第6話 花雲と香煙

 有間という男は、大学時代から大層お節介焼きなヤツだった。

 最初に彼と顔を合わせたのは入学してまだ間もない頃、学生舎の洗濯室だったと思う。僕が大量の洗濯物と調子の悪い洗濯機と格闘していると、どこからともなく現れた有間が手助けをしてくれた。

『あー、こいつ機嫌損ねやすいんだよな。修理申請出してもいいんだけど、めんどくせえから、』

 歪に震えていた脱水槽をガン、とスリッパの爪先で軽く蹴り上げると、モーターの音が変わりくるくると回り始める。オッケーと笑って自分の作業に戻るひょろりとした背中を見上げながら、僕は上手く声を出すことすらできなかった。

 そんなお礼もまともに言えない僕だったのに。小さい頃からの口下手をこじらせ、大学生になっても周囲の人間と上手く交流が取れていなかった僕を率先して助けてくれたのはいつも有間だった。きっとはたから見ても馴染めず、浮いていたのだと思う。顔立ちや肉の無い体格の悪さをイジメられそうになった時、有間がフォローしてくれたおかげで標的にされずに済んだ事もあった。

 家族構成を聞いてみると、有間は四人兄弟の長男で、僕は三人兄弟の末っ子だった。だから世話を焼き慣れているのだろう。家族が多く金銭的な余裕があまり無い環境で育ったことや、同じ水泳部に所属し、進路に航空を希望している共通点などから彼と意気投合するのにそう時間はかからなかった。有間はよく笑い、よく泣く、陽気で快活な男だった。自分とはあまりにも真逆な性格なのに、何故ウマが合うのかがいつも不思議だった。


『宇佐木はさ、なんでパイロットになりたいんだ?』

 休日、ふらりと二人で出掛けた海辺の埠頭。テトラポッドの上でぼんやりと空を見ていた僕に、有間がそう尋ねた。有間の白い歯が、コンビニで買ったばかりのチョコアイスをほとんどひと口でかじり取る。僕はそうだな、と白い夏服の反射に目を細めながら呟いた。あまり深い意味はないんだけど、

『ジョナサンの気持ちが知りたかったのかもな』

 中学生の頃、図書館で借りた小説の話をすると、食べ終えたアイスの棒を噛みながら有間が興味深そうに相槌を打つ。ただ餌を得る為に飛ぶのではなく、飛行すること自体に意味を見出した白いカモメの話。表紙に惹かれてなんとなく借りただけだったのに、この一羽の鳥が熱中した〝飛行〟という行為を、自分も経験してみたくなったのだ。そして可能ならば戦闘機がいい。

『だってかっこいいから』

『まあ、最終的にはそうなるよな。分かるよ』

 けらけらと有間が笑う。雲が好きだから飛びたい、と熱く宣うこの男にだけはあまり笑われたくなかった。有間は縁日で初めて綿あめを食べて感動してから、空の雲を毎日夢中で眺めてきたのだという。ゲームも漫画もあまり買えない家だったから、一番の暇つぶしが空だったらしい。防大に進めば学費がかからず手当も出るから両親に楽をさせてやれる。そのままパイロットになれば大好きな雲の傍にいられるし、その上を越えていくことすらできる。

 彼は果たして雲好きなのか、綿あめ好きなのか。卵と鶏のジレンマみたいだな、と思いつつ。それでも、いつだって楽しそうに有間は空と雲を見上げていた。

 今思えば、僕はそんな有間の横顔を隣で見ているのが好きだったのだ。


『ラビット、俺が一番機に乗るよ』

 あの日、けたたましく鳴るサイレンの中で有間がそう声を張り上げた。

 機体に駆け寄っていた宇佐木の行く手を遮り、イタズラを思いついた子どものように有間は笑っていた。どうせくだらないゲン担ぎに違いない。ポーカーで負けてばかりだったから、僕の〝手札〟をかすめ取りたいのだろう。

『……好きにしたらいい』

 反論している余裕もなかったから、僕は大人しく隣に控えていた二番機へと方向転換をして乗り込んだのだ。


 ……そうして、有間は独りで墜ちて死んでしまった。

 検視の結果、有間の死因は溺死だった。空間識失調に陥り、コックピットから脱出しないまま海に飲まれて亡くなった。脱出装置に不具合は無く、着水の衝撃で気を失い、抜け出せなかった可能性が高いと聞いた。彼があまり苦しまずに逝けたのなら、それは幸いなことだったのかもしれないが。

