Vertigo in the Smoke

蜜井 眠

第1話 Down the Rabbit-Hole

 十一月の千歳市は地上でも氷点下が観測される時期だ。戦闘機が眠る格納庫内に併設された待機所の窓から外を覗くと、薄曇りの空からはらはらと綿雪が舞っているのが見えた。

 昼食を終えたほのかな眠気の中、僕は手元に配られた五枚のカードをむっすりと眺めた。

「……勝ち筋が見えない」

 カジノチップの代用品にされた個包装のチョコレートを一つ掴んで場に出しながら、冷めたコーヒーを渋い顔ですする。二機編隊でペアを組んでいる同僚の有間 昴一等空尉が、自分の手札を見やりながら困ったように苦笑いを浮かべた。

「そう言ってお前、いつも勝つじゃん」

「いや、僕が強いんじゃない。アリスが弱すぎるだけだ」

 有間 昴、略してアリス―― そうやって名付けられた甘ったるい愛称(TACネーム)に似合わぬ逞しい肩幅をすくめながら、有間はビッドを宣言してチョコの包みを場に放り投げた。

 手札を交換して、運よく四枚揃ったクイーンの絵柄を矯めつ眇めつしていると有間がニヤリと歯を見せる。相変わらず表情管理が出来てない奴だなあ、とチェシャ猫のような口元を横目に僕は「レイズ」を呟く。有間の手札も調子が良いのかもしれないがフォア・カードに勝てる役なんてそう揃うものじゃない、ここは勝負してもいい場面だろう。

 僕の宣言に明らかな動揺の色を見せる鳶色の瞳をじっと見つめていると、平穏な昼下がりの空気を切り裂くように赤い電話が鳴り響いた。

 午後二時二十三分(ヒトヨンニーサン)、領空に侵入した彼我不明機(アンノウン)の報せを受け、飛行管理員が「スクランブル」と叫ぶ。

 僕は手札をテーブルの上に叩きつけ、鳴り響くサイレンの中を疾走した。格納庫のシャッターを開けるボタンを強く押し込み、機体に向かって真っ直ぐダッシュしていく。


 整備員と息を合わせて準備を進め、コックピットに滑り込んでチョークアウトのサインを出す。発令から三分過ぎる頃には僕は僚機の有間と一緒に空を飛んでいた。対領空侵犯措置任務で〈五分待機〉を命じられた際は、五分以内に戦闘機を離陸させないと処罰を受ける。どんなにポーカーが盛り上がろうとも、あのアラートに勝てる役なんて存在しないのだ。

『珍しくストレート・フラッシュだったのに』

『僕はクイーンが四枚』

『まじ? なんだ、じゃあやっぱり俺が勝ってたじゃん』

 無線機越しでも分かる残念そうな有間の声を聞きながら、僕はヘッドアップディスプレイ(HUD)の先で渦巻く白い雲を見つめた。今は雲の上を飛んでいるから雪が降ったりはしない。

『今日も綺麗な乱層雲だ。あの辺りとかマシュマロみたいで美味そうだし』

 見ろよ、と言われても有間の感性はいつも独特で理解しきれない。彼は飛ぶ度にそうやって嬉しそうに雲を観察していた。無限に形が変わるから全然飽きないのだと有間は笑う。

 アラート勤務で出動するのは今月も始まったばかりなのにもう十回を超えていた。彼我不明機と呼びつつもどうせ北国の軍用機に違いないのだが、空の安全を脅かすのなら等しく自衛する必要がある。それが僕たち航空自衛隊、戦闘機乗りの仕事だから。

 僕と有間は領空に迫った二機を発見すると、僚機である有間がふわりと僕の後方についた。共通周波数で〈通告〉を発したが、針路変更をする気配がないので〈警告〉を発する。操縦桿のトリガーに指をかけ、いつでも警告射撃をする準備は出来ていた。

 アンノウンの二機は〈警告〉を受けた段階で西の方角へと針路を変えると、颯爽と青い空の中を去っていった。

 管制塔への報告をしながら基地への帰路を取る。

 それは氷のように冷たい緊迫感が刹那、緩んだ瞬間だった。

『あのさラビット、戻ったら、』

 僕の愛称(TACネーム)を和やかに呼ぶ声がふいにぷつりと途切れるのが聞こえた。


 あの日広がった空は今でもよく覚えていた。

 アクリル製のキャノピー越しに見る白い海は、どこか作り物めいていて手で触れたら柔らかそうに見えたのだ。枕を裂いて引きずり出したみたいな、眩しい白。絵筆で塗りたくったみたいな真新しい青。

