第2話 Angle of Attack

 壁にかけられた時計の秒針がカチコチと進んでいく。無意識のうちに時間が経つのを目で追っていると、真宙の制作物をチェックしていた先輩の妃川(ひかわ)が呆れたように大きな溜め息をついた。

「おい、起きてるか? 羽田野」

 はい!と反射的に返事をすると間髪を入れずに妃川がデザインに赤字を入れていく。修正指示を漏らさぬよう耳を澄ませながら手帳へ箇条書きをしていると、妃川の苛立ちの募った言葉が刺さる。

「こういうところの細かい字詰め、お前毎回指摘されてるだろ。考えなしに手癖で作りすぎなんだよ。何回も言わせないでくれ」

「……すいません。気をつけます」

 モニターに映った誌面をペンでつつきながら、妃川は不機嫌そうに眉をひそめた。妃川は真宙が入社した時からメンターを務めてくれているベテランのデザイナーだ。出身大学が同じという共通項もあり何かと世話を焼いてもらっているのだが、正直指導は体育会系で厳しく「徹夜してでもやれ」と叱責されることも多かった。

 要領が悪い自分が悪い、と言い聞かせつつも心が折れそうになる日もある。

「お前くらいのレベルの人間いくらでもいるんだ……やる気がないなら辞めればいいのに」

 ぶつぶつと呟きながら、もういいぞ、と言われてやっと自分のデスクに戻ってくることが出来た。指摘された箇所をしっかり覚えているうちに、といそいそ修正作業を始めると、

「羽田野くん、よくキレないよね。私だったらもうとっくにブスッと刺してる」

 隣席で仕事をしていた根角(ねすみ)が憐憫の眼差しを向けつつマグに注いだ紅茶をすする。存外大きな声に驚いて妃川の席を振り返ると、彼はどうやら煙草休憩に行ったようで離席していた。

 根角は妃川よりも社歴は浅いが、うちの会社で唯一の敏腕マークアップエンジニアだ。真宙が手探りで作ったデザインでも、彼女に渡せば無事にWebサイトへと実装してもらえる。仕事も早くて精確な上、大らかな性分で、真宙が一番信頼している先輩でもあった。

 朝買ったまま食べ損ねていたコンビニのサンドイッチをかじりながら、真宙は小さく声をあげて笑った。

「刺しはしないですが……ちょっとだけ気分屋で、不器用な人なんだろうなぁ、とは思ってますね」

「相手によって態度を切り替えられるなら、それはむしろ器用なのでは?」

「それはそう、かも……」

 妃川が根角に対して素っ気ない態度を取ることはなかった。それに彼の機嫌がいい日は修正指示も少なく、定時後に夕食や居酒屋へ誘われる日もある。仕事外での妃川はフランクで話しやすく、そんな彼が苛立ちを募らせてしまうくらい仕事量が多いのは明白で、人手が不足しているのは上長の過失だろう。だからこそ早く一人前になって戦力になりたかった。

 味のよく分からないパンと具材をお茶で流し込んでから、真宙は引き出しの中から痛み止めの錠剤を取り出した。

「具合悪いの?」

「そこまでじゃないんですけど、ちょっとだけ頭痛くて……」

「あんまムリすんなよ」

 へらりと笑い返してから薬を飲み下すと、気分だけでも紛れる心地がした。

 黙々と修正作業を終えて妃川に再度チェック依頼をすると、彼は大して目もくれずにOKを出してくれた。確かに致命的なミスはなかったもんな、と前向きに捉えつつ、完成したデータを取引先に送ったところで定時を報せるアラームが鳴る。

 上着を羽織り、帰り支度を始めていた根角が「そういえばいつものこれ、届いてたよ」と真宙のデスクに一冊の雑誌を置いた。

 それは真宙が幼い頃から夢中で読んできたミリタリー雑誌の最新号だ。自身でデザインやイラストを描き下ろしたしたページが掲載されている、出版社からの献本でもある。好きな雑誌に自分の制作物が載っている。入社してからもう何度か味わった喜びではあったが、未だに新鮮な嬉しさがあった。

「早く帰りなね?」

 そうします、と生返事をしながら真宙は帰っていく根角の背を見送った。完成品に目を通したら帰ろう、と思いつつも明日以降のタスクが脳裏をよぎって溜め息が出てしまう。

 今の会社を志望したのも、この雑誌のデザインを手掛けているから、というのが最たる理由だった。小学生の頃、クラスのみんなが流行りの週刊マンガにかじりついている間、真宙は父のおこぼれで航空機や銃器の特集雑誌を読むのが好きだった。中でも一番夢中だったのは戦闘機の解説記事で、真宙がステルス機の構造や空戦機動について熱心に語ると父も嬉しそうに付き合ってくれた。

