第4話 小悪魔後輩は分からせたい

 いきなり始まった小悪魔との間接キスイベントを乗り越え、荒い息遣いが部室に木霊する中。


 この胸裏に。心に芽生え――否、嫣然えんぜんと微笑む小悪魔に感情を無理矢理植え付けられた感情を必死に見て見ぬフリをするために距離を取ろうとした、その瞬間だった。


「なに離れようとしてるんですか、先輩」

「――ぇ」


 かたっ、と椅子が床を叩きつける音に萌花の耳がぴくっと動いて。剣幕を帯びた声音に思わず身体が強張った。


「まだ先輩への分からせタイムは終わってませんよ?」

「いや。もう充分やっただろ! 間接キスしただろ!」

「それは入口にすぎません。ゲームで例えるなら、そうですね。これはまだチュートリアルをクリアしたくらいの進行度です」

「これでチュートリアルなの⁉」


 先の背徳的な行為がまさかの初歩の段階だとは思わず、愕然とする僕を見て萌花はくすくすと愉しそうにわらう。


「はい。ここからが本番です」

「ま、待て! 一体なにをするつもりだ!」

「怯えちゃって可愛い。萌花、そういう先輩も大好きですよ」


 お気に入りの愛玩具をいじり倒す子どもが如く双眸を細くさせる萌花。もはや僕の言い分も聞かずに萌花はさらに距離を詰めてきて、


「ちょ、萌花⁉」

「あはっ、先輩に馬乗りしちゃったぁ」


 先の後退で椅子と机の距離が空いて、その隙間をこじ開けるように萌花が身体をねじ込んでくる。そして、そのまま僕の片足に跨るように乗っかって来た。


「ふふふー。これで先輩は私から逃げられなくなりましたね」

「萌花っ、これはさすがにやりすぎだっ」

「何を今更。私の唾液を飲んだ時点で倫理観なんてもう無いも同然ですよ」


 今度は精神的にじゃなくて物理的に身動きを封じてきた萌花が艶やかな笑い声を上げる。


「さて、チュートリアルをクリアした先輩に質問です。萌花が次に先輩にしようとしていることはなんでしょーか」

「な、なにって……」


 互いの顔の距離が30センチもないほどに詰まり、小悪魔の嘲笑が否応なく瞳に映る。


「分かりませんか? 鈍感童貞野郎の先輩にはこの問題はちょっと難しすぎましたかね」

「んなっ! だ、誰が童貞だ!」


 狼狽しながら吠えれば、萌花はくつくつと僕の過剰な否定に肩を上下させた。


「それはもちろん先輩のことです」

「ど、童貞ちゃうし――ぁ」

「ダメですよ先輩。下手な嘘なんか吐いちゃ」


 露骨に視線を逸らしながら否定すると、その否定を否定するように萌花が双眸を鋭くさせた。ゆらりと伸びた人差し指が僕の顎を撫でて、俯いていた僕の顔を強制的に上げた。


「先輩の座右の銘は『カノジョいない歴=人生』、でしょ?」

「そんな悲しい座右の銘を付けた覚えはない?」


 涙目で叫ぶ僕に萌花はくすくすと愉快げに笑う。


「安心してください。その座右の銘もすぐに萌花が塗り替えてあげますから」

「そ、それどういう意味だ?」


 萌花の言葉に眉根を寄せて言及すると、萌花はあでやかな微笑を僕にせて――そのあまりに可憐で艶美な微笑に、心臓がドクンと跳ね上がってしまって。


「つまりこういうことですよ」

「も、萌花……っ」


 僕らの距離がぐっと近づく。5センチもない。もう、唇と唇がいつ触れてもおかしくない距離で、萌花が一度静止した。


「三秒だけ待ってあげます。嫌なら首を横に振ってください」

「――――」


 逸る思考と白熱する思考の中で、僕は萌花がこれから何をしようとしているのかすぐに察した。


「3」


 カウントダウンが始まって、僕の心臓がより一層高鳴りを覚える。それと同時に、懊悩おうのうを覚えた。


「2」


 理性と欲望が絶えずせめぎ合う。温かな吐息が頬を掠めて、萌花の甘い香りがより一層強くなったのを感じた。


「1」


 先輩として首を振らなければ。そう理性は訴えているのに。けれど――、


「はい終了――ふふ。それが、先輩の答えということでいいですね」

「――ごくっ」


 重なり合った紫紺の瞳の熱量に理性が負けて、小悪魔の微笑みが僕の瞳に捉えた。


「それでいいです、先輩。先輩はただ萌花の期待に応えて、萌花に身をゆだねてください」

「萌花」

チュートリアル間接キスの続き、しましょ」


 欲望に負けた僕を情けなく思うどころか心底嬉しそうに彼女が見てくるから、胸に芽生えた罪悪感もたちまちどこかへ消えてしまって。


 カウントダウン後。僕が出した『答え』に萌花が『応え』た。


「――んっ」


 くすりと艶やかな微笑が上がった直後。ぴと、と愛らしい音が聞こえた。


 僕がどれだけ鈍感だろうが。そういうことに縁がなかろうが。思考が白熱して意識が朦朧もうろうとしていようが。萌花がした、それだけは理解できた。


 ――キスだ。


「ちゅぱっ」