 どうして僕はあの日、有間と機体を替わってしまったのだろう。

 直前まで遊んでいたポーカーで負けていたのは僕だった。あの日、運が悪いのは僕の方だったはずだ。交替しなければ有間の機体に不具合は起きず、もし万が一バーティゴ状態だったとしても、無線が無事だったら計器に従って帰投できていたのだろう。

 有間は僕なんかよりもずっと聡い男だったから、もしかしたら不備を予期していたのかもしれない。庇われた、のだろうか。僕の代わりに有間が墜ちた? どこまでもお節介な男で腹が立つ。

 ……なんて、考えてもどうしようもない可能性たちが雪のように降り積もっては溶けない氷となって胃の腑の辺りに沈んでいく。

 凍り付いた氷塊を抱えてうずくまり、僕は幾度も反芻する。

 有間が死んだのは僕のせいだ。

 僕が彼の代わりに死ねばよかったのに。

 どれだけ速く飛ぼうが、優秀な成績を修めようが、その氷が溶けることはなかった。鬱屈とした認知の歪みを自覚しながらも、僕はその育っていく氷塊を手放すことができなかった。そうして重さに耐えきれず自滅したのだ。

 ある日突然、僕は飛べなくなった。

 ジョナサン・リヴィングストンにはなりきれなかった。


§


 故郷に帰った有間の遺骨は、海辺に近い霊園の中でもひと際小高い丘の上に埋葬されている。なるべく空に近い場所へ眠らせてやろうという遺族の意向だった。すぐ傍には樹齢の長い立派な寒桜の木が生えていて、早咲きの花たちが潮風に吹かれて揺れていた。

 真っ白な御影石で作られた背の低い洋風の墓石に水をかけ、宇佐木はゆっくりとスポンジで土埃を擦った。上手く眠れない日々が続いたせいか、滲んだ視界と腫れた目元でぼんやりと墓石を拭う。

 風が吹く度に潮の匂いが鼻先をくすぐり、有間とよく出掛けた埠頭の景色が脳裏をよぎっては消えていく。満開の花みたいに笑った顔も、土砂降りみたいな豪快な泣き顔も全部忘れられないのに、彼がもう世界のどこにもいないことが嘘みたいだった。

 宇佐木は濡れた墓石を静かになぞる。火葬炉から出てきた綺麗な白い骨も、よく覚えている。箸で拾った時の軽さ、骨壺へと納めた時の澄んだ音、火と灰の匂い。青と白が空模様のように混ざり合った骨壺の中へと吸い込まれていく骨たち。式は遺族だけで、と聞いていたのに有間の両親から参列して欲しいと頼まれて断ることが出来なかった。

 真っ白な灰と骨になった有間。本当は君のあんな姿見たくなかったんだ、と言ったら彼はきっといじけるんだろうな。一世一代の俺の雄姿なのに、と笑っただろう。

 宇佐木は乾いたタオルで墓石を磨きながら、そっと有間に話しかける。

「……最近ね、君によく似た男の子と出会ったんだよ。お店に来てくれてさ、」

 背が高くて、気を抜くと猫背がちになるところ。少し眩しそうに目を細めて笑うところ。感極まるとすぐに大泣きするところ。何かに夢中になった時にキラキラと光る、真っ直ぐで透明な瞳。

「僕なんかのことを一生懸命気にかけてくれる、とてもいい子なんだ……」

 一途で眩しい、可愛い子。だからこそ、また不幸にしてしまうんじゃないかと不安になってしまう。

「僕は厄病神だから……もう犠牲になるのは君一人で充分なのに……ごめんね、アリス」

 小さく苦笑を零してから、宇佐木は花束を手に取った。街の花屋で買った白い薔薇の花たち。昔、有間は白い花を好んで眺めていた。何故かと問うと『雲に似ているから』というあまりにも彼らしい陳腐な理由が返ってきたのだけれど。確かに柔らかな花弁が身を寄せ合った様子は綿雲のようだった。

