椿

藍治 ゆき

椿


「庭に出てなさい」


 それは、父が帰ってきた合図で、母が般若みたいな顔をして言った。


 まだ家の中はしんと静まり返っている。


 師走の空気はぴりぴり冷たく、体に染みる。空を見上げると、どんよりとした厚い雲が広がっていた。


 庭に、一本だけ背の高い木がある。椿の木だ。近くに寄り、椿を見上げる。椿は空を隠すように、また、僕をのぞき込むように成長していた。


 するとついに、どん、という音がした。父が母を殴ったのか、またはその衝撃で母が倒れたのか。


 父はいつも家に帰ると暴力をふるう。僕も昔はよく殴られていた。最近は、母が、庭に出ていなさい、と僕を逃がしてくれる。


 戦時中は、外と違ってこの家は平和だった。父が戦争に行っていたからだ。母と、二人で、穏やかに暮らしていた。でも、戦争は終わった。それから、また、あの日々が戻ってきたのだ。


 また、どん、どん、と音がする。


 その音を聞くたびに、心臓が大きく脈打つ。頭に、その音がこだまする。

 大きく息を吐くと、息は白くなって消えた。


 生まれてくるんじゃなかった、と思う。この世情に絶望したのではない。僕がいなければ、母はこの家を出て、すぐに逃げられる。母が父から逃げないのは、僕という幼い子供がいるからだ。


 母にとって僕は、足枷みたいなものだろう。固く、固く足に結ばれた足枷なんだ。簡単にはほどけやしない。


 僕がいなければ。そんなことばかり考えていると、やはり涙が出てくる。いけない、と思い、急いで拭った。


 北風が吹いた。さらさら、木々が揺れる。上を見上げると、椿も、さらさら、揺れた。


 椿は、僕に手を差し伸べるように、さらさら、揺れた。その伸ばされた手を掴めば、僕をここではないどこかへ、連れ出してくれる気がした。僕をここではないどこかへ連れ出して、母を自由にしてほしい。僕という鎖を、引きちぎって欲しい。手を伸ばしてみるも、もちろん届かなかった。伸ばした手は、あまりにも小さく、ちっぽけだった。


 すると、後ろから今にも消えそうなか細い声で「かいちゃん」という声がした。顔に青たんがついている、母だった。


 母は縁側の戸に寄りかかるようにして、微笑んでいた。その目には、ひと粒光るものがあった。泣いているのだろう。


「お母ちゃん」


 僕は走って、母の腰に手を回し、思い切り抱き着いた。母の冷たい手が肩に置かれた。優しく、僕の肩をさする。


「おじさんは?」


 僕は決して父のことを、お父ちゃん、と呼ばない。あんな奴、父親ではないからだ。


「出かけましたよ」


 僕を寝かしつける前みたいに、優しくそう言った。


「僕が、やっつけてやるよ」


 顔を上げ、僕はそう言った。


「かいちゃんはまだ、小さいから」


 母はまた優しく、僕の肩をさすった。



 それから、三、四日経った。僕はまた庭にでて、椿を見上げていた。


 どん、どん、という音が響く。


 しばらくして、玄関の開く音がして、家は静かになった。母が呼びに来るまでは庭にいろ、という約束だったので、母が家から出てくるまで、少し待つ。


 だが、一向に母は呼びに来ない。


 嫌な予感がした。母は、殺されてしまったのではないか、と思った。走って縁側まで行き、戸を開ける。


「…お母ちゃん?」


 返事はない。家は静まり返っている。


 薄暗い廊下を歩いていると、黒く大きなものが廊下に倒れていた。恐る恐る近くに寄って、目を細めて見ると、母だった。今まで、倒れているところなんて見たことがなかったから、とても驚いた。本当に、母は殺されてしまったんじゃないかと思った。


 急いで駆け寄り、胸に耳を当てた。どくん、どくん、と音がする。胸が浅く、上下する。母は、生きている。


「かいちゃん…?」


 母はうっすら目を開けた。


「お母ちゃん!」


 母は生きているけれど、本当に死んでしまうんじゃないかと思った。


 本当のことを、最後に伝えなければいけない気がした。


「お母ちゃん。お母ちゃん。この前、僕がやっつけてやるって、きざみたいなことを言ったけれど、本当は僕は死んじゃいたいんだ。僕が生きている意味が、分からなくって、もう死んじゃいたいんだ。でも、僕は小さくて、弱虫だから、出来ないんだ。僕がいなければ、僕がいなければね…」


 お母ちゃんは、幸せになれる。


 その言葉を遮るように、母は僕を抱きしめた。冷たい手が僕の頭を撫でる。

「かいちゃんは、私の光です。生きる意味なんて、いいじゃないの。かいちゃんは、生きていさえいればいいのよ」


 母は、泣いていた。

 

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椿 藍治 ゆき @yuki_aiji

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