第5話 ロスト・キルレシオ
夢の中で、真宙はあの夏の日の景色をなぞっていた。
熱にうなされながら見たのは、炎天下で焦げついた誘導路と向日葵みたいに笑う青年の姿だった。キラキラと光る汗に濡れた黒髪とパイロットスーツ、肩に担いだヘルメットバッグ。
遮るものなんてなんにもないのに、彼の顔だけが陰ってしまい細部を思い描くことが出来なかった。
笑顔の印象だけが残像のように焼き付いて離れず、実体のない亡霊を必死に掴もうとしている。そんな空虚な感覚。
踵を返し、遠くへと走っていく青年の背に、幼いままの真宙の腕が伸ばされる。
行かないで、あとちょっとだけでいいから。そうしたらあなたの顔を思い出せそうな気がするのに。
せめて目の前の光景を描き残しておこう、と持っていたスケッチブックに筆を走らせてみるも、白は白のままだった。何も残らない、揺るぎのない無色。
ただでさえ絶望的だというのに、頭上から伸びてきた長く白い腕がスケッチブックを取り上げてビリビリと引き千切ってしまう。
止めて、返して。真宙が泣いても叫んでも、その腕の主は呆れたようにこう吐き捨てるのだ。
〝また絵なんて描いてるの? いい加減にしなさい!〟
とても大切な記憶なのに。再生すればするほどレコード盤のように劣化してノイズが増えていくのは何故なんだろう。
……あのパイロットのお兄さんは、どんな顔をしてたんだっけか?
悪い夢を見ていたらしい。
馴染んだ自分のベッドの上で目を覚まし、真宙はもそりと半身を起こした。汗みずくになった服が肌にまとわりつく不快感。発熱はマシになった気配があるけれど、まだ体の節々が怠いのは寝すぎたせいだろうか。
室内に人けはなく、ベッドサイドのテーブルには水のボトルと解熱剤のカラが点在していた。飲んだ記憶はないけれど、宇佐木が与えていってくれたのかもしれない。
スマホの時計を見ると時刻は翌朝の九時、しっかりひと晩眠ってしまったらしい。
とりあえずシャワーを浴びて服を着替えようか。と、冬眠明けのクマのようにバスルームへ向かうと、おもむろに玄関のドアがガチャリと音を立てて開いた。
振り返った瞬間に買い物袋を提げた宇佐木と鉢合わせそうになり、真宙はスウェットを脱ぎかけた妙な体勢のまま「ぎゃっ!」と猫のように飛び退いた。
「あ、おはよう。意外と元気そうで良かった」
「びっくりした!宇佐木さん、帰ってなかったんですか?」
一気に上がった心拍数になぶられて、みぞおちが痛んだ。あと背中からもパキッと異音がした気がする。あちこちから生じる痛みに真宙が呻いていると、宇佐木の手がそろりと額に触れた。
「熱は……下がったみたいだな。真宙くん、食欲はある?」
いつも通り燃えている宇佐木の手の平から意識を逸らして、真宙は胃の辺りをさすってみた。空腹感の有無を探っていると、ぐう、と訴えるように虫が鳴く。
「……お腹、空いてるみたいです」
「台所借りるね。ご飯作っとくからお風呂行っといで」
そう言い置いて、宇佐木は颯爽とキッチンへ消えていく。彼の手を煩わせてしまう申し訳なさと手作りの食事への期待がない交ぜになり、真宙は汗ばんだ髪をくしゃりと握った。あれこれと言い訳を浮かべてから、諦めて浴室に向かう。……実際、弱っているのは事実だから。甘えられる時に甘えておこう。
シャワーを浴び終えると、キッチンからは食欲をそそる香りが漂っていた。真宙がソファでぼんやりとくつろいでいると「出来たよ」と言って宇佐木が出してくれたのは中華粥だった。鶏肉と葉野菜は柔らかく煮込まれ、塩味は優しいが出汁と生姜がよく効いているので食べ応えがあった。消化を気にしつつも、空腹感をしっかりと埋めてくれる一品に真宙はほう、と感嘆の息を吐いた。
「めっちゃ美味しいです。宇佐木さん料理も上手なんですね」
淹れたコーヒーをすすりながら、宇佐木がソファに腰を落ち着けて笑う。
「独り身が無駄に長いってだけさ。お口に合ってよかった」
