第3話 藍白と稲妻

〝店の西側の、あの真っ新な壁に絵を描いてほしいんだ〟

 宇佐木は白一色の壁を示してそんなことを言い始めた。

 自分の絵を見たこともないのに本当にいいのか。真宙が焦ってスマホに入れていたポートフォリオのデータを引っ張り出すと、その絵を見た上でも宇佐木は提案を覆さなかった。

〝うん、いいね。やっぱり真宙くんの絵がいいな〟

 殺風景だからずっと大きな飾りの一つでも置きたかったんだ、とけろりと言って宇佐木は壁の余白を埋めていたフォトフレームたちを外し始めた。

〝好きに使っていいからさ。ここになんでも好きなもの描いてみてよ〟

 だから、描くことを嫌いにならないでね。

 そう笑って、宇佐木はのんびりと煙を吐いた。


 その夜から真宙は仕事が終わり次第、壁画のラフを考えるようになった。時折店に足を運んでは、イメージを膨らませる。宇佐木の好みも聞き出そうとしたけれど、彼はのらりくらりと言葉を濁しては自由にしていいと返す。期限を設けることもなかったが、しかし依頼料はしっかり払うと言い切るのだ。

 普段の仕事よりもよっぽど難しい発注だったが、まったく苦には思えなかった。

 ……彼はどうしてこんなに優しくしてくれるのだろう。

「羽田野、今日初稿の見開きは出来てるのか? 十五時までには見せに来いよ」

「あっ、はい。すぐに出します」

 妃川に発破をかけられて、真宙は我に返る。そしてやりそびれていたタスクの存在をはたと思い出した。朝から組み立てていた仕事の優先順位ががらがらと崩れ去り、大慌てでデータを作る。ひとまず確認依頼をしないと、また妃川に叱られる!

 どうにか指示された五分前までにデータを提出すると、画面を見るなり妃川の眉間には深い皺が浮かんだ。

「お前これ、今しがた慌てて作っただろ? 手抜きにしか見えない」

 さすがプロの審美眼は鋭いな~と内心で感嘆しつつ、真宙はへらりと笑って謝った。

「すいません、正直忘れてました……でも急いで仕上げます」

「笑ってる場合か! こんなショボいデータ、お前の手の遅さじゃ間に合う訳ないだろ!」

 ここ最近食らった中でも一、二を争う怒声がオフィスに響き渡った。根角を始めとした他の社員が怪訝そうにこちらを伺ったり、ああまた雷が落ちたぞ、といううんざりした顔をしていた。ほんとすいません、俺だって妃川さんを怒らせたいワケじゃないんだけど……

 ちゃんと謝らなくちゃ。それから早く仕事に戻って、〆切に間に合わせないと。

 謝罪の言葉を巡らせていた意識がぐにゃりと歪み、真宙は目の前が強くぼやけるのを見た。こんな時なのに頭は痛いし、息が苦しい。震えが制御できなくなってしまった手で溢れる涙を拭うと、破れんばかりに目を見張った妃川と視線がかち合った。ああどうしよう、こんな時に泣いたのがバレたらまた怒られてしまう。

「すみ、ません……ちょっと、あたま、冷やしてきます」

 もつれる喉でどうにかそう絞り出して、真宙はデスクを離れた。昼休憩中でもなし、行く当てに困った末に階段を上ることにした。会社のオフィスがあるのは十階建て複合ビルの八階だ。少し上れば喫煙スペースも兼ねた屋上に出ることができた。

 屋根に妨げられない頭上には、白っぽい冬の晴れ空が広がっていた。

 巡りの鈍くなった痛む頭を引きずってベンチに座り込み、真宙はぐすりと鼻をすすった。灰色のコンクリートにぽたぽたと涙のシミが生まれては乾いて消えていく。いやだな、涙が止まらない。早く戻らないといけないのに、今はどうしようもなく疲れてしまい動けそうになかった。

 あれが絵の仕事だったなら、きっと妃川もあそこまで怒鳴らなかったんだろうな。そんな文句をぽつぽつと浮かべていると、錆びついたドアが開く音が聞こえた。

「羽田野、」

 びくりと肩を揺らして振り返ると、気まずそうにしている妃川の姿があった。

「隣、座ってもいいか? 嫌なら嫌って言ってくれ」

「ど、どうぞ……」

 どぎまぎと促すと、妃川は腰を落ち着けて上着のポケットから缶コーヒーを取り出した。これやるよ、とぶっきらぼうに渡された温かさを握りしめて、真宙はすん、と鼻を鳴らす。

