第7話
祖母が学校へどう言ったのかはわからないが、雪江は保健室登校するようにと言われた。
教室に行かず、保健室に登校し、そこで自主学習をするのだ。それでも学校という建物に行くことに、雪江は恐怖を感じた。もし、竜二や他の人たちに会ってしまったらどうしよう。もう顔も見たくない。怖い。
本来の登校時間よりも少し遅れて行くことにした。
そうしたら、彼らは授業中で、姿を現さない。それでも、雪江は朝家を出て、学校が目の前に近づくと、胸がどきどきして、目眩のようなものを感じた。脳味噌が頭蓋骨を突き破り頭上を浮遊している感じ。体が鉛のように重かった。雪江は何度も道で立ち止まり、後ろを振り返り、家に戻ろうかと思案し、行くべきだという義務感に突き動かされ、また歩きだし、長い時間をかけて学校にたどり着いた。
保健室の先生は女の先生で、雪江を優しくタメ口で迎え入れた。彼女は明るく笑い、恥ずかしそうにうなだれている雪江の肩に手を置いて、雪江のために用意した席に連れて行った。それは保健室の奥の方の、入り口から見えない死角に備え付けてあった。そこにはカーテンが掛けられ、隠れられるようになっていた。
「プリントが沢山あるの。大変だけど、一生懸命勉強してね。わからないところがあったら、私に聞くのよ。遠慮無く聞いて」
雪江は席に座り、鞄から筆記用具を出して、プリントに取りかかった。
静かだった。外でカラスが鳴いていた。机の下で足を絡ませ、右足のつま先を左足のつま先で踏んだりこすったりして、だれてきた気持ちをごまかす。雪江は大きなあくびをした。それを見ているものは誰もいない。のんびりした良い気持ちで、雪江は腕を高く上げ、伸びをした。首を回し、肩のこりをほぐす。
「失礼します」
誰かが保健室に入ってきた。雪江は息を潜め、聞き耳を立てた。
「あら、田中さん、またなの」
「はい、具合悪くなっちゃって。お腹が痛いんです。それに頭も痛くて」
「熱を計りましょ」
「はい」
しばらく無言で、計温機のぴぴっという音がしたと思うと、田中という生徒が、
「具合悪い吐きそう。寝てても良いですか」と弱々しい声で言った。
「熱は無いみたいだけど、少し休んでいって」
「はい。ありがとうございます」
田中という生徒が保健室のベッドに上がるきしんだ音が聞こえた。それからカーテンを閉める鋭い音も聞こえた。雪江は耳をそばだてていたが、やがて無音になると、余所のことにかまわないで自分のことをしようという気になり、鉛筆を動かし、プリントの問題を解き始めた。
しばらくすると、砂を掘っているような音が微かに聞こえた気がして、雪江は手を止めた。それはごく小さな音で、間を空けて一度さく、と聞こえるか聞こえないかだった。それは使われているカーテンの閉じたベッドのあたりから聞こえた。保健教師は気づいていないようだった。雪江の場所がベッドに近いので聞き取れたのかもしれない。雪江は不思議に思った。
ふと、手元が動いて、消しゴムを落としてしまった。消しゴムは弾むように転がっていき、田中という生徒が入ったベッドの下に入ってしまった。雪江はどうしようと思った。ベッドのカーテンが少し開いていた。雪江は声をかけて消しゴムをとろうと思った。消しゴムは一つしかなかった。あれがなければはかどらない。勇気を出して雪江は近づき、隙間をのぞき込んだ。そこには太った狸顔の少女が居て、丸いビスケットをかじっていた。彼女の足の上には、ティッシュに包んだビスケットが山盛りにあった。
「え」
雪江は驚いてつい声が出た。田中はびっくりして、こちらをみると、悪戯っぽい笑みを浮かべて、人差し指を口に当てた。
「誰にも言わないでね。ちょうど良いから君も食べない?」
太った少女はまるまると膨らんだ頬をもぐもぐと動かしながら、小声で誘った。彼女は二重顎で、首が無く、肩もたくましく、胸が大きく腹が出ていた。かなり太っていた。それが、なんだか親しみを感じさせた。