ゆっくり噛んで食べな、と実家の母も言いそうな忠告を受けながら、真宙は時間をかけて粥を咀嚼した。そこでふと、今更な疑問がこみ上げてくる。独り身ってことは、
「宇佐木さんって、お付き合いしてる人とかいないんですか……?」
「いないし興味もないけど、急にどうしたの」
唐突な真宙の質問にけろりと返してから、宇佐木は怪訝そうに首をひねった。結婚指輪もしていないし、そういった話題にもならないから勝手に思い込んでいたけれど、懸想の人がいないとも限らないじゃないか。
「いや、宇佐木さんカッコいいから、モテるだろうなって思って……ちょっと気になったんです……」
真宙はもごもごと言葉を濁して、内心でかいた冷や汗を拭う。恋は盲目って言うけど、猪突猛進、何も見えていなさすぎて恥ずかしい。
宇佐木はふむ、と息を吐いて顎をなぞった。
「確かに若い頃はモテたけど、」
「やっぱモテたんだ……」
「いい歳して浮き草みたいな生き方してるとさ、売れ残っちゃうよね」
残り物には福があるとも言うけどなぁ、とベタなことわざを思い浮かべていると、ふいに宇佐木が席を立った。真宙が学生時代に使っていた画材や書籍を詰め込んだ本棚を興味深げに眺めているので、
「何か気になるもの、ありました?」
「いや、見てるだけで面白いなって。僕の家にはない道具がいっぱいある」
絵具を放り込んだクッキー缶、埃をかぶりつつある絵皿や画用液のボトル、使い込んでくたびれた筆の数々。並んだ画材たちをするりとなぞってから、宇佐木が静かに微笑む。
「昨夜真宙くんが寝てからすぐに、帰ろうかなって思ったんだけどさ。この空間にいるだけで楽しくなっちゃって、気が付いたらソファで寝落ちしてたんだよね」
だからこんな朝早くから買い出しに行ってたのか、と真宙は苦笑した。
「もう半ばオブジェと化してますよ。卒業してからは全然使えてなくて、基本デジタルばっかです」
オフの日には座りっぱなしになってしまうデスクの辺りを示すと、宇佐木はじっと壁に貼っていた資料や趣味で描いた絵たちを眺め始めた。
真宙が食べ終えた皿を片付けて戻って来てもさっきと同じ姿勢のままだったので、宇佐木の周りだけ時間が止まったように見える。
「そんなに面白い物あったかな……」
「真宙くんが見てる世界の縮図って感じで楽しいよ」
頭の深い場所を覗き込まれた気がして、真宙はかあっと頬が熱くなった。
ヘンな物貼り出してなかったよな? と彼の隣に並んでうろうろと壁を見回すと、つんのめるように〝何か〟が意識に引っかかった。
真宙が「あれ?」と言ってその絵を見上げていると、宇佐木も同じ一枚の絵に目を留める。
それは十歳の夏休みの日、あのパイロットの青年からサインを貰った絵だった。鉛筆で描いたまだ拙いF―15イーグル、その隣にさらりと書かれた筆跡。劣化をさせない為にとフィキサチーフを吹いた画用紙は多少陽に焼けこそすれ、十二年前の質感を保っていた。
真宙は筆記体で綴られたアルファベットを一文字ずつ確かめ、そして、は、と短く息をついた。
「〝Rabbit〟」
サインの文字はそう綴られているように見えた。真宙が傍らに立つ宇佐木の横顔を一心に見つめていると、怪訝そうな瞳がこちらを振り返る。
その透明な墨色に射抜かれた瞬間、真宙の頭の天辺に鋭い稲妻が落ちた。どうしてずっと思い出せなかったのだろう。砂になりかけていたパズルのピースが吸い込まれるようにぴたり、とはまり鮮やかに息を吹き返していく。
真宙はぼやけて滲んだ夏の景色の中に、宇佐木のまばゆい笑顔を見つけていた。
―― 今よりも短く刈った黒髪と若々しい肌をしていたけれど、あれは間違いなく宇佐木さんだ。
「サインをくれたお兄さんが……〝ラビット〟」
そう呆然と呟くと、宇佐木もそのサインを追いかけて、驚愕に目を見開いた。
「これは……僕の字だな」
男の子に催促されて書いたのは覚えてるんだ、と宇佐木が考え込むように囁く。
