような青さ、夕暮れのセピア色が、目に入る何でもない物が夢のようで美しく、うっとりと見ほれ、心が幸福に満たされる気持ちだった。
時折、雪江は浅田と仕事終わりに飲みに行った。そして、この日もまた誘われ、嬉しいのを隠しながら、普通な顔をして、いいわよと受けた。
ビールをちびちび飲みながら、恥ずかしさと緊張で会話に息詰まり、料理に沢山手をつけていると、浅田は、
「いつも思っていたんですけど、雪江さんって健康的ですね。なんか元気です。沢山食べるのは健康の印だから。俺の母親はガンで死んだんですけど、最後は何も食べなかった。やっぱり食べている人をみると安心します」
「まあ、お母さん亡くなられたの」
雪江は慰め顔に言った。
「早いのね。私の母と父も生まれて直ぐに亡くなっているのよ」
「それはお気の毒です。ご病気ですか?」
「事故なの」
さすがに自殺とは言えなかった。引かれるのが怖い。
「寂しかったでしょう。両親がいないんじゃ。俺は子供の頃はまだ母親も生きていたから……」
思い出したのか、浅田の両目は赤く充血して涙がたまっていた。
雪江は彼が泣いては、彼が後で屈辱を感じるのではないかと気を使い、話題をかえた。
浅田に健康的といわれ、雪江は安心して食べられた。それどころか、沢山食べなくてはいけないような気がして、彼を喜ばすためにお腹いっぱいでも次々に詰め込んだ。いつも以上に食べてしまった気がする。自分の元気な姿をみて、彼が病気で弱った母親の姿を一時でも忘れてくれればいいと思った。彼の心の悲しみが癒えるといいのにと思った。こうした自分の献身的な姿が、浅田に良い影響を与えればいいのにと雪江は期待して、胸が弾むようにそわそわした。親切を施した後のような満ち足りた気分で雪江は浅田と店を出た。
「気持ち悪い……」
店を出て少し歩くと、浅田は嘔吐した。
「調子に乗って飲み過ぎた」
浅田は顔をしかめ、口元を拭った。雪江はすかさずティッシュを渡し、背中をなでてやった。気を利かせたことで雪江は得意になり、浅田と一つに重なるような満たされる心地がした。雪江はうれしさに唇が弧を描きそうになったが、この場に不釣り合いだと、筋肉に力を入れて押しとどめる。
「きっとお母さんのことを思い出したからよ。悲しい思い出だから、いつもよりもお酒が進んじゃったのね」
それを聞くと、浅田は嫌そうに顔を歪めて、固まったようにじっと自分の汚物を見下ろしていた。
雪江ははっとした。言っちゃいけなかったんだわ。マザコンと思われたとか彼は気にしたんじゃないかしら。雪江には浅田の気持ちが骨身にしみるようによくわかった。
「あたりまえのことだわ。人って悲しいことも嬉しいことも感じるのが普通よ。その感情でだるくなったりうきうきしたりするのも普通だわ。時に失敗したりするわね。完璧な人ってどこにもいないでしょ。逆にうまくいくこともある。その人の経験と技術が正しい道に進ませるのよ。がたがたの道を歩いていくのが人生だと思うわ。いつもはうまくいかないの。生きることに楽というものはないのよ。だって、きちんと舗装されている道じゃないんだものね。道でない道を、歩かねばならないんだものね。先陣が道を示してくれていればいいけれど、ときに土砂が崩れていたり、木が倒れていたり、道が何らかの形でふさがっていることもあるわ。それに、自分自身に怪我があってうまく通り抜けられないこともあるわ。理想の自分はあれど、その理想ってたいては届かないものなのよね。だからこそ歩いていけるんだわ。ほら、ゴールって直ぐには届かないでしょ。ずっと向こうにあるでしょ。自分が至らないと思っても、何も悲しむことはないのよ。頑張っているじゃない。毎日一生懸命に。人生を一生懸命に歩いている人は、すてきだわ」
雪江は浅田の背中に手を置いて、にこっと微笑んだ。厚い化粧をしていることで変に自信が出て、大人の女の色気が発散されているように感じた。雪江は小首を右に傾げ、うつろなとろけたような目をして、浅田を魅了しようとする。
一瞬、浅田は雪江の心が見えた気がした。自分に気があるな。でも俺は……。
笑おうとして、浅田はひきつったような怯えたようなぎこちない笑いを顔に浮かべた。彼の目には、見下しの色が顕れていた。それは意地悪く、差別的であった。彼は容姿の悪い女から恋愛感情を持たれることに迷惑していたが、それを表に出すと自分が悪者になるのを恐れ、心の奥にひた隠しにしていた。だが、心と体はつながっているもので、表情や動作にそれはどうしても顕れてしまうのだった。
醜い女に好かれているどうしようという混乱に頭を支配され、浅田は雪江の愛ある慰めの言葉の優しさに気づかなかった。それどころではなかった。
人というのは不快なものを相手に感じると、相手のことをもっと嫌いになろうとするものである。そして、相手の何気ないところを批判的にとらえて、相手が自分にとっては悪人で災い人であると考えずにはいられない。そして、自分の一方的でわがままな嫌いという気持ちを、相手が悪いからだと責任転嫁しようとする。
そうだ、浅田は雪江にマザコンを指摘されあざ笑われていると思いこみ、強い羞恥と憎しみを覚えた。そして、母のことをさらけ出すように誘導されたと、雪江を恨んだ。
「帰るよ」
浅田はぶっきらぼうに言った。
その冷たい彼の声に雪江は敏感に体をふるわせた。恐ろしかった。何か取り返しのつかないまちがいをしでかしたんじゃないか。
彼の心が離れていく。なんとかつなぎ止めなくては。嫌われている。そんな負の雰囲気を壊したくて、雪江は媚びを含んで近づく。
「浅田君とは気が合うわ。ねえ、下の名前で呼んで良いかしら? 薫ちゃんって、ほら、友達みたいなれたらいいなと思って……」
雪江は真っ赤になってうろたえた。浅田の表情の変化を見て、自分がすぎたことを言ったと思ったのだ。
「今までのままで良いよ。その方が気に入っている」
「そうね……」
気に入っているんじゃなくて、他人としての距離を保っていたいだけでしょ。雪江は、悔しさに唇を強く噛んだ。どうして、あんなよけいなことを言ってしまったのだろう。つい何か言おうとして、言わなくても良いことを言ってしまった。自分の心が浅ましい。
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