 やや後方を飛ぶ僚機の影が、そんな純白の海面の上をふわふわと漂っていた。寒風に揉まれる河原のススキのように、右へ左へと落ち着きなく揺らぐ影。

 その動きにかすかな違和感を覚えて、僕は肉眼で有間の機体を振り返った。

 透き通るような青空の中へとゴーストグレイの流線形がゆっくりと落ちていく。

 それから機体はぐるりと急反転して、おもむろに白い雲間へと吸い込まれていった。

 こっちにおいでと、まるで雲海に棲まう獣に誘われたみたいで。

『アリス? 応答してくれ、アリス!』

 酸素マスクの内側で、僕は相棒の名前を幾度も叫んだ。自分の荒くなった呼吸と獣みたいに唸るターボファンエンジンの稼働音だけがジンジンと鳴り響いて、全身が火傷したみたいに熱くなる。

 操縦桿を右に倒しながら、ラダーペダルを踏み込み、僚機の姿を追いかけた。厚い雲の中を突き抜けると眼下には澄んだ海が広がる。


 そのまま必死に何度も何度も、呼びかけたけれど、無線機越しに有間の声が返ってくることはなかった。あのさ、

『ラビット』

 そう最後に僕の名前を呼んだ人懐こい声音だけが、すっかり遠くなってしまった空を見上げる度に鼓膜に蘇る。


 ……その声はきっと、僕が死に、灰になるまで、永遠に忘れることはできないんだろうな。


§


「やっばい、乗り過ごす……!」

 地下鉄の乗り場を目指し百貨店内を通ってショートカットするルートを選んだはずが、二十三時には店舗自体がクローズすることをすっかり失念していた。人けの薄くなり始めたビジネス街をどたばたと走り抜け、ようやく開いている降り口を見つけて転がるように駆け下りたものの、改札口の頭上では「本日の運転は終了しました」のテロップがちかちかと瞬いていた。ああ、ゲームオーバーのお知らせだ。

 腕時計を確認すると、時刻は深夜零時半を指していた。終電を逃した事実を目の辺りにして羽田野 真宙はぐったりと項垂れた。来た道を力無く戻り、十一月の寒空の下でコートの襟を寄り合わせる。

 現役で受かった美大を卒業し、兼ねてより志望していたデザイン会社で働き始めてからあっという間に八ヶ月が経っていた。慣れない実務から来る残業続きで終電で帰ることが当たり前になりつつあったのに、今日はついに帰る足を逃してしまった。いつかやらかすだろうなとは思っていたけど!

「最近ほんとツイてないな……」

 大学時代から付き合っていたガールフレンドにフラれたのだって、ほんの三日前のことだった。傷口はまだまだ新鮮で、ほんの少し思い出すだけでも胸がじゅわりと痛んだ。

 お互いに社会人デビューをし、忙しさと疲労を言い訳にしているうちに彼女の心はすっかり冷えて離れてしまっていたらしい。久しぶりに会えた夜に「ごめんね、真宙、実は好きな人が出来たんだ」と器用にフォークだけでパスタを巻きながら呟いた彼女の表情はどこか疲れていて、そして寂しそうだった。

 昔から笑顔が素敵な人で、ずっと隣で笑っていてほしいと思ってたのに。そんな人にこんな表情をさせてしまったショックと、睡眠不足でもたつく脳みそとでは上手く引き止める言葉が出てこなかった。自分に非があるであろうことは何となく分かっていた。どうしてあの時すぐに、別れたくないって言えなかったんだろうな俺。

 すん、と鼻をすすると鋭い冷気が目の奥まで貫くようで。行く当ても無いままに、真宙はうろうろとほの暗い街を彷徨った。職場は新宿の中心、煌々と栄えた歓楽街からは幾分南に逸れたビジネス街にある。このまま西へ一時間ほど歩けばきっと自宅に辿り着けるのだろう。歴戦のタフな社会人だったらもうとっくにタクシーを拾って家に着いている頃合いなのかもしれない。そうだ、今日は平日で、まだ週の半ばで、明日だって朝から仕事があるのに。

「なんかでも……帰るのヤダなぁ……」

 ほう、と空に向かって吐いた息が白く煙った。その吐息をかき混ぜるようにふわりと風がそよぐ。

 その一陣の中に真宙は暖かな火の灯ったキッチンの景色を見た気がした。甘辛くてキリリとしたシナモンと豊潤なジャスミン、それから瑞々しい林檎の香り。洋菓子店から漂う香りにも似ていたけれど、アップルパイを焼いているにしてはバターの気配がしなかった。

 なんだろう、不思議な匂いだ、と無意識のうちにその香りの先を辿っていくと、見え始めた住宅街の手前でぽわりと光る小さなドアを見つけた。

 木製の扉は使い込まれた風合いで、塗られたコバルトブルーのペンキは擦り切れていた。はめ込みのガラスは温かい光を漏らすばかりでくすんでおり、中の様子を伺うことは出来なかった。ドアの真ん中にはマホガニーの端材で作られた看板がぶら下がっており、〝Rabbit Hole〟とどこか素っ気ない手書きの筆記体が走り書きされている。もしかしてこれが店名なのかな?