「サインなんて書いたことなかったし、せっかくの絵の隣にもったいないな、って悩んで……結局あだ名(TAC)を書いたんだけど」
宇佐木は眩しそうに目を細めて、ふにゃりと笑う。
「…………もしかして、あの時の男の子が、真宙くんだったの?」
夜を照らす太陽みたいだ、とその遠い日のアルバムにも焼き付いた笑顔を見やって、真宙はくしゃりと顔をしかめた。両目から溢れた涙の玉がぽたぽたと頬を伝って落ちていく。感銘と衝撃と、ごちゃ混ぜになって吹き荒れる感情の嵐が全て雨のような涙になっていた。
〝来年もまた新しい絵を見せに来てくれるかな?〟そう言って自分の絵を褒めてくれた言葉を、お守りのように握りしめて生きてきたのだ。両親に絵を理解されなかった日も、受験で挫けかけた時も、いつだって思い出したのは彼の言葉だった。いつか絵を見せに行こう、きっと喜んでくれるだろうから。そんな漠然としていたはずの目標。
「うちの親、絵描きになることをずっと反対しててすげえ厳しくて……俺が描き続けて来られたのって、あの時のパイロットのお兄さんに褒めてもらえたからなんです……」
絵を破り捨てられようが、スケッチブックや色鉛筆を隠されようが、めげずに描いて来られたのはその〝お守り〟があったからだった。美大すらも親が指定した学校に現役で受からなければ諦めなさい、ときつく言われた末の合格だった。
「描くのが苦しかった日でも、いつも傍にいてくれたから、」
「君は本当によく泣く子だなあ」
真宙がぐすぐすと鼻をすすっていると、困ったように宇佐木の手が頬へと伸びてくる。そのまま頭を抱き寄せられて、真宙はぎこちなく身を屈めて低い位置にある肩口へと額を寄せた。
「ビックリしすぎてて、もうなんにも分かんないです……」
「僕も昔のことはあまり覚えてないのだけれど……でも、今の真宙くんの絵も好きってことだけは分かるかな」
とても頑張ったんだね。髪を撫でながら、そう囁く穏やかな低音に耳を傾け、真宙はぽそりと呟いた。
「……俺、宇佐木さんのことが、好きなんです。
笑った顔も、作ってくれる煙も、世話焼きで優しくて、でも意外と子供っぽいところも……昔話をする時にちょっと寂しそうなところも。
全部、好きです」
全てを吐き出したかったし、知ってほしかったから。
真宙は止まらない涙をそのままに、宇佐木の整った鼻梁に鼻先をすり寄せた。甘えるように、すがるように。彼は驚き微かに肩を揺らしたけれど、避けるでもなく制止するでもなくじっと息を潜めていた。
そのまま震える唇を彼の唇に寄せると、ぼやけた視界の中で宇佐木がゆっくりと目蓋を閉じるのが見えた。乾いた薄い唇は温かく、ほのかにしょっぱくて、自分の涙の味しかしない。
体温を確かめるように彼の唇を食んでいると、ふいにぬるりとした感触が歯列に割り込んできた。驚いて逃げようとしたけれど、宇佐木の手の平に首根っこを絡めとられて動けないまま舌の根をさらわれる。彼の舌は熱く、ほろ苦いコーヒーの香りがした。唾液は蜜のように甘くて、粘膜が擦れるたびに視界がくらりと眩暈で揺れる。
「っ、ふ、ぁ……」
情けない声が漏れてしまい、腹の底が羞恥心でぶわりと煮える心地がした。自分から仕掛けたはずなのに、すっかり翻弄されてしまい恥ずかしい。
真宙が壊れんばかりに高鳴っている心臓をTシャツの上から掴んでどうにか身を引くと、宇佐木は目を開いて、ふわりと笑った。いつも浮かべる、どこか陰のある寂しそうな笑み。
何かを言うでもなく、宇佐木はそっと真宙の頬を伝う涙を指先で拭うと、紅を引くように唇をなぞった。唇の隙間から滲んだ雫はやはり塩の味で、宇佐木の手の平は燃えるように熱かった。
沈黙に身を預け、真宙が彼の言葉を辛抱強く待っていると、宇佐木はどこか観念したように息を吐いて囁いた。
「……君みたいないい子が、僕みたいな〝人殺し〟のことを好きになったらダメだ」
想定していたどの言葉とも違う返答に、真宙は大きく目を見開いた。今、宇佐木さんヒトゴロシって……?