 花立てに供え、線香に火を入れて手を合わせる。何を祈ればいいのか分からなくて、いつもこの時間は空虚になってしまう。有間はここにいないし、神様も仏様も信じていないから。以前までは早くそちらの世界、空の向こうに連れて行ってくれやしないかと願ったりもしたけれど。今日は何故だかそんな気が起きず、宇佐木はじっと波の音に耳をそばだてていた。

「……宇佐木さん?」

 ふいに背後から砂利を踏みしめる音が聞こえた。耳馴染のある声に振り返ると、泣き出しそうな顔をした真宙の姿があった。一瞬、幻でも見ている気がして目を擦ってみたけれど、彼の姿が消えることはなくて。

「真宙くん」

「三田さんがこの場所を教えてくれて……有間さんの月命日になるとよくお墓参りしてるって聞いたから、会えるかなって」

 あと一度でいいから、宇佐木さんに会いたかったんです。

 そう喉を詰まらせながら言って、真宙はぽたぽたと涙を流した。ああ、また泣かせてしまったのか。思わず歩み寄って頬の雫を拭うと、彼の柔らかな実体があった。

「……ごめんなさい、急に押しかけて迷惑でしたよね」

「そんなことないよ」

 顔をしかめて嗚咽する真宙の手を取り、宇佐木は桜の木の下へと誘った。ベンチに腰掛けるよう促すと、真宙は鼻をすすりながら俯きがちに座り込む。

 会いたくなかったと言えば嘘になるけれど、彼を避けていたのは真実だった。

 自分に深く関わった人間はみな不幸になる、そんな意識が拭えず長い事誰かと深く関わらないようにしてきたつもりだった。

 それならあの日、彼からされたキスを拒絶すれば良かっただろう。

 冷静なもう一人の自分がそうぼやく。

 でも、嫌じゃなかったから拒まなかった。むしろ煽ったのは自分の方だ。

 赤茶けた髪を撫でてやると、真宙の耳がぽっと赤く染まるのが見えた。相変わらず反応が分かりやすくて可愛い子だ。

 しばらくそうやって頭を撫でていると、真宙の嗚咽はゆるやかに治まっていった。赤くなった目元を見つめながら、宇佐木は静かに息を吐いた。

「……サンダーから何を聞いたんだい?」

 真宙は罪悪感を滲ませた表情で地面を睨んでいたが、

「俺がしつこく聞き出しただけで、三田さんは何も悪くないです……」

「怒ってないよ。僕のこと、気にしてくれたんだろう?」

 何も言わずに消えたから、優しいこの子ならきっと酷く気に病んだはずだ。申し訳ないことをしている自覚はあったけれど、そのまま自分のことなんて忘れてほしかった。まだ若いこの子なら、すぐに立ち直れるだろうと思っていたのだけれど、少し見立てが甘かったのかもしれないな。

 真宙はぽつぽつと三田から聞いた過去の事柄を話し始めた。有間と仲が良かったこと、その彼が事故で亡くなったこと、宇佐木が突然退職をしたこと。

 真宙は最後に言い添えるか悩むように唇を噛みしめてから、苦しげに言葉を吐き出した。

「俺は、例え宇佐木さんが人を殺めたことがあったとしても……好きでいられると思っています。それに愚推ですが、有間さんが亡くなった事故に、宇佐木さんは何も関係ないと思いました。だから一人で悩まないでほしいんです……」

 水の張った澄んだ鳶色の双眸が真っ直ぐに宇佐木を捉える。その両眼を見つめ返しながら、そうだね、と宇佐木は呟いた。

 今まで誰かにこんな真摯に、煩うなと言われたことがあっただろうか。彼の言う通り、自分は有間の死に関係がないのだろう。

「僕は……ただの弱虫なんだよ」

「よわむし……?」

「大事な仲間が突然死んでしまって、何ともない顔をして飛んでいられなくなった。一人じゃ空を飛べない、死ぬのが怖いって言えなくて、我慢が出来なくて、自分に呪いをかけて勝手にダメになっただけなんだよ……」

 ―― 例え僕の過失で死んだとしても、有間は僕のことを呪うようなヤツじゃない。

 そんな簡単なこと、理性では分かりきっていたのに。どんな安定剤や睡眠導入剤を飲もうが、その呪いは消えてくれなかった。

「だからもう飛ぶのも辞めて、大事に思う人なんて作らなければいいんだって、そうしたら楽になれるって、塞ぎ込んでたのかもしれない……でもアリスの命日に、ちょっとだけアイツに似た君がお店にやってきた」