 真宙の父は大手航空会社に勤める国際線のパイロットだ。彼は今でも口癖のようにこうボヤく。

〝でも本当は戦闘機の操縦がしたかったんだよね〟

 父曰く、頑固で心配性な両親からどう足掻いても防衛大学への入学許可が下りず、折衷案で一般大学の航空学科に進学したらしい。

 それに素直に影響を受け、真宙の幼い頃の夢もファイター・パイロットだった時期がある。成長するにつれ、結局は絵を描くことへの適性や熱量が上回ってしまい、今の職種に落ち着いているのだけれど。いつかは自分も父と似たような愚痴を言うのかもしれない。

〝本当は戦闘機の操縦がしたかった〟

 なんとなく帰る気になれず、締め切りが近いコラム用の挿絵を描いていると、隣にコーヒーを淹れ終えた妃川が立つ気配があった。真宙が絵の作業をしている時の妃川は不思議と何一つ口を出してこない。畑違いだから、とでも思っているのだろう。イラストとグラフィックデザインは似ているようで似ていない。

 真宙の本来の採用職種はイラストレーターだ。ゲームやおもちゃ系の会社からいくつか内定は貰っていたものの、実在するメカニカルデザインにしか興味が湧かないというやや頑固な性質を持っている真宙にとって、肌に合う企業は限られてしまった。

 そんな絵のスキルしかまともに磨いてこなかった真宙に対し、人手不足にあえぐ会社はデザイナーとしての業務も割り振ることにしたらしい。グラフィックデザインとかめっちゃ基礎的なことしか学んでないんですけど、と戸惑う真宙に彼から教われば大丈夫だ、と割り振られたメンターが妃川だったというわけだ。

 スキルアップも出来るし別に構わないけれど、やっぱり絵を描いてる時の方が落ち着いてしまう。社内であれこれ揉まれることもないし。

「上手いもんだ」

 コーヒーをすすりながら、しげしげと妃川が呟く。素直に言葉を受け取りつつペンタブを走らせていると、自席に戻った妃川も帰り支度を始めるのが見えた。

 やがて、それなりに広いはずのオフィスでも、残業しているのは真宙だけになってしまった。壁掛け時計を見上げながら、ある程度まで描き終えたデータを保存して息をつく。

 ちょうど依頼されたのはF―15J イーグル、国内でも数多く制式採用されている制空戦闘機の挿画だった。真宙が幼い頃から最も描いてきたモチーフでもある。


 真宙が絵の道を志したきっかけは至極単純だ。褒めてもらえたから、だった。

 十歳の夏休み、父に連れられて北海道にある空自の基地を訪れたことがあった。航空祭は一般公開され、見応えのある地上展示や多彩な展示飛行が夏空を鮮やかに染めて行く。F―35の豪快な機動飛行、救難ヘリコプターによる訓練デモ、華麗なアクロバット飛行を見せつける六機編隊のブルーインパルス。スケッチブックを片時も手放すことができず、見たものを全て描きつける勢いで幼い真宙は鉛筆を走らせた。

 中でも一番真宙の記憶に残ったのはF―15イーグル二機による鋭利な機動飛行だった。ガーネット色に燃えるアフターバーナーの噴射、くるりと急旋回をして背を向け合ったかと思えば、どこまでも高くハイレートクライムをしていく。ぴったりと息の合った二機の飛行。両翼から棚引いたベイパートレイルは天女がまとった羽衣のようにひらひらと美しく、真宙はその青空と機影を必死に瞳へと焼き付けた。

 ずっと憧れていた機体の本物の飛行に圧倒され、真宙がぼんやりと先ほどの景色を反芻していると、観覧席の端の方から歓声が上がるのが聞こえた。

 父に手を引かれて声の方へと向かうと、参加者と楽しげに話しているフライトスーツ姿の若い男性がいた。さっき飛んでたイーグルの操縦士さんだよ、そう父に教わり真宙は居ても立っても居られず彼の方へと疾走した。

 スケッチブックを抱え、大人たちの塊の端でうずうずと待っていると、やがて真宙の姿に気づいたパイロットが近づいてきた。背の低い真宙に合わせてオリーブドラブの膝をつくと、彼が白い歯を覗かせてニカリと笑う。くしゃくしゃと汗まみれの頭を撫でられながら、真宙は抱えていたスケッチブックを差し出してサインを求めたのだった。