耳にした音の意味が上手く理解できぬまま真宙が戸惑いに瞳を揺らしていると、宇佐木はするりと身をひるがえした。上着に腕を通し、凍り付いて動けない真宙の背にいつも通りの明るい声をかける。
「そろそろお店の準備しないといけないから、帰るね」
それじゃあ、という言葉の後、玄関のドアが閉まる音が鳴り響いた。しん、と急激に訪れた静寂は耳に痛いくらいで、真宙は眩暈を覚えてふらふらとソファに体を沈めた。
思いを伝えたこと、彼がキスを拒まなかったこと、物騒なワード。感情の起伏は多数あったけれど、真宙の心にもっとも深く突き刺さったトゲは。
「……〝好きになったらダメ〟って……言われた」
どういう意味だったんだろう。そのままの意味なのかな。尋ねたくてももう宇佐木はいなくて、追いかけるには遅すぎた。嫌われてしまったのかな。断りもせず勝手にキスなんてしたから。
どちらにせよ、また店に行って聞いてみるしかないのだろう。声にならない呻きを吐き出しながら天井を仰いで、真宙はぐったりと目蓋を下ろした。
§
翌日の仕事は体調不良も相まって惨憺たる出来栄えだったが、あまりにも顔色の悪い真宙の様子に妃川も深く追求してくることはなかった。
集中力を欠いたままどうにか一日を乗り切り足早に〝Rabbit Hole〟へと向かうと、ドアにはCLOSEの札が下げられている。ドアノブを回しても鍵がかかっており、窓から中を覗き込んでも室内は暗闇に満ちていた。あれ? 今日は定休日じゃないはずなのに。
あまりそう頻繁には更新されない店のSNSを覗いても、やっぱり新しいポストは投稿されていなかった。
真宙は嫌な予感がして、メッセンジャーアプリから宇佐木に電話をかけてみた。数十秒間、鳴り響くコール音を聞いてから、諦めて通話を切る。照明も無い店の前に立ち尽くしたまま、真宙は液晶を睨み何度も言葉を書き直してから、震える指でようやく簡素なメッセージを送った。
『宇佐木さん、ごめんなさい。昨日のこと謝らせてほしいです』
十数分ほど待ってみたけれど、既読マークがつくことはなかった。このまま待っていても夜が深まるだけだ。真宙は泣き出したいのを必死に堪えて、帰りの駅への道を辿った。
それから一週間以上、毎日のように宇佐木の店を訪れたけれど、ドアに下がった札が裏返されることもメッセージに既読がつくこともなかった。時折シーシャ目当てで訪れたと思しき客とすれ違うこともあったが、皆残念そうに引き返して去っていく。
やがてクリスマスが過ぎ、十二月の終わりが近づく。年越しの賑やいだ空気が街中に伝播していくのを呆然と眺めながら、真宙は年末の仕事納めをした足でいつも通りのルーチンをなぞった。
宇佐木の自宅も知らなければ、連絡先もアプリだけが頼みの綱で、電話番号だって店のものしか知らない。……俺、宇佐木さんのこと本当に何にも知らないんだな。
幾度となく突きつけられる現実に冷たい虚しさがこみ上げてしまう。もう諦めてしまえば楽になれるのかもしれないけれど。
他に何か、分かること。
真宙は相変わらず閉ざされたままのドアの前で長らく考え込み、一つだけきらりと光る〝糸〟を見つけた。
手繰れるかも分からない糸だったけれど、挑戦してみる以外の道はもう残されていなかった。
§
「……どうして俺に白羽の矢が立ったのか」
三田はテーブルに運ばれてきたクリームソーダをスプーンでつつきながら、口の端を歪めてそう吐き出した。
昭和レトロ風の店内はエメラルドグリーンの調度で統一され、真宙たちの頭上にはステンドグラスが貼り合わさったランプシェードが輝いている。
