第6話
祖母が泣く姿を初めて見て、雪江は動揺した。意地悪で小うるさい祖母が、子供のように弱々しく泣いている。どこか付け入れる隙を与える、そんな様子。雪江は激しく声をあげて泣いている祖母を見て、自分は静かに涙を落とし、その涙に嫌悪すら覚えたのにと、あけっぴろげな祖母が子供のように見えて、代わりに自分が大人になった気がした。そして、祖母が可哀想に思えてきた。
「わかった。死なないわ。でも、私もう学校に行きたくないの。行かないで良いでしょ」
「何を言うの。そりゃ駄目だよ。子供は勉強しなきゃ」
「どうしても嫌なの。学校行きたくない」
「あんた、ひょっとして学校でいじめられているの?」
雪江の顔が引き攣る。そして、真っ赤になった。
「先生に相談しよう」
「いいの、やめて。学校に行かなければ済むことだわ」
「でもね」
「もう嫌なの。いっぱいいっぱいなの。耐えられないの!」
雪江はヒステリックに叫んだ。そして、立ち上がって自分の部屋に逃げ込もうとしたが、足を踏み出した途端、つまづいて、倒れた。興奮したドラマ的な気分が削がれたので、雪江は腹が立ち、絨毯に爪を立て、力一杯ひっかいて、その柔らかな毛羽立ちに跡を残した。そうして、攻撃的になることで、苛立ちが霧のように散って、心が軽くなった。
「大丈夫?」
雪江は答えないで起きあがった。
「今からごはんにするから、テーブルに座ってなさい。すぐできるから」
茂は雪江のご機嫌をとる方法をよく心得ていた。離れていこうとした孫の心を自分のそばに引き留めておくには、雪江の好きなことで釣り上げるのが一番良い。
俯いて、髪の毛で顔が隠れ、暗い陰になっているために雪江の表情は見えなかったが、彼女は確かに、こくり、と一度頷いて。食べたい意思をしめした。内心、茂は驚いた。あんなに食べたのに、まだ食欲があるなんて。呆れながらも、それを顔に出さず、茂は媚びるように笑って、エプロンをつけて、キッチンに向かった。
焼き魚と総菜のコロッケと、豚バラの野菜炒めと、ごはんがなかったので、ホットケーキを沢山焼いて、雪江と茂は食事した。
食べ終わると、茂は言った。
「明日おばあちゃんね、先生に相談しに行くからね。あんたは家に居ていい。私が一人で始末してくるから、あんたは何にもしないでいいの。何にも心配しないで良いの。考えなくても良いの。わかった?」
「私がいじめにあったなんて言わないでよ。だって、いじめらしいいじめじゃなかったし、私嫌われていたし、嫌いな人にはみんなあんな態度よ。普通よ」
「あんた嫌われるようなことしたの?」
「してない。ただ、私ブスでしょ。大人しいしブスは嫌がられるから。気味悪いって」
「そんなこととない。雪江はブスじゃないよ。おばあちゃんが解決してあげるから……」
雪江は茂の言うことを本気にしていなかった。祖母が何か言うぐらいで解決できるようなものではないと思う。言って直るものではないのだ。心の問題は、相手の気持ちの問題は、生理的な問題で、嫌いなものを好きになるのは難しい。嫌だと思うその気持ちを変えるのは死ぬことよりも難しいのだ。なぜなら死ぬのは物理的なものだが、嫌というのは、気持ちの問題で、本人の価値観なのだ。生まれてから今まで培ってきたものを否定しても、本人は自分が正しいと思っているから、鼻で笑われるだけだ。感情は自然に生まれる。本人がモラルを持てば、多少の不快な気持ちは隠せるかもしれない。しかし、心に生まれた負の感情は確かにそこにあるのだ。それが恐ろしいのだった。偽りで優しくしていても、ある時、ふとした瞬間に、本当の気持ちが、仕草や表情に顕れる。そのときのショック。裏切られた気持ち、気を許していたのに、急に平手うちされたような気持ち。人間が信じられなくなる。むしろ人間が優しいというのは幻想で、本当は、人間なんて屑の集まりなのかもしれない。
雪江は無駄だと思いながらも静かに頷いた。腹一杯で心地良い気分にまどろんで、祖母を否定して、怒らせるような、そんな意地悪な気分にはなれなかった。雪江は祖母の美味しい料理に感謝していた。無駄だけどやってみればいい。それよりも学校を休めるのは良かった。明日苦しい思いをしなくても良いと思うと雪江は気持ちが楽になるのだった。
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