第8話
やがて、雪江は就職をして、老いた体にむち打っている祖母を助けるために高校を出てから働き始めた。仕事は事務だった。汚い零細企業の隅の席で、仕事を教わりながら、雪江は明るくはないが、それなりに会話し、生活した。すばらしいことに、雪江は仕事ができた。そして、二年くらいで給料も増え、仕事も増やされ、かなり重宝がられるようになった。同僚たちは、雪江を慕い、雪江はひっこみじあんで、時にはむっつりしているように見えたが、的確な指導をしてありがたがられ、受け入れられていた。
あるとき、浅田薫という背の高い鼻筋の通った美男子が、入社した。雪江は浅田の美しい黒髪と太い眉とその奥の二重の垂れた目に惹かれた。声も低くてバイオリンの音色のように腹に痺れて響く良い声だった。
彼は雪江から仕事を教わりながら、時折ふざけて、雪江の髪をひっぱった。彼は悪戯好きで、これがコミュニケーションの一環だった。雪江が困惑したようにちょっと、と言うと、それが面白いらしくげらげらと笑った。誰にでも彼はこうだったが、雪江の気持ちは振り回され、いちいちどきどきした。しかし、こういう美しい男には恋してはいけないと雪江は自制した。なぜなら、彼は竜二のときのように雪江に同情心はあれどそれ以上の気持ちは持ちようがないのだから。
浅田は背筋がピンと伸び、長い足をバネのようにして歩くので、その優雅な美しさは、雪江の目に留まった。雪江はちらりと横目に見ながらも、直ぐに自分の顔の温度が上がるのを感じて、恥ずかしさと後ろめたさに、視線を逸らし、自分の仕事に没頭した。
それでも、目に焼き付いた先ほどの美しい映像は、雪江の心を気持ちよく擽った。駄目だわ。惹かれているわ。雪江は赤い顔を周りの人に見られて笑われはしないかと恐ろしくなり、お手洗いに逃げ込み、洗面所で熱くなった頬と首の後ろを水で湿らせたハンカチで冷やした。首の後ろを冷やしたのは、そこに大きな血管が通っているので、熱くなった血が冷えて、顔色が白くなると聞いたからだ。
鏡を見ると、太った自分が写っていた。まったく魅力というものを感じられない。これでは、あまりに……と思う。雪江は弱ったように額に手のひらを当て、悲しげな顔を作った。口をへの字にし、今にも泣きそうな顔。負けを認めた顔。そんな自分を見て、静かに頷いて納得し、自分の運命を受けいれ、気持ちに終止符を打とうとする。終わっているんだから。決してうまくいきっこないんだから。望まない方が良いわ。うまく行かないとわかっているのに、容赦なく襲う自分の浮ついた心が憎かった。
相手の気持ちを思うと、性格が悪いと感じたが、雪江は浅田を避けるようになった。どうしようもなかった。浅田に近づくと自分が壊れそうになる。ふとした瞬間に別の自分が出てきて、恐ろしいことをしてしまいそうになる。浮かれて羽目を外した自分の失態を思うと、それはあってはならない恥ずべきことであり、どうしても阻止したかった。そして、雪江は浅田に冷たくなることで、自分の心も冷却しようとつとめた。自分の気持ちから目をそらし続けた。
すると、はじめはにこにこしていた浅田も、雪江に何度もすげなくされるうちに、彼も鈍くないので、嫌われていると思ったのか、時々、傷ついたような哀愁漂う顔を雪江に見せるようになった。雪江は胸が痛んだ。こんな顔して欲しくない。誰が彼をこんな顔にさせたの。私だわ。私が傷つけたの。嫌われたわ。私を不快に思っている。苦しい。でもいいの。慕われなくなれば、彼が私から遠ざかっていけば、私も楽になるわ。もう心が振り回されなくて済むわ。
浅田が暗い顔をしているのを何度も何度も見ているうちに、雪江は自分がとんでもない悪人に思え、自ら進んで悪人らしく生きようと気持ちがどんどんひねくれていった。悪いことをするのに躊躇していたのが、今では、それほど苦痛ではなくなった。板についてきた。雪江は自分の気持ちが彼から離れているのだと思い、喜んだ。
ある日、朝出勤すると、廊下で出勤してきた浅田とはちあった。彼はぎこちない笑顔を浮かべ、おはようございますと言った。しかし、雪江は、彼のそのぎこちない笑顔をみた瞬間、彼が嫌々であることを知った瞬間、深く傷つき、胸が苦しくなり、辛くなり、のどがつっかえ、声がでなかった。動揺した自分の顔に気づかれないよう、雪江は顔を背け、足早に逃げ去ろうとした。
「待ってよ!」
浅田が強い口調で呼び止めた。
雪江は彼の声の大きさに驚いて、思わず立ち止まった。そして振り返った。
廊下には二人以外誰もいなかった。浅田は怯えた子犬のような顔して言った。
「俺、雪江さんに何かしましたか? 今だってわざと無視しましたよね。いつもなんか冷たくないですか? 前は違ったのに。急にどうしたんですか。もしかして、俺、謝ったほうがいいですか」
雪江は青い顔をして、唇を引き結んで震えていた。そうだ、当然相手を傷つければ、その行動は責められる。そんなことわかっていてもいいはずなのに、いざ言葉をぶつけられると、雪江は恐怖に縮み上がった。なんて言えばいいの。本当のことは言えないわ。じゃあ、なんて言えばいいの。うそをつくの? どんな嘘?
こう言った場合は人というのは何も言えない。だんまりを決め込む。
浅田は鞄から紙袋を取り出し、雪江に渡した。
「これ、誕生日プレゼントです。お世話になったから、何かお返ししたくて。気に入らなかったら捨ててください。すみません。俺も悪いところいろいろあったのかもしれない……これからは気をつけます。だから、嫌いにならないで」
そのプレゼントを両手で包むように持ちながら、雪江は胸がいっぱいになって、涙がこぼれ落ちた。
「ごめん。あなたは悪くないの。本当よ。私、その、心の病気で、私生活でうまくいっていなくて、心がぐちゃぐちゃだったの。それで、私、あなたにやつあたりしていたんじゃないかしら。そうやって心を保っていたの」
雪江はもっともらしい言い訳をして、つい浅田に歩み寄ってしまった。しかし、完全に近づいたとは言えない。どこかで逃げる余裕を含んでいた。
少し不満そうに浅田は顔をしかめた。自分の問題なのに、他人を苦しめるなんて言語道断だとでもいいたいのかもしれない。雪江は胸がずきずきした。後ろめたくて、いっそこの場から消えていなくなりたかった。自分を苦しめる存在のいない安全な場所にひとりぼっちで閉じこもりたかった。
「人間の心って、意思とは別に、勝手にあっちに行ったりこっちに行ったり般若無人に動くから、自分ではコントロールが聞かなくなるんですよね。辛いときは辛い顔をするのが当たり前なんですよ。雪江さんも苦労しているんですね」
浅田は慰め顔にしんみりといった。
「ごめんね。許してね。プレゼントありがとう。大事にする」
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