ここは三田の勤務地である百里基地から程近い喫茶店で、この待ち合わせ場所を指定してきたのは三田自身だった。真宙としては電話のやり取りでも問題なかったのだが、三田が〝気になる店があるから〟と言って対面になったのだ。
「俺が唯一知ってる宇佐木さんの知り合いって、三田さんしかいなかったので」
いつも世話になっている雑誌の編集者に連絡を取り、基地の取材に同行させてもらう。そして三田とコンタクトを取る。真宙が唯一思いついた〝糸〟はその微かな一本のみだった。もっとも幸運だったのは編集者が三田と顔見知りだったことだろう。個人的にどうしても話がしたいことを伝えると、編集者は三田とのラインを繋いでくれたのだった。
店主の趣味であろう、壁に飾られたソール・ライターの写真やジョン・マリンの抽象画たちをぼんやりと眺めていると、三田が重い溜め息をつく。いけない、つい現実逃避をしかけていた。
大して知りもしない人間のために貴重な休日を潰した上、宇佐木の話がしたい、と詰め寄られたらそりゃうんざりするに決まっている。真宙は自分が頼んだブレンドコーヒーをすすってから、か細い声を吐いた。
「宇佐木さん、最近お店を閉めたままで……もう二週間以上になるんですが、その原因が俺にあるだろうなと思ってて……」
茫洋と過ごしているうちに、いつの間にか新しい年を迎えてしまっていた。宇佐木からの返信が無いままのアプリにシンプルな新年の挨拶を送ってみたけれど、やっぱり既読はつかず、反応もない。
三田はくしゃくしゃと短髪を掻いてから、剣呑な双眸を狐のように細めた。
「宇佐木さんは……たまにそうやって落ちるから、あんまり気にしなくていいんじゃないか? 忘れたころにふらっと帰ってくる」
いつもそうだ、そう言って三田はソーダを吸い上げた。
落ちる、って気分が沈むって意味だろうか。店を開けられないくらいの憂鬱。それを繰り返してるんだとしたら、何か原因があるはずで。
じっと沈痛な面持ちで考え込み始めた真宙を見て、三田は低い唸り声を漏らした。
「……病院には行ってるって聞いたことがある。俺たちが下手に手を出したところで、あの人の傷に塩を塗るだけだ。放っておいてやれ」
傷に塩。宇佐木さんが抱えている傷って何なんだろう。真宙の疑問が透けて見えたらしく、三田は気まずそうに顔をしかめた。
「余計なこと、言ったかな……」
「俺、宇佐木さんのこと本当に何も知らなくて……まだ店に行くようになってから一ヶ月くらいしか経ってないから、当たり前だとは思うんですけど……」
一目惚れ、だったんです。
そう押し殺した声で真宙が本心を打ち明けると、三田は大きく目を見開いた。
「だからもっと宇佐木さんの傍にいたくて、でも焦ってした行動で、怒らせたかもしれなくて……連絡も無視されてるから、どうしたらいいのかな……って気色悪いストーカーみたいですよね、俺」
宇佐木を困らせたい訳ではなかった。もし消えてくれと言われたら素直に受け入れるだろう。店に行くことだって止めるし、もう二度と連絡だってしない。ただ、納得のいく答えがもらえていないから、彷徨ってしまう。
真宙はくしゃくしゃと頭をかき混ぜてから、記憶をさらって言葉を引き出した。
「……僕みたいな〝人殺し〟のことを好きになったらダメだ。宇佐木さんにそう言われたんです。三田さんなら、この意味が分かるのかなって思って……今日はそれを尋ねたかった」
