第4話

 バレンタインの日、雪江は竜二にデパートで買ったチョコレートを渡した。

 何度もやめようやめようと思って、学校の帰りに下駄箱でいるところを竜二にさよならと声をかけられ、やっていないことをやるようにと引き留められた気がして、彼が一人だったのを良いことに、思い切って渡した。竜二は慣れたようにありがとうと言った。もう何人もの女の子にもらっていたのかもしれない。


 ホワイトデーの日、雪江は竜二に缶に入ったキャンディーをもらった。家に帰ってから一つほおばると、ミルクミントの味がした。一日一つ、三日に一つ、最後の一つになると、食べないで大切にしまって置いた。時々缶の蓋を開けて、その甘い香りを嗅いだ。


 ある日、竜二に彼女ができたという噂が起こった。それは他のクラスのショートカットの美少女で、彼女に告白されて竜二がオーケーを出したというのである。雪江はショックだった。信じられなかった。ときがとまり、画面が割れたような感じがした。廊下でその美少女とすれ違うと、雪江は恐ろしい目で彼女を睨みつけた。自分を押さえられなかった。すんとすました彼女を汚してしまいたかった。苦痛に歪んだ彼女の顔が見れたらどんなに幸せだろう。


 わからない問題を竜二に教わっていると、雪江は涙がついこぼれた。どうして優しくして思わせぶりな態度をとるの。好きな子いるのに。好きなのに、つい苛々した。好きなのに、憎たらしくて、突き放す言葉を吐いて、傷つけたい衝動にかられて、それを必死に押さえ込む。すると、かゆみをかきむしらず堪えているみたいに、我慢ならなかった。苦しくて、頭がおかしくなってしまいそうだった。好きだから、優しい無害な自分でいよう、そう思って、暴力的な気持ちに背を向けていると、嘘の自分が気味悪く感じだした。こんな心のねじけた自分が、彼から優しくされる価値はない。


 その日は、胃の調子がわるかった。むかむかして、泣きたくて、竜二を見るとどきどきして、きゅっと胸が切なくなって、ずんと気分が沈んだ。


 給食の時間、気分が悪くて雪江は飲んでいた牛乳がのどを下らず、せり上がり、口いっぱいに広がるのを感じた。濁流のごとく、口から噴射された。それは竜二の服と机まで飛び散った。雪江はさっと顔が青ざめるのを感じた。竜二はびっくりして飛び上がり、嫌悪に顔をゆがめた。そして、汚い者をみるように、見下した目で彼は雪江を見た。彼と雪江の間に大きな距離ができていた。それを雪江は見つけて、戦慄した。終わりだ。自分と竜二の関係は甘いものではないのだ。冷え切った他人の関係なのだ。所詮、竜二は牛乳を吹きかけられて、それを許せない他人なのだ。笑って許せる信頼関係は少しも築かれていなかったのだ。


 すっと竜二が雪江のそばから体を少し離した。汚いものからできるだけ離れていたいらしい。そんな竜二の冷たさが、心の狭さが、雪江には悲しかった。どうして、と雪江の自分の失敗に対する許せないという腹立ちの矛先が、竜二に向いた。雪江は非難がましい恨めしそうな目で、つい竜二の顔を凝視してしまった。あなたは酷い人ですね、そういう訴える目で見つめた。


 しかし、竜二は目も合わせてくれない。彼は不満げに唇をゆがめて、いらだたしげに眉をひそめている。そして、顔を背けている。彼は怒っていた。嫌悪を体全体で表現せずには居られないのだ。怒りが彼から冷静さを押しのけていた。遠い。雪江は怒りの目つきで彼を見やったことを悔やんだ。そんな目で見たら彼が傷つき、よけい嫌われるではないか。嫌わないで欲しい。どうにかして引き留めて私を好きになって欲しい。


「……ごめんね、ごめんね……」


 雪江は泣きそうな震え声で竜二に謝った。竜二は頷くこともいいよということもしなかった。彼はショックな出来事に動揺し、怒りで我を忘れていたのだ。謝っても足らないのだ。どうしてくれるのだ。そんな気持ちが彼を奮い立たせていた。


 彼には雪江が本当にくだらないちっぽけな存在に思えた。今まで優しくしてやったのが無駄なような気がした。恩知らずと怒鳴って傷つけたいような気持ちだ。だが、その傷つけたいという欲求は態度に現すだけにとどめた。普段自分よりも下だと思って見下していた相手から、心を大きく揺さぶるような不快な攻撃をしかけられると、こんな奴にと思って、それがどうしても許せないのだった。


 竜二は立ち上がった。彼は怒りではちきれそうな頭を冷ますついでに、服に付いた汚れを、洗面所で落としに行こうとしたのだ。竜二の食べ残しの給食、そこに飛び散った雪江の吐瀉物。雪江はいたたまれなかった。胸が激しく痛み、取り返すことのできない恐ろしい出来事に、体中震え、心が凍り付いた。申し訳なかった。その申し訳ないという気持ちが、雪江の心を辛く苦しめた。彼女は死んでしまいたかった。死んで詫びれば、竜二が許してくれそうな気がした。彼女はそうすることが良いと思った。そう心で決めてしまうと、辛かった気持ちが多少慰められ、温かくなる心地さえした。


 私が死ねば、私の反省の気持ちが竜二に伝わって、竜二は怒ったことを後悔してくれるかもしれない。私に申し訳なさを感じてくれるかもしれない。優しさが欲しかった。また優しく思って欲しかった。雪江に対する竜二の嫌悪の気持ちをなんとか優しさに変えてしまいたかった。


 死ぬしかない。


 こぼれ落ちそうな涙を必死に押さえ込んで、飲み込んだ。のどにつきりとする痛みがつっかえながら下った。


 雪江は雑巾で、自分が汚した場所を拭き、竜二の食べかけの給食を新しいものに取り替えてやり、細々と世話を焼きながら、悲しい憂いに沈んだ。意地悪ないくらかの女生徒は、それを見物して笑っていた。竜二に嫌われている雪江の惨めさが可笑しかったのだ。それは彼女たちを満足させた。竜二が雪江のものではないというのが、目に見えて現れたのが心地良いのだ。自分たちの考える雪江が竜二に相手にされているわけがないという洞察が裏付けられた気がして、自分たちは何もかも見抜いていたと、偉くなった気がして嬉しかったのだ。

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