 営業時間や定休日の表記すらない、怪しい入口。ただそれでも、暗く寝静まりつつある街並みの中でそのドアの先の空間がとくとくと脈打ち、息をしているような気がしてしまった。

 どんな店なのかさっぱり分からなかったし、そもそも店ではない可能性だってあるけれど。その内側から滲む温かさに惹かれて、真宙は吸い込まれるようにドアノブへと手を伸ばしていた。


 ころころとカウベル型のチャイムが小さく鳴る。暖房の効いた室内には眠い煙が重たく立ち込めていたが、柔らかな暖色の光に溢れていた。ブルーグレーの壁とチェスターフィールドソファ、散りばめられた乳白色のクッションと焦げ跡が星座のように点在した絨毯。インテリアは青と白の配色で洗練されており、店主の趣味の良さが感じられた。高い天井からぶら下がったドライフラワーと、その真ん中でもたもたと回るシーリングファンを見上げながら、真宙がいつの間にか止めていた息を強く吐くと、

「こんばんは」

 白い煙が視界を埋めて、またあの絵画のような柔らかな景色が脳裏をよぎった。焦げた砂糖とシナモン、ジャスミンに林檎、その甘い香りの先には気だるげに紫煙を吐く一人の男がいた。

 表紙が波打ったペーパーバックの洋書を片手に、彼がぷかぷかと煙を吐く。短く刈り込まれた黒髪をくしゃりとかき混ぜてから、男は青く光る墨色の瞳を猫のように細めた。

「いらっしゃいませ、当店のご利用は初めてですか?」

 そう尋ねられて何らかの店であることを確信し、真宙はそっと胸を撫でおろした。もしこれで個人の住居だった暁には、顔から火を出しながら即座に回れ右してタクシーを探しに行ってたことだろう。

 唯一の店員と思しき男は、カウンター脇の椅子から立ち上がりながらパタパタとTシャツについた灰を払い落した。言葉に詰まってしまった真宙の様子を伺ってから、レジの横に広げられていたメニュー表を取り上げてこちらに歩み寄る。

「うちはシーシャ屋なんです」

「しーしゃ、や?」

 日常生活ではあまり聞き馴染みのない単語にオウム返しをすると、その間の抜けた様子に男があはは、と声をあげて笑った。笑い皺の浮かんだ目元を見つめながら、瞬時に顔が熱くなるのを感じて真宙は小さく喉を鳴らした。結局恥ずかしいコトをしている気がする!

「すみません……何屋さんか知らずに入りました。素敵な香りに惹かれて、つい……」

 これ以上墓穴を掘らないように、と大人しく白状すると、男は「なるほど」と頷いて申し訳なさそうに頬を掻いた。

「確かに得体が知れないよね、あの看板だけじゃさ」

「……自覚があるんですね?」

「普段はSNSや情報サイトとかで〝分かってる〟人しか来ないんだ。だからまあ、色々作るのも面倒臭いし、あのままでもいっかなって」

 君みたいな子はレアケースだ。そう言って男はふふ、と嬉しそうにはにかんだ。身長は真宙よりもやや低く、歳は三十代半ばほどだろうか。もっと若いと言われても納得してしまうような不詳さがその笑顔にはあった。Tシャツの上からでも分かる筋肉質な体躯といい、顎のあたりに無骨さは感じるけれど、ひどく端整な顔立ちをした人だった。デッサンで使う石膏像にも似ていて、ずっと見ていてもきっと飽きないんだろうな。そんな感想がつらつらとこみ上げ、真宙はぐるりと視線を逸らした。いけない、今の視線は不躾だった気がする。

 そんな挙動不審さも男は意に介していないようで「どうする?」と小首を傾げて真宙の瞳を見上げた。

「初めてのシーシャ、体験してみますか?」

 

 シーシャ、別名は水煙草、フーカー、ナルギレ、その他エトセトラ。煙草と呼ばれるからにはタバコ葉を使用しているためニコチンやタールを含んでいるが、一般的な紙巻きと比べると煙を水のフィルターにくぐらせているため有害物質の量は格段に減るのだと言う。