ソーダの上に乗ったアイスクリームを全て平らげてから、三田は店員に追加の注文をした。頼んだプリンの皿が届くまで、三田は考え込むように黙ったままだった。甘い物好きなのかな、三田さん。
停滞した空気が流れ、焦燥感に駆られて真宙が口を開こうとすると、三田が制止するように片手を上げる。頬杖をついたまま、固めのプリンをひと口咀嚼して三田は小さく息を吐いた。
「最初に宇佐木さんの店でお前を見た時、知り合いに少し似てるなって思ったんだよな……顔立ちや背格好もそうだけど、一番は纏っている空気感みたいなものが近くてさ」
ぼんやりと真宙の輪郭を見つめながら、三田が囁くように音を紡ぐ。
知り合い、という単語で真宙が思い当たったのはスカイツリーに登った時の宇佐木の言葉だった。
「それってもしかして〝雲が好きな男の人〟……ですか?」
三田は濡れ羽色の瞳を揺らすと、小さく頷いた。続きを語るか悩むように唇を引き結んでいたが、しばらくして三田はどこか諦観を滲ませながら口を開いた。
「……お前なら宇佐木さんのことをすくい上げてやれるのかもな」
そう独り言ちるように零してから、三田は「一つ昔話をしよう」と言って、薄くなったソーダを飲み干した。
「宇佐木さんが現役時代、一緒に組んでた同僚がいたんだ。有間 昴一等空尉、TACネームは〝アリス〟 当時、俺もまだ空自に入ったばかりで有間さんとは飛んだことが無かったけれど、歓迎会なんかで話したことならある。人懐っこくて面白い人だった」
アリス。確か三田が店に来ていた日に話にも挙がっていた人だ。
「有間さんと宇佐木さんは防大時代から仲が良かったみたいで、いつも一緒にいたらしい。基地に配属されてもコンビを組むことになって、宇佐木さん的には腐れ縁だってずっと可笑しそうにしてたけど」
三田は細く溜め息をつくと、じっと眉間にしわを寄せた。
「十一年くらい前だったかな……有間さんは宇佐木さんと飛んだスクランブル任務中に空で亡くなったんだ」
平坦な三田の声に、真宙は数度言葉を反芻してから目を見開いた。雲が好きな知り合い、宇佐木さんの語り口だとてっきり存命なのかと思っていたのに。
真宙はキリキリと痛み始めた胸元をさすりながら、三田に疑問を投げかけた。
「……空で、ってことは撃墜されたんですか?」
「いいや、事故だよ。機体の整備不良による無線機の不調もあったけれど、一番の原因は有間さん自身が空間識失調に陥って墜落した」
空間識失調(バーティゴ)、重力加速度などで三半規管がエラーを起こし、平衡感覚を一時的に失ってしまうことがあるという。空間識に混乱が生じ、空と海の区別がつかなくなったパイロットが辿る道筋は悲劇であることも多い。
「バーティゴに陥ったら計器を信じろと教わる、って聞いたことがありますが……」
「そうだ。ただ無線機が壊れていたことで、きっと信じることが出来なかったんだと思う。実際、回収された機体の計器に問題はなかった」
まったく同じ感覚を味わうことは真宙には出来ないけれど、想像することなら出来た。狭苦しいコックピットの中から逃げ出すこともなく。無線も通じない孤独と疑心暗鬼に苛まれ、海に、空に、墜ちていく。有間の死はきっと安らかなものではなかっただろう。
真宙は緊張で乾いた喉にコーヒーを流し込んでから、最たる疑問点を尋ねた。
「事故だったのなら、宇佐木さんは無関係なのでは?」
三田は渋い表情で「そのはずなんだが、」と呻くように漏らしてから、窓の外を睨むように見つめた。