 ふふ、と笑うと真宙の目が真ん丸に見開かれた。そうだ、あの寒い十一月の夜はアリスの命日だった。雲に似た煙の向こうから現れた子。

 もういい加減にしろよと、どこからともなく言われているような気がしたのだ。

「三田さんにも言われました……俺が有間さんに何となく似てるって……」

「そうやって言われるの、やだ?」

「全然イヤじゃないです。むしろ嬉しいくらいで……有間さんにも会ってみたかったな」

「アリスなら千歳の航空祭で僕と一緒に飛んでたよ」

「そっか、あの時の二機が……それなら空にいる有間さんは俺も見たことがあるんですね」

 白檀の煙が漂う墓石の方を横目に見て、照れくさそうに真宙が笑う。そのあどけない笑顔を見つめながら、宇佐木はゆるりと息を吐いた。


 この子と芽生えた絆を絶やしたら、きっと僕はまた後悔するのだろう。

 真宙くんは可愛くて、一生懸命で、僕なんかにはもったいないくらいの優しい良い子だ。

 ……だからもう、手放す時なのかもしれないな、この溶けない氷たちを。


 そう内心で独り言ちてから寒桜を見上げると、満開の花々の向こうで猫のようにニヤリと笑う顔が見えた気がした。

 宇佐木は花びらを被った真宙の頭を撫でてから、冷えた彼の左手を取った。筋張った広い手の甲に小さくキスを落とすと、真宙の顔に鮮やかな朱が差す。宇佐木はそんな真宙にふにゃりと笑いかけてから、困ったように呟いた。

「……またお店開けるからさ、遊びに来てくれるかな? 真宙くんに吸って欲しい煙もたくさんあるんだ」

 そう尋ねると、真宙は深く頷いてから花が綻んだように笑った。よかった、やっと笑ってくれた。いつも泣かせてばかりだったから。

 その熱を帯びた頬を両手で手繰り寄せて、彼の唇にかすめるようなキスを落とす。今日の唇は乾いていて柔らかく、ほんのりと甘いカフェラテの味がした。仕返し、と言って笑うと耳の先から首元まで林檎色に染めた真宙がぎゅう、と目をつぶる。

「……それっ、反則です……」

「真宙くんだって似たようなことしてたじゃないか」

「……それはっ、……その通りなんですけど……」

 むむ、と悩ましげに眉を寄せたかと思うと、立ち上がった真宙の長い腕が背中に回り込んできて強く抱きしめられていた。チェスターコートの肩口に顔をうずめると、真宙がつけている香水が漂う。香辛料のスモーキーさとほのかに甘いバニラの匂い、この香りをシーシャで再現できたら面白いかもしれない、なんて考えていると。

「……宇佐木さんに、昔のことを忘れろなんて言いません……」

 とくとくと高鳴る彼の鼓動が、今までで一番近い場所で響いているのが聞こえた。声が震えている気がして励ますように背中を撫でてやると、案の定真宙はぐすりと鼻をすする。首筋にすり寄せられた鼻筋は涙で冷たくて、かかる吐息が少しだけくすぐったい。

「ただ、ほんのちょっとだけでいいので、俺に心の余白をくれませんか?」

 それだけで充分で、あとは何もいらないんです。

 そう涙声で呟く彼の声を聞きながら、宇佐木はふは、と息を吐いて笑った。もう余白どころではなくだいぶこの子に心を捕らえられているつもりだったのだけれど、まだまだ攫われるというのならいくらでもくれてやると思った。

 確かに有間のことは忘れられないだろうけど、忘れる必要なんてないのだろうし。

 彼の耳元に唇を寄せながら、宇佐木はそっと囁いた。

「……いいよ。真宙くんにならあげる」

 宇佐木の言葉に、真宙はほっと安堵したように目を細めて笑った。舞った桜の花びらが濡れた彼の鼻先にひたりと貼りつく。本当に大きな犬みたいだな、と笑いながら宇佐木はその鼻先を拭って真宙の体を精いっぱいの力で抱きすくめた。

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