第5話

 雪江は家に帰ると、窓から夕日の当たる部屋にぺたんと座り込み、オレンジ色に染まった空をぼうと眺め、徐々に暗くかげっていく部屋に、自分の姿が消えてなくなる気がしながらも、淡い苦しみを感じていた。


 おなかが空いた。気分は憂鬱でも、胃の動きは活発で、きしみをあげてうなる。お湯を沸かし、カップラーメンを食べた。満たされると心まで満たされる思いしがし、もっと気持ちいい泥酔に浸りたくて、炊飯器のごはんをどんぶりに盛って、冷蔵庫にあったたらことマヨネーズをのっけて胃の中にかっこんだ。食べている最中は苦しいことなどすべて忘れられた。祖母が雪江のためのお菓子を買い置きしないので、雪江は仏壇に供えていた小さなお菓子も盗んで食べた。美味しくて、腹がいっぱいになると、雪江は、真綿に包まれているような優しい気持ちと、過去の悲しい思いで、だるくなり、疲れて、瞼が重くなった。食べ散らかしたものをそのままに、雪江は横になって昼寝した。


 目覚めると、あたりは暗くなっていた。竜二を思い出すと罪悪感で辛くなる。死なないと。雪江は風呂にお湯を溜め、裸になり、風呂に入った。温かく体が痺れていく。頭がぼんやりする。雪江は風呂場に持ち込んだカッターを掴み、刃を出し、手首にあてがった。一度薄く切れた。しかし、これでは駄目だと、二度目、今度は深く切れた。赤い血が丸く湯船の中に落ちる。雪江は傷口を風呂の中に沈めた。


「ただいま」祖母の茂が帰ってきた。


 雪江の食い散らかしを見つけると、彼女はおでこのしわを深くした。孫が豚のように食べて、片づけもきちんとしないだらしない女なのが彼女は許せないことに感じた。似ている。あの女のようだ。私から大事な一人息子を奪った、あの女に。孫がその女と同じになってはいけないのだ。雪江にがつんと言ってやり、彼女を更正させよう。茂は怒りに胸を激しく鼓動させ顔を赤くして、青筋立て、足を踏みならして家の中を歩き回り雪江の姿を探した。そして、風呂場の給湯器の電源が点いていることに気づいて、風呂の戸を思いっきり開けた。赤い湯船を見て、彼女は仰天した。


雪江はまどろんだ目で祖母を見返した。


「馬鹿! 何してるんだ、あんたは!」


 湯船から引き吊り出し、手首から滴る血を見て、理解し、茂は腹が立って、雪江の頬を強くぶった。


「本当に似ているよ。あんたはあの母親にそっくりだ。こんなことして、私がどれだけあんたの母親を憎んでいるかしらないの?」

「お母さん?」


 父と母は事故で死んだと聞いていた。そっくりとはどういうことだろう。顔が似ているのか。しかし、写真の母は美しく、とても太っちょの雪江とは似ていない。ということは母も自殺しようとしたことがあったのだろうか。


「あんたに話した方が良いかもね。だって、そうしないと、あんたはどこまでも間違った道に行きそうだから。まずい手本を見て、まねしないようにしてもらいたいね」


 ナイフで切った傷はそこまで深くなかった。お湯から上がり、ガーゼをはって、しばらくして血も止まり、雪江は着替えて、居間に座った。向き合うように茂も座った。


「今日みたいに物を沢山食い散らかして、あんたみたいにね、食べ物に執着が強いのはあんたの母親も同じだったの。あの女はいつも沢山食べていたよ。そして、トイレで吐いて、また食べて。汚した後の掃除もしないでだらしなくて、派手で、いつも高い服を着て、出歩いていた。ある雪の日、あの女はお父さんと一緒にマンションから飛び降りて死んだんだよ。遺書もなくてね、なんで死んだのかわからなかったんだけど、あの女の遺品を整理して、メールなんかを読んでいたら、ホストの男に貢いでいたのがわかってね、そればかりか、調べていたら、借金もしていて金の工面に風俗でも働いていたの。死ぬ直前にもホストの男に未練っぽい内容のメールを送っていてね、浮気していたんだ。一人では死に切れなくて、あんたのお父さんも道連れにしたんだよ。私にはどうしても許せなくてね。あんたにはあんな不愉快な女と同じ道を歩んで欲しくないの。だから、がつがつ食べることはしちゃいけないといつも言っているの。母親と似ていないまったく違う人になってほしいの。ねえ、わかるかい?」


 話しているうちに怒りやら悲しみやらで、茂は涙ぐみ、嗚咽しそうにのどが苦しくなったので、後は何も言えずに、言葉を切り、唇をふるわせた。雪江を眺めていると、泣いてしまいそうなので、茂は絨毯を敷いた床に視線を落とした。醤油をこぼしたシミが茶色くついていた。それがなんだか落ち着く。


「食べることは悪いことじゃないわ。食べないと死ぬでしょ。食べた方が良いのよ」

「でも、あんたは食べ過ぎなんだよ」

「私以外にも食べ過ぎな人はいっぱいいるじゃない。どうして私だけ食べちゃいけないの? 私、食べること以外幸せがないのに。苦しみも忘れられるの。でも、今日はすごく落ち込んでいて、死ぬしかないと思ったの」

「死ぬなんて考えるなんてよっぽどだよ。何があったか聞いてもいい?」

「なんでもないことよ。言いたくないの。私の問題だから。でも私お母さんの話聞いてよかった。お母さん不幸だったのよ。私たちにはわからない問題がきっとあったんだわ。だって、自殺するなんてよっぽどだものね。死ぬのはとっても苦しい気分の悪いことだわ。おばあちゃんは、お母さんのことあまりよく思っていないみたいだけど、もっと優しい気持ちを持つべきよ。死を考える人には慰めが必要なのよ」

「おまえはあの女を知らないからそう言えるんだよ。あの女はろくでもないよ」


 雪江はとても嫌な気持ちになった。たった一人の母親を悪く言われると、自分までけなされている気がした。自分が良いと思っている存在を否定されると、自分の大切なおもちゃを余所の子に壊されたような反感を覚える。そして、嫌なことを言った人の印象が悪くなるものだが、雪江もまた、茂を分からず屋で意地っ張りで意地悪な老婆に見えた。そして、こんな立派じゃない女が、自分と血のつながった祖母だと思うと、激しく気分が落ち込んだ。


「死にたい」


 もう何もかも嫌だ。嫌なものばかり。汚い物は何も見たくない。自分には死しかないと思うと、それが余りに哀れで、自分のことなのに、自分を思って悲しくて泣いた。宝石のようにきらきらと次から次へこぼれ落ちる涙を、手で拭いながらも、その涙がうっと惜しいと思うのだ。泣いている自分が弱々しくて腹が立った。死ぬことに弱気になる自分が、死ぬことに勝ち気でない自分が、軟弱者に感じ、ちっぽけで、色あせて汚れて見えた。


「あんたが死んだら私も死ぬからね。おばあちゃんはもう死にたくなった」

 そういって、茂はとうとう耐えきれず、両手に顔を埋めて泣き出した。彼女は他人の弱さを背負う強さはとうになくなっていた。自分の弱さをひけらかして、甘えることで、問題に背を向け、逃れようとしていた。大切な人が死ぬのは沢山だ。どうしてそんなことを考えるのだろう。私にその問題を解決する力はないのだ。そんな弱気な気持ちは見ない振りする方がいい。無いと思えば無くなるのだ。

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