田中はビスケットを雪江に差し出した。断ると言うことは優柔不断な雪江にはできなかった。雪江は受け取り、口にした。音で保険医に聞かれるといけないと思い、口の中で噛まずに溶かした。優しい甘さが口いっぱいに広がる。
田中は雪江を見るとくすりと笑った。どんな顔をしていたのだろうと、雪江は、はっとした。きっと美味しくて幸せそうな、とろけたような変な顔をしていたのだろう。恥ずかしくて、雪江は赤くなり、息が詰まった。しかし、田中はそんな雪江の緊張を解すように、親しげに雪江の肩をたたき、
「美味しいでしょ。一緒に食べましょ。まだあるの。でも静かにね。先生にばれちゃうから」
田中に手招きされて、雪江はベッドの端に腰掛けた。
「見るつもりはなかったんだけど、消しゴムがベッドの下に入っちゃったのよ」
言い訳がましい弁解を早口に小声でまくし立てると、雪江は田中に責められるのではないかと、覗き見したかったのに、嘘を言っていると思われるんじゃないかと思いこみ、上がってしまい、さらに顔が赤くなり、鼻の頭には汗まで浮かんだ。
「そうなの」
田中はどうでも良さそうに言った。
「チョコレートもあるの。食べよ」
雪江が食べていると、田中は嬉しそうに笑い、
「君って美味しそうに食べるね。私気に入っちゃった。ねえ、なんて名前なの」
「雪江」
「私は紗英っていうの。君も具合悪くて保健室にきたの?」
「違うわ。私はその……保健室登校なの」
「へえそうなの。苦労しているのね。ねえ、私たち友達になりましょ。君の食べっぷりみていたら嬉しくなっちゃった。家にもっと美味しいものあるの。帰り一緒に帰らない? 私の家に上がっていって。食べさせたいの。君って食べるの好きでしょ。私も。嬉しいな」
紗英は優柔不断な雪江を引っ張っていく有無を言わせない強引さがあった。それが、雪江には心地よかった。
下校するとき、二人は並んで歩いていた。すると、心ない生徒が、二人が太っていることを馬鹿にして笑った。すると、雪江は自分のせいで笑われたと思い、悲しくて辛くて、申し訳なくて、紗英に謝った。すると紗英は悲しそうな潤んだ目をして、
「私いつもなの。いつもああだよ。君のせいじゃないよ。一人の時も言われているから」
「ストレスで食べちゃうからよけい太るのよね」
「そうなんだよね。やせている人たちってどうして太っている人を敵視するのかな。別に迷惑なんてかけていないのに。他人の生き方が気になるのね。自分の思っているように動かないのが憎いのね。自分のことだけかまっていればいいのにね」
二人ともお互いの顔を見て、その顔が他人に侮辱された怒りと羞恥に赤くなっているのに気づいた。そして、自分と同じということが、心をそっと愛撫されているような、そんな暖かさを感じた。
二人は急速に仲良くなった。雪江は紗英の家でいつも何かしらごちそうになり、それは高価なものではなくジャンクフードが多かったが、それでも楽しく会話し、食べながら親睦を深めた。休みの日になると、二人は豪華な弁当をつくりおやつを持って、図書館に行き、そこで本を読み、知識を付け、図書館の中に併設されている休憩所で食べ物を広げ食べた。食べる楽しみのために図書館にきているという感じだった。自分と同じような人間がもう一人いるというだけで心強い。
雪江はどんどん太っていった。彼女は自分が醜くなることに無頓着だった。いや、少しは気にしていた。しかし、どうせブスだしという諦めの気持ちが、彼女の怠惰の心に拍車をかけていた。
いつしか別々な高校へ進学し、連絡も時々から、だんだんたまにになり、この幸福な友情はついに終わりを告げたが、人目を気にしないところまで心が回復していた。
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