3話 月蝶亭のベッド

 月蝶亭。看板には月を背景に美しい蝶が描かれている。あれは確かアオフラマチョウだったはずだ。

 唯一あそこに心残りがあるとすれば大量の本だろう。

 私を閉じ込めるためにアイツ等が適当においていた本は私にとって宝物だった。アイツ等はどうやら金持ちだったらしく、一年に最低でも百冊は追加された。様々な物語や図鑑は面白くて今まであれを見るために生きていたと言っても過言ではない。

 あの中からお気に入りを何冊か持ってくればよかったと今更ながら後悔をしてみたりするが、戻ることはできないし、するつもりもない。第一、財布と衣服しか持っていなかったから持ち運ぶのは難しいと思う。

 ドアノブを握り、開けると元気そうなお姉さんが受付をしていた。


「いらっしゃいませー」

「こんにちは」

「ようこそ、月蝶亭へ。何泊のご利用ですか?」

「二泊でお願いします。食事は二食付で」

「かしこまりました。4800キュロスですね」


 帝国札を五枚、出す。思っていたよりも安かった。でも仕事がなければすぐに宿無しになってしまう。早く見つけないといけない。


「ありがとうございます。こちらがお釣りになります。えっと、はい、六の部屋ですね。お食事は7時からでございます」

「うん、わかった」

「こちらが鍵になります。他のお客様のご迷惑にならないようご協力ください」


 銀貨2枚とともに六と書かれた鍵が渡される。重さ的には普通に、鉄だと思う。

 鍵には魔術がかかっている。見た感じだとかなり警備がしっかりしている。これを破るのは道具があっても四日ぐらいはかかりそうだ。


「何を考えているのやら」


 鍵を手の上で転がしながら受付から二階に上がる途中に独り言が漏れる。

 二日、いや、三日か。タイムリミットはそこまで。どうにかして一日に2500キュロス程度稼げる仕事を見つけなきゃいけない。私にはできるかわからない。検討もつかない。

 だけどやるしかない。

 気づけば部屋の前まで来ていた。扉は質素だけど味わい深い色合いだ。どこかで見たことがあるような、そんな風にほっこりする。部屋のプレートに書かれた番号は間違いなく六だ。鍵穴に入れて回すとカチリという音とともに鍵が少し光ってドアが自動で開く。中を覗くと柔らかそうなベッドが一つある。石の床に薄い布団を敷いていたあの頃と比べればすごく贅沢に思える。


「わあ、すごい」


 他にも木でできた飴色の机が一つあり、東向きの窓からは帝城が見える。白亜の美しい城。あそこには、皇帝と、その家族が住んでいる。

 心の底から、くたばれと思う。生まれたときからすでに権力を持てるのが確定しているような奴らに「忌み子」として存在価値を否定され続けた私の境遇は理解できない。

 ……こんなことを口に出した瞬間不敬罪で私みたいな帝国民の首一つぐらい吹っ飛ぶけれど。

 皇帝は、神じゃない。神だと信じているような奴らがいる。

 けれど、皇帝が神ならばなぜこの国は貧富の差が無くならないのか。苦しんでいる人がいなくならないのか。戦争が起こるのか。

 神は全知全能で、だからこそ信じる者は救われる、それがルークス教の教えだろう。

 まあ、明日の生活の足しにならないことばかり考えていても仕方ないか。

 とりあえず、明日は南の方も回ってみるか。そもそも西の商店地区では見つけられなかっただけかもしれない。それに貴族とか大商人の家の使用人になるのは癪だが、雇い主を見極めれば西地区で働くよりずっと多く給料をもらえる。それに住む場所も手に入る。

 魔物とは戦いたくないから北の狩人地区には行く必要はない。東は……いや、行かなくていいだろう。行ったところで求めている物はない。北地区も、東地区もそんな場所じゃない。

 やっぱり欲を言えば南の住み込みで働けるところがいいのだが、そう簡単に見つかることはないと思う。それと高収入なところに……と考えるとまぶたが重くなってきていることに気づく。

 何年前からだろうか、地下牢から出たことがない私にとって、帝都を独り動き回るのは激しすぎる運動だったらしい。

 明日も南の地区を一日中歩き回る予定だから早く寝て疲れを落としたほうが良さそうだ。幸いベッドが硬くて眠れないということもなさそうだし。


「ふわぁー」


 欠伸がこぼれる。

 ベッドがすごく、ものすごく柔らかい。体を投げ出したら少し沈んで体にフィットしている。これが一般的な家庭におけるベッドか。願わくばこんな柔らかい布団で寝られる生活をこれからは。

 とはいえ、本当に今日は疲れた。今日だけで、これまで12年間の人生で歩いた距離をあっさり上回っているだろう。魔術で補助していなかったら途中で倒れていたかもしれない。やっぱり朝から使っとくべきだった。

 魔力は無駄にたくさんあるとはいえ、体が疲れないわけじゃないから注意が必要だ。

 そもそも、フォルゴーレが使えればよかったものだが、私のはヴィースまで至っているが生活には一切役立たない。長剣なんて戦闘でしかつかえないと思う。

 ……もしかすると、いや、もしかしなくてもオランディの状態の方が研ぎ石として使えるかもしれない分マシかもしれない。が、どちらにせよ今は役に立たない。と言うか役立ってほしくない。

 明日こそはいい仕事を見つけられますように……睡魔が一気に襲ってきて私の意識は遥か奥の方へ落ちていった。

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