「ありがとう、ございます」

「……さっきは悪かった。俺も忙しくて気が立ってたんだ」

「慣れてるので、ぜんぜん大丈夫です」

 嫌味のつもりもなく愚直に返すと、妃川はショックを受けたように「そうだったな」と頭を抱えた。

「いつもごめんな……怒ってばっかりで」

「俺も泣いたりしてすみません……さっきの初稿も妃川さんに言ってもらえなかったら絶対忘れてました……恥ずかしい……」

「羽田野はなんにも悪くないよ」

 妃川は唇を強く噛みしめると、コーヒーをぐいとあおった。吸っていいか? と聞かれて頷くと、紙巻き煙草に火を点ける。嗅ぎなれたシーシャの煙とは違う、独特の饐えた煙が沁みて真宙は目を細めた。

 妃川はしばらく何事かを言いあぐねるように黙り込んでいたが、一本吸い終えたところでぽつりと言葉を漏らした。

「言ったか忘れたけどさ、俺もこの会社で最初は絵描きとして採用されたんだんよな」

「ええ?! 初めて聞きましたよ」

 真宙は油画科、妃川はデザイン科と、専攻は違えど同じ大学を卒業したよしみがある。そんな妃川がかつては自分と同じ志を持っていたなんて、親近感を持たずにはいられなかった。それは妃川にとっても同じだったのだろう。むしろ似すぎていたのかもしれない。

「でも俺、あんまり絵上手くなくてさ。お前みたいに描けなくて。結局デザインの方が得意だったから、気が付いた時にはそっちの職種一本になってた」

 自嘲するように唇をひん曲げて、妃川は新しい煙草に火を点ける。

「だから俺、無意識のうちに羽田野のこと妬んでたんだろうな」

 ごめんなと謝られて真宙はぽかん、と口を開くことしかできなかった。嫉妬。妃川先輩でもそんな感情に駆られることがあるのか。

「デザインもさ、俺が新卒の頃に比べたらお前の方が何倍も上手いし優秀だよ。自信を持ってほしい」

「そう、なんですか……?」

「見る力がある。目がいいんだろうな……俺も羽田野の才能を伸ばせるように、いい先輩を目指すからさ。だからお前も嫌なこととか言いたいことあったら、我慢しないで教えてくれると嬉しい。もし直接言いづらかったら根角あたりに伝えといてくれ」

 言葉にしているうちに照れが勝ったのか、妃川は早口気味にまくし立てるとすっくと腰をあげた。じゃあな、と出入口へと向かっていく背中を見送りかけて、真宙は慌ててその後を追いかける。

「俺も戻ります……!」

「もうちょい休んでからでいいのに」

「落ち着いたので大丈夫です」

 じゃあさっさと仕事終わらせて帰ろうぜ。そういつものフランクな調子でボヤく妃川に同意しつつ、真宙はすっかり涙が止まっていることに気がつく。不思議と頭痛の波も引いていた。

 ふと、宇佐木がしてくれたアドバイスを思い出していた。これが素直に打ち明けるってことなんだろうか。まだ完全に解決したワケじゃないけれど、胸の内に立ち込めていた霧が心なしか晴れたような気がした。


§


 妃川との衝突はあったものの、今週は心なしか仕事量にゆとりがあったおかげでまともな時間に帰れる日が多かった。妃川や根角が進言してくれたのだろうか、と勘繰ってしまうが真宙の観測範囲では何ら変わりがなかったため、憶測の域は出ていない。

 ようやく迎えた休日、真宙は黄昏時の空を眺めながら出勤に使う路線に乗っていた。オフィスに向かう訳ではない。試しに描いた壁画のラフを数種類ひっさげて、宇佐木の店に行くためだった。

 平日の自由時間が増えたおかげで、進捗は良いと言える。好きなものを描きな、と言われてはいるが一応許可は得たかった。きっとラフを見せても宇佐木はどれもいいね、と全肯定するんだろうけど。

 十八時の開店時間を少し過ぎたくらいに来店すると、店内には既に先客の姿があった。真宙が普段選ぶ席とは対岸の一人掛けソファに、オリーブグリーンのフライトジャケットを羽織った若い男性がいる。