「……これは俺が気になって勝手に調べた話だ。当時アラートハンガーに勤務してた整備員いわく〝直前で二人は機体を入れ替えた〟んだとさ。宇佐木さんが駆け寄っていた機体に有間さんが乗り込み、一瞬揉めたらしいが宇佐木さんが大人しく従ったと。時間制限もあるし、個人機って概念は無いから、同じことをされたら俺だってそうするだろうさ」
「入れ替えた……自分が乗るはずだった機体に有間さんが乗った。と、宇佐木さんは思っている」
「そう。まず機体自体が平等で、誰がどれに乗ろうが関係ない。入れ替えたという考え自体、前提がおかしいんだけど……宇佐木さんからしたら、そう思えるのかもしれないな」
もしも自分が宇佐木の立場だったら、どんな気持ちになるだろうか。真宙は脳裏に描くまでもなく、後悔の念を感じた。そのまま有間に譲らなかったら、彼は死ななかったかもしれない。無線の不調だけなら、無事に帰還することも出来たはずだ。ただ絶望的に運が悪かったのだろう。
「それから数年、宇佐木さんは普通に飛んでたんだ。俺が僚機になったのもその頃だ。ただある日突然、空自を辞めて基地を去った。きっかけらしいきっかけもなかったけど、確かに具合が悪そうにしてる日は多かったかもしれないな」
なるほど、と呟き、真宙は沈痛な面持ちを隠せないままテーブルを睨んだ。〝人殺し〟である、そう思い詰めてしまうほどの後悔。事故の日に一体何があったのか。
そんな真宙の様子を横目に見てから、三田が深く溜め息を吐く。
「この事故は報告書も公開されてるし、機密ってほどでもないけどさ。あまり明るい話でもないし、言いふらさないでくれ」
「……はい。教えてくださってありがとうございます」
皿に残っていたプリンを全て平らげると、三田が何かを伝票に走り書いてから真宙の方へと押しやってくる。情報料ってことだろうか。この程度で済むならお安い御用だった。
椅子の背にかけていた上着を羽織って、三田が席を立つ。これ以上催促しても、もう彼から話せることはないのだろう、という気配がなんとなくあった。
「……俺じゃダメだったからさ。宇佐木さんのこと、よろしくな」
また煙屋で会おう。そう囁いて三田は颯爽と喫茶店を後にした。
真宙はコーヒーのおかわりを注文しながら、テーブルの上に残ったカップの痕を指でなぞった。三田からもらったピースたちを手の中で転がしながら、呆然と宇佐木の顔を思い浮かべる。よろしくな、って言われても、俺なんかに出来ることがあるのかな。
すぐに干してしまった二杯目の底を見つめ、深々と溜め息を漏らしてから真宙も席を立った。考え込んでも煮詰まるばかりで、もう少し時間が必要なのかもしれない。
財布と伝票を持ってレジへと向かうと、ふいに店主に呼び止められた。
「これ、お兄さんのメモかい?」
白髪の混じった老齢の店主が怪訝そうに紙面を指差す。そこに書き残されていた文字に真宙は息を止めた。さっき三田が走り書いていったものだろう。ぼんやりしていて全く視界に入っていなかった。
「ありがとうございます、これ貰っても大丈夫ですか?」
控えがあるので問題ないですよ、と笑う店主に代金を支払い、真宙は店を出た。
もう一つ与えられたパズルのピースをきゅっと握りしめ、真宙は早まっていく心臓の鼓動を静かになだめる。宇佐木から答えを得られるまで、やれるだけのことをやってみよう。それが拒絶だったとしても、このまま諦めてしまうより遥かに良いはずだ。
「……これが最後のチャンス、なのかもな」
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