 |躊躇ちゅうちょ》など一切感じさせない唇と唇の重なりに瞠目どうもくする僕。そんな僕とは裏腹に、萌花は積極的に唇を押し付けてくる。


「ふへへ。せんふぁいのふぁーすきす。もらっひゃいましたぁ」


 重ねる口唇の隙間からそんな拙い言葉が聴こえた。


「(これが、間接キスの続き……というか、いきなり後輩にキスされるとかどんな状況だよ)」


 思考は度重なる後輩の突拍子もない鼓動にもはやショート寸前。重なり合う唇の柔らかさに胸が打ち震えて、全身が快楽に包まれていく感覚が僕の思考を、意識を犯していく。


「せんぱい。せんぱふぁい。せんふぁぁい」

「んっ……も、もか……」


 長い長いキス。萌花の甘い声音だけが僕の耳朶じだに聞こえて意識を犯してくる。

 いつになったら終わるのか。ただそれだけを懇願して必死に萌花との口づけを交わす僕に、更なる試練が襲い掛かった。


「んあぁ」

「――っ⁉」


 ぎゅっと閉じていた唇に、不意に滑らかな感触が伝った。ぎゅっと瞑っていた目を思わず見開くと、小悪魔が「ふふ」と嗤って。


「せんふぁい。口、開けて?」

「も、か……だ、だめだ」

間接キスさっきの続きはこれからですよ?」


 それだけは越えてはいけない一線だろうと抗う僕。そんな抵抗する僕に、萌花が一言。


「私の唾液。今度は直接飲ませてあげます」

「――――」


 べつに。萌花の唾液を飲みたかったわけじゃない。そんな特殊な性癖なんて僕は持っていない、そのはず。


 それなのに。萌花が放ったたった一言。それだけで強張っていた身体は抵抗するのを止めて、閉じていた唇に力が抜けていった。


 いつの間にか僕は眼前の小悪魔に懐柔かいじゅうされてしまったのか。その真偽も追求する思考力すら今は小悪魔が与えてくる快楽に溶かされて、ただ為すすべなく萌花の唾液を欲するように口唇を開けた。


「それでいいんです。萌花の言う事を聞いた先輩には、萌花がご褒美をあげちゃいます」

「――んあぁ」


 ぬるりと、蛇が細い道を這うようにそれが僕の咥内に侵入してきた。そしてすぐに僕のそれ――舌と触れ合って、熱を欲するように絡み合ってくる。


「せんふぁい。ほぉら……ごほうびの、もかのだえきれすよぉ」

「んぐっ……んぐっ」


 思考がぐちゃぐちゃになっていく。意識が混濁していく。もはや身体は僕の脳が下す命令じゃなく、眼前に淫靡に微笑む少女萌花の命令を優先していた。


「ろぉれすかぁ? もかのだえきのあじはぁ」

「んぐっ……んぐっ……おい、し」

「ふふ。でしょ」


 絡み合う舌をけ橋に彼女の唾液がとろりと僕の咥内に注がれていく。それを喉を鳴らしながら飲み込んでいく。もはや駄犬といっても何ら遜色そんしょくない僕の無様な姿に、しかし萌花は興奮に頬を朱く染めて嬉しそうに嗤っていた。


「素直で可愛い先輩には、ご褒美におかわりあげちゃいます」

「んあぁっ……ごくごく」


 ご機嫌な萌花が僕にさらにとろりと唾液が咥内に注いできて、僕の脳は理性ではなく本能的に飲み込んでいった。


 ミルクティーとは比べ物にならいほどにごくわずかな量。それなのに、彼女の唾液はどんな蜜よりも甘く、間接キスで飲んだミルクティーよりも甘く感じた。


 注がられるのはただ透明な、無味な液体のはずなのに。それなのにどうして、脳を溶かすほどに甘く感じられるのだろうか。


 分からない。


「せんふぁい。もっと萌花とキスしましょ」

「……んっ」

「はは。萌花の唾液。もっと飲んで、味わってくらひゃい……んぁ」


 萌花の真意が。


「んっ……れろ、れろぉ」

「ちゅぱ、ちゅむぅぅ……ふふ。それでいいんです」


 萌花の思考が。


「せんふぁいのだえきも、もかにくらはい」

「んっ……ほら、んあぁ」

「んっ……せんふぁいのも、おいしいです」


 ただ一つだけ分かったことがある。


「ぷはっ……はぁはぁ、これだけすれば、いくら鈍感野郎の先輩でも、萌花の気持ちに気付きますよね」

「はぁはぁ――この痴女が」


 互いに荒い息を吐いて、口の端からはどっちの唾液か分からないものを滴らせて、僕らは見つめ合う。


「ふふ。こうでもしないと気付かない先輩が悪いんですよ?」

「ごめんて」

「ふふ。それじゃあ、答えに辿り着いた先輩にご褒美に、萌花がまたご褒美をあげちゃいましょう」

「今度は激しくするなよ」

「ふふ。はい。今度は、愛を確かめ合うようなイチャイチャなキスをしましょ」


 そう言って笑った小悪魔は、これまでにないほど可愛く見えて。


「「――んっ」」


 今度は命令でも悪戯でもなく、ただ自分たちの恋心に素直になった男女として相手の熱を求めるのだった。



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