 宇佐木はドリンクの提供を終えると、彼のこざっぱりとした黒髪をくしゃりとかき混ぜて笑っていた。その様子に真宙はちくりと胸の辺りに痛みを覚えてしまう。俺意外の人にもそうやって笑うんだな、宇佐木さんって。

「あ、いらっしゃい真宙くん。今日は早いね」

 立ち尽くしていた真宙に気が付き、宇佐木がふにゃりと笑いかけた。定位置のソファに真宙が座ると、先客の男とばちりと視線が合う。年上であろう男は精悍な体躯と顔立ちで目つきも凛々しく、真宙はつい蛇に睨まれたような錯覚をしてしまった。

「サンダー、うちの常連さんを威嚇しないでくれるか?」

「威嚇してません。観察してただけです」

「君は素の顔が怖すぎるんだよ。赤ちゃんに泣かれたことない?」

「ありません」

 宇佐木の苦言をあっさりといなして、サンダーと呼ばれた男はぷいと顔を背けた。旧知の仲を思わせるやり取りに、どういう関係なんだろうなぁ、と真宙は漠然と思案してしまう。

 アイスティーとお任せでシーシャを一台注文すると、ドリンクと一緒に普段はつかない茶菓子が出てきた。木製の小皿に載せられた洒落たキャラメルサンドは、常に行列ができると話題の店舗のものだ。洋菓子好きの根角が〝買うのに苦労したんじゃよ〟と村の長老のように言いながら分けてくれたのを覚えていた。

「これ美味しいですよね」

「そうなんだ。サン……そこにいる三田(みた)がお土産でくれたんだ。僕だけじゃ食べきれないから、よかったらどうぞ」

 ありがとうございます、と対岸の三田にもお礼をすると彼も小さく会釈を返してくれた。顔はちょっと怖いけど、悪い人じゃないんだろうな。

 今日の煙はチョコレートやバニラの深い甘さをベースにしつつも、シガーやジンジャーのピリリとした刺激がほのかに効いていた。茶菓子や紅茶とも相性の良い味わいをしみじみと堪能していると、やはり今日も「暇だから」と言って宇佐木が隣席にやってくる。

「あの、お仕事というか……三田さんは……」

「あいつはね、シーシャ吸わないからほっといていいの」

 じゃあなんでお店に来てるんだい? と真宙が頭上に大量のハテナマークを浮かべていると、それを察した宇佐木が三田を手招きして呼び寄せる。

「サンダー、こっち座りな」

 ぽんぽんと脇の座席をアピールすると、三田はややダルそうにこちらを一瞥してから宇佐木の指示に従った。飼い主の散歩に付き合ってあげる飼い犬、そんな感想がふと浮かぶ。

 三田はソーダのストローを噛みながら、じっと真宙の様子を伺っていた。

 黙り込んだままもマズいか、と思い、真宙は最たる疑問を口にする。

「お二人はどういうご関係なんですか……?」

 真宙の問いかけに宇佐木は三田の方を振り返ると、うーん、と唸り声を漏らした。

「前の職場の部下、ってやつかな?」

「自分の元上官です」

 じょうかん、というワードに真宙の脳裏にはピンとひらめくものがあった。真宙が仕事で関わっているマイナーな雑誌を知っていたこと、宇佐木の手の平にできた硬いしこり、三田をあだ名で呼ぶこと。

「もしかして宇佐木さんって空自の人ですか?」

「えっ、よく分かったね? 正確には人だった、かな。昔の話だよ」

 宇佐木はへらりと笑ってから、のほほんと煙をふかした。彼のボトルの中で鳴る水音を聞きながら、どうしてそんな大事な情報を早く教えてくれなかったの!と真宙は頭を抱えてしまう。知っていたらもっと話せることや聞きたいことが山程あったのに。

「あんまり言いふらしてもダサいよなって思って。今はただのしがないシーシャ屋のオジサンです」

「……ということは三田さんは現役ですか?」

 狼狽えている真宙を横目に三田はこくりと頷いた。

「宇佐木さんとは第二航空団でご一緒してました。今は百里の方にいます」

「えっと、第二ってことは……千歳?」

 百里は茨城にある基地だし、と真宙が記憶をさらいながらそう返すと、三田は少し驚いたようだった。

「真宙くんは航空専門誌とかでも描いてるイラストレーターさんなんだよ。きっとお前も読んだことある」

 真宙が誌名を補足すると、へえ、と言って三田は素直に感心したらしい。

 ショックから立ち直れないまま、真宙はヤケクソ気味に質問を重ねた。幸か不幸かネタには困らないので、ここまで来たら根掘り葉掘り聞きだしてやる。

「ちなみに職種の方は、もしかして、」

「俺も宇佐木さんも戦闘機乗りです」

「それはイーグルに乗って……?」

 はい、と三田の簡潔な返答に真宙はいよいよ声を漏らして天を仰いでしまった。連絡機乗りや整備隊員でもなくイーグルドライバー!