「僕のサインなんてもらってどうするの?」

「か、カホウにします!」

 そうか、と言って笑いながら真宙の手から鉛筆を受け取ると、彼は真宙が描いた機体の隣にさらさらと愛称をサインした。

「このイーグルは君が描いたの?」

「そう、です」

「とても上手だ。来年もまた新しい絵を見せに来てくれるかな? 僕も飛べるように頑張るからさ」

 小さな胸はそれだけでいっぱいになってしまい、真宙は上手く言葉を返せないままこくこくと必死に頷いた。彼は嬉しそうに微笑むと、同僚に呼ばれ次の参加者たちの群れへと向かい離れていった。


 大人になった今なら分かる。彼にとってあれは些細なリップサービスだったはずだ。子どもの稚拙な絵を褒める、大人ならみんな当たり前のようにすることだ。

 けれど真宙はあの夏の日に交わした言葉が忘れらず、それからずっと必死に絵を描き続けてきた。両親には美術系の道を受け入れてもらえず、もっと安定した職業を目指してくれと泣かれたこともある。

 真宙が絵を描いていると不服そうな母が画用紙を破り捨てていつもこう言ってくるのだ。

〝またこんな物描いて。ちゃんと勉強しなさい〟

 言われた通りに勉強もし、難関の公立美大に合格しても尚消極的だったけれど、最近は収入が安定しない画家にならなかっただけマシか、と諦められているようだった。

「あのお兄さん、元気にしてるのかな……」

 ぽそりと呟きながら、長針が二十三時を回ったことに気がつき、真宙は静かにパソコンをシャットダウンした。


§


 数多の仕事の締め切りと妃川の小言の嵐を乗り越え、ようやく週末を迎えた。

 怒涛の平日を生き抜いたのだからいい加減許されるだろうと、とっくのとうに終電を逃した足で真宙は〝Rabbit Hole〟を訪れた。今日はタクシーで帰ると心に決めているし。

 前回の来店から気づけば二週間近く経ってしまっていた。もっと頻繁に来たい気持ちはあれど、つい疲労に負けてしまう自分が情けない。

 気晴らしに見ていたSNSのクチコミによれば、〝Rabbit Hole〟は真夜中だけ開くシーシャ屋としてコアなファンが熱心に通っているようだった。平日は深夜零時から朝の八時まで、休日の営業時間は店主の気分によって変わるらしい。フランクながらに丁寧な接客や上質な煙の味がウケているらしく、レビューは軒並み高評価だったが、たまに告知なく閉店しているのが残念、というマイナスの意見も散見された。それだけ宇佐木が気ままにやっている自由な店、ということなのだろう。

 静かにドアをくぐると、ころりとチャイムが鳴る。相変わらず店内に人けは無く、オレンジ色のライトの下でぷかりぷかりと煙をふかしている宇佐木と目が合った。

 今日も洋書のペーパーバックを読んでいるらしい。本の表紙に目をやり、真宙はおやとその題名に思い当たる。

「恋愛小説、お好きなんですか?」

 ある老人が、認知症を患った老女に物語を語る。それは一目惚れから始まった身分違いの恋のお話だ―― 原語版は知らないが、翻訳された小説なら真宙も読んだことがあった。

 宇佐木ははらりとページを繰りながら、小さく肩をすくめて笑う。

「こだわりは無いよ。古本屋で適当に買っただけなんだ」

「俺は結構好きなお話でした」

「……そっか。それなら安心して読み進められる」

 ネタバレは禁止ね、そう笑いながら宇佐木は栞を挟み込んで席を立った。

「いらっしゃい、真宙くん。また来てくれてよかった」

「こんばんは」

 お好きな席へどうぞ、と案内されて真宙は少し悩んだ末に前回と同じソファへと腰かけた。さらっと名前を呼ばれたことに動揺してしまい、落ち着かないままクッションを抱き寄せる。どうして覚えてくれてるんだろう、考えすぎかな?

「今日はどうする? お任せでもいいし、吸ってみたいフレーバーとかあれば準備するよ?」

「宇佐木さんは何を吸ってたんですか?」

 彼がふかしていたシーシャを指すと、宇佐木は「これ?」と言って目を細める。

「ブルーベリーとミント、あとは杉とかレモングラスも混ぜてあるかな。ただダークリーフっていうニコチンが多い葉を使ってて……試しにちょっと吸ってみる?」

 宇佐木は本体を持ってくると、真宙に吸い口を差し出した。お言葉に甘えて、と軽く吸ってみると濃い煙がぞろりと肺の奥に染み込んでくる。さっぱりとした甘さと爽快感のある香りだったが、吸いごたえは重く心拍数が一気に跳ね上がるのが分かった。なるほど、だからダークってことか。

 むせることはどうにか回避したものの、真宙が目を白黒させていると宇佐木が可笑しそうにはにかむ。

「真宙くんにはちょっと早かったかな」

「……っ、これも、美味しいですけど……大人しく宇佐木さんのオススメにします」

「ん、了解。作ってくるね」

 今度はどんな味が出てくるんだろう。腕の中でクッションをこねながら、先ほどの煙の味を舌の上で転がした。そういえばマウスピースが使い捨てではなく宇佐木のものだった、それってつまり間接キス、か……? 思い至った瞬間、ぼわりと頬が熱くなってしまい真宙はかぶりを強く振った。小学生みたいなことではしゃいでどうするんだ俺。

 しばらくして宇佐木が出来上がったシーシャを運んでくる。最後に炭加減の確認をし、大きく白煙を吐き出した。宇佐木が生む煙の中にはどうしてだか、パチパチと星が弾けて見えることがあった。美しくて儚い線香花火のようで、じっと眺めていたくなる。

 どうぞ、と手渡されたハンドルに真宙は前回貰ったマウスピースをはめ込んだ。失くさないようにと宇佐木を真似て首掛けのストラップもつけてみたので、見掛けだけなら初心者は脱しているはずだ。

 まだ緊張するひと口目をそうっと吸い込むと、涼やかな木々の景色が目前にふわりと広がった。優しい甘さとほのかな酸味を感じるブルーベリーに、ミントや杉、レモングラスのグリーンな香りが寄り添うことで森林浴をしているような心地になる。既視感のあるフレーバーに真宙があれ? と宇佐木を見やると、彼は悪戯っぽく笑っていた。

「もしかしてこの味って、」

「さっきの僕のブレンドを、軽めで吸いやすくしてみたんだ。これなら真宙くんでもイケるかなって」

 苦いブラックがどうしても飲めなくて、でも砂糖と牛乳をたくさん入れてもらったカフェオレなら飲める。そんな背伸びした子どものような恥ずかしさが微かにあったけれど、少しでも宇佐木に近づけたのなら充分だった。

「ありがとうございます。すっきりしてて美味しいです。アロマっぽくて癒されますね……いいなぁ、自然……」

 コンクリートジャングルから解放されて旅にでも出れたなら、真宙がそんな幻想を描いていると、

「隣にいてもいい?」

 この時間帯はいつもヒマでさ、とふにゃりとした微笑みに真宙がおずおずと首肯を返すと、宇佐木は自身の吸いかけの台を持ち込んで、マイペースにふかし始めた。

 今日も飾り気のない黒いTシャツとデニムは煤で汚れていたが、当の宇佐木は彫刻めいた顔立ちをしながらも血の通った美しさを滲ませている。皺の浮かんだ目元も日に焼けた肌も、完璧すぎないからこそ惹かれるのかもしれない。まるで両腕が欠けた女神の像を人々が崇めるように。

 惹かれる、脳裏で無意識に降って湧いたそのワードを繰り返してから真宙は深く煙を吐いた。

 ―― そうだ、俺はきっと初めて会った時からこの人に惹かれている。

 宇佐木の整った鼻梁を横合いからじっと見つめていると、ふいに彼がこちらを振り返った。青みを感じる墨色の瞳と目が合ったかと思えば、おもむろに伸びてきた指先が目の下をするりとなぞる。

「眠れてないって顔してるね」

 唐突な彼の体温に、引いたはずの熱がぶり返して耳まで火が回ってしまう。真宙は赤面を誤魔化すように俯きながら、あはは、と乾いた笑いを返した。

「完全に俺が悪いんですけど、最近ずっと仕事が忙しくて……」

「もしかして今夜も残業?」

 そうです、と答えてから抑えられなくなってしまい、真宙はぽつぽつと仕事の愚痴を漏らした。イラストレーター兼デザイナーの仕事をしていること、人手が足りず作業量が飽和していること、指導してくれる先輩があまり好きになれないこと。

 制作に関わっている雑誌の名前を少しだけ挙げると、宇佐木は「読んだことあるよ」と言って目を見張っていた。

「昔から軍用機とか空母なんかが好きで。今の仕事も本当に楽しくて辞めたくはないんです。ただ、俺人付き合いとかヘタだし、その先輩ともどう接していいか分かんなくて……」