「ちなみに宇佐木さんは航空戦技競技会も二連覇してます。俺は全然ですけど」

 自分のことのように誇らしそうな三田の補足に真宙はぽかん、と顎が外れそうな勢いで大口を開けた。戦技競技会は全国から飛行隊を集め、模擬戦闘の技術を競う会だ。日本一に二年連続になるほどの腕前ということは、物凄く優秀なパイロットだったという意味だ。

「めちゃめちゃエリートじゃないですか」

「いつも飽きないけど、今日の真宙くんは一段と面白いなあ」

 綺麗な輪っか状の煙を吐き出しながら、宇佐木はころころと笑う。そんな宇佐木を指の隙間から見やって、真宙は盛大に溜め息をついた。だってまさか、意中の人が世界で一番好きな機体に乗ってただなんて。しかも物凄く強くて優秀とまで来たらキャパオーバーにも程度ってものがある。戦闘機に乗る宇佐木さん、きっとかっこよかっただろうな。今だってかっこいいけど。

 頭からも煙を上げ始めた真宙を見やりながら、そういえば、と三田が呟いた。

「やっぱり店名は愛称が由来ですか?」

「あー、そうかもね。わりと適当につけたんだけどさ」

「TACネーム、」

 真宙がうっそりと復唱すると、宇佐木が苦笑を漏らして補足をする。

「僕がラビットって呼ばれててさ。ウサキってウサギっぽいよなって歓迎会で同期が言い始めて……そいつもアリスって命名された直後で、ファンシー仲間が欲しくて巻き込まれたんだよ」

 僕もサンダーみたいにかっこいい名前がよかったのにな、と宇佐木が唇を尖らせる。

「俺だって最初はサンダガでしたからね。イヤだったんで全力で抗いましたけど」

「三田ってゲームやらないんだっけ?」

「興味ないっすね」

「だからか。サンダーよりも上位魔法なのに……」

 懐かしそうに昔のことを話す宇佐木はいつもとは違った哀愁を帯びていて、どこか寂しそうにも見えた。パイロットになるための道のりはさぞかし厳しかったはずだ。せっかく叶えたであろう夢の道から、どうして宇佐木は今の暮らしを選んだのだろう。

「……なんで、辞めちゃったんですか?」

 ぽつりと真宙が尋ねると、宇佐木は困ったように笑う。問われた当人よりも隣りにいる三田の方が数倍狼狽えたように見えた。

「なんでだろうね。スローライフってやつに憧れたのかもしれない。都会に疲れたら田舎に移転しようかな」

 冗談めかして宇佐木が答えたところで、からころとドアベルが鳴った。やってきた団体客を迎えに宇佐木が離席すると、ソーダのグラスを干した三田が立ち上がる。

「俺、明日は出勤なんで帰ります」

「うん。またおいで、サンダー」

 それじゃ、と挨拶をした三田は真宙にも律儀に礼をして去っていった。

 忙しそうに立ち回り始めた宇佐木の姿を眺めながら、真宙はもそりと甘いクッキー生地をかじる。近いと思ってた人が遠くに離れてしまった。そんな手触りが残ってしまい、真宙は音もなく息をついた。

 ああ、そうか。

 俺、宇佐木さんのことなんにも知らないんだな。


 薄まってきた煙を所在なく吸っていると、接客が落ち着いた宇佐木が席へと戻ってくる。

 そういえば描いたラフも見せてないや、と思いつつ真宙は空虚感に縛られて言葉を失くしてしまう。もっとちゃんと、宇佐木のために描くべき絵があるのではないか。そんな掴みどころのない焦燥感があった。

「真宙くん、シーシャのお代わりいる? お菓子もまだあるし」

 空いた木皿を下げようと伸びてきた宇佐木の手を、真宙は無意識のうちに引き留めていた。

 どうかしたの? と不思議そうな宇佐木を見上げて、幾ばくか躊躇ってから真宙は言葉を絞り出す。あの、宇佐木さん、

「よかったら今度、俺とどこか遊びに行きませんか?」

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