 実力もあるし悪い人じゃないのは分かるのだけれど、機嫌の良し悪しに振り回されるのが腑に落ちない。そうボヤいて煙を吐き出すと、真宙の台の炭を替えていた宇佐木がなるほどな、と言って頬を掻いた。

「正解は分からないけれど……もしも僕だったら、全部素直に打ち明けちゃうかもな。会ったことがないからただの勘にすぎないけど、その先輩は聞く耳を持ってそうな気がする」

「素直に……」

「人付き合いがヘタっていうのも気のせいじゃない? 真宙くんも嫌われてるわけじゃないだろうし。可愛い後輩から真剣に相談されたらさ、まともな人間ならこう、ぐらっと来るでしょ」

「ぐらっと……」

 寝不足の頭でオウム返しをしながら、真宙は妃川にかける言葉をシミュレーションしてみた。これはタイミングが一番重要なのかもしれないな、と思考実験をしながら煙を吐く。妃川がヒマそうな日に昼食にでも誘ってみるか? いや、果たしてそんな日があるのだろうか。彼はいつも真宙の倍以上の仕事をこなしている。

 あれこれ唸りつつ顔をしかめていると、そんな様子を楽しげに見ていた宇佐木が静かに真宙の頭に手を伸ばした。赤褐色の短髪を撫でながら、よしよし、と笑われて真宙は目の前が強く霞むのを感じた。

 その温かい手の感触で、あの夏の日の景色を思い出していた。

 ぽろり、ぽろり、と涙が零れ落ちてスラックスの膝小僧を濡らす。突発的に泣き始めてしまった真宙の様子を見て、わあ、と宇佐木は小さく仰天の声をあげた。

「また泣かせちゃった……」

「すいません……なんか俺、疲れてんのか涙腺が壊れてるみたいで……」

 余ったカーディガンの袖口で鼻水や涙を拭っていると、宇佐木からタオルを渡された。この前はティッシュだったのに、タオルに進化させてしまった……

 焼けた炭や柔軟剤の匂いがする柔らかな生地に顔をうずめて、真宙は嗚咽を飲み込んだ。ここ数日間の自分の行動や過去を思い返し、気が付いたことがあった。

「たぶん俺、絵を描くことが嫌いになりたくないんです……仕事よりも先輩よりも、一番不安なのはそこなのかも」

 好きなことを仕事に出来た喜びはあれど、何もかもが上手く行くワケじゃないんだ。それに今の仕事を辞めたら両親に呆れられてしまう。腫れぼったい目をしばたたかせながら半ば独り言ちると、宇佐木がそうだね、と囁いてどこか遠くを見やった。

「僕も分かるかもな、その気持ち」

 苦しそうに目を細めて、宇佐木は天井の先、ここじゃない場所の景色を見つめているみたいだった。そうだ、前回来た時も彼はそんな顔をしていて。真宙は止まない涙をやわい生地で拭ってから、ずいと宇佐木の前に肩を寄せた。

「……宇佐木さん、もっかい頭撫でてくれませんか?」

 少しでも気がまぎれたらいい、そんなことを思ったが故の提案だった。我ながら頓珍漢なことを口走ったな! と羞恥に駆られつつも、真剣な様子に宇佐木は小さく吹き出す。

「なんだかワンちゃんみたい」

「……犬だと思ってくれても問題ないです」

「僕好きだよ、ワンちゃん」

 くしゃくしゃと頭をかき回しながら宇佐木がヘンなの、と笑う。その和らいだ表情に安堵し、真宙はそっと胸を撫でおろした。


 やがてだんだんとフレーバーが燃え尽き、煙の味が薄くなってくる。

 お代わりを貰うか検討していると、本を片手にぼんやりと店の壁を眺めていた宇佐木が「いいこと考えた」と声をあげた。

「真宙くんにさ、一個お願いがあるんだけど」

 ホースの吸い口でずい、とこちらを指してから宇佐木が座る間合いを詰めてくる。たじろぎながら「なんでしょうか?!」とひっくり返った声を漏らすと、小悪魔めいた笑みを浮かべた宇佐木がそっと真宙の耳に唇を寄せた。

 低くまろやかな囁きが耳朶を叩き、真宙は散漫になった意識の中で宇佐木の声をもう一度なぞる。いいんですか、

「俺なんかの絵で」

「君の絵がいいんだ」

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