「とは言え有害なことに変わりはないし、大人しか吸えないので、あまり強くはオススメしないけどね。初体験は自己責任、ってことだ」

 そうひと通り説明を聞いてから、男がカウンターの奥から取り出した器具を見て真宙は「あ」と声を漏らした。花瓶のような美しいガラスボトルと長い管。イマイチ想像のついていなかった行為が実体を現していく。

「不思議の国のアリスで見たことがあります」

 大きなキノコの上に寝転がり、眠たそうに色とりどりの煙を吐く芋虫。子どもの頃に見た映画のワンシーンを思い出して、あれは煙草を吸っていたのかと点と点が結び付く。かつての学友の間でも流行っていたようで、飲み会の席で一度誘われた記憶があったが、その時は制作も忙しかったしあまり興味も湧かなくて断ったのだった。

 男は「話が早いね」と言って頷くと真宙が来店した時と同じようにひと口、煙を吐いて見せた。その仕草や表情が妙に艶めかしくて、真宙はぞわりと胸の奥が粟立つのを覚えた。香りはこんなにも甘くて優しいのに。なんだろう、落ち着かないこの感じは。

 ……チャレンジ、してみたら、分かるのかな。

 真宙はきゅ、と唇を引き結んでから、そっと息を吐いた。

「俺も、初体験、してみたいです」

 情けなくひっくり返ってしまった声を恥ずかしく思っていると、店員の男はふにゃりと笑った。

「そんなに緊張しなくてもいいのに」

「……すみません」

「じゃあ年齢確認しよっか」

 法律でも決まってるしね、と促されて真宙はぎこちなく運転免許証を差し出す。終電を逃してから急激に大人の階段を上っている気がしたけれど、仕事疲れでハイになっているだけかもしれない。

「二十二歳。うん、大丈夫だね……名前の読み方はマヒロっていうの?」

「はい、ソラじゃなくてヒロの方なんです」

「いいね。綺麗な名前だ」

 ありがとう、と返ってきた身分証を受け取る指先が震えそうになってしまって真宙はごくりと唾を飲んだ。彼の一言一句でどうにも調子が狂ってしまう。社交辞令だったとしても嬉しかった。

「うちの注文システムを紹介しますね。どこでも好きな席に座っていいよ」

 誰もいない店内をぐるりと見渡してから、真宙はカウンターが見える窓際の席を選んだ。革張りのソファに腰を落ち着けていると、ペンとメモ帳を片手に彼が戻ってくる。

「一般的なお店だとフレーバーのリストがあったりするんだけど、うちは僕の趣味もあってちょっと書き切れないので……お客さんの話を聞いてなんかいい感じに作ってます」

 彼がペンの先で示したカウンターの奥には、ジャムのようなものが詰まった密閉容器や銀色の缶がずらりと並んでいた。きっとあれがフレーバーなのだろう。乱立したガラス瓶といい、炭焼き場といい、怪しい薬を調合している魔法使いの家みたいで見飽きることがなかった。

「特に嫌いな味や指定がなければ今の君に合いそうな美味しいやつを作ってくるけど、」

 どうする? と怪訝そうな瞳を見つめ返しながら、真宙は「美味しい」というワードに惹かれるがままにこくりと頷いた。

「シーシャのこと何も分からないので、お兄さんのオススメがいいです」

「ふはっ、お兄さんなんて久しぶりに呼ばれた。僕もうそんな歳じゃないんだよ?」

 OKちょっと待っててね、とメモ帳にいくつか走り書きをする横顔をじっと見つめて、真宙は「あの、」と彼を呼び止めた。

「おにい……店員さんのお名前を聞いてもいいですか?」

 なんて呼べばいいのか分からなくて、と誤魔化すように言い訳を付け加えながらも、単純に彼の名前がどうしても知りたくなったのだ。男は不思議そうに目をしばたたかせてから、小さく笑みを浮かべた。

「宇佐木 薫です。この店の唯一の店員で、一応店主でもあるかな。好きに呼んでください」

 こういう字です、と掲げられたメモ用紙には右上がり気味の几帳面な筆跡が躍っていた。そう言い置いてから作業場へと踵を返す背中を見送って、真宙は今聞いた音を囁くようになぞった。宇佐木 薫。

「……俺なんかよりももっとずっと綺麗な名前だ」


 先に提供されたドリンクを飲みつつ待っていると、二十分ほどして宇佐木が戻ってきた。少し重たそうなシーシャボトルの中には水が揺らめき、その表面では優美なエジプシャンデザインが黄金色に光っていた。真鍮製のパイプ部分にはアラビア文字や花の意匠が象られ、最上部では赤々と炭が燃えている。足元に置かれた美しい工芸品に真宙が口を開けて見とれていると、くすりと笑う声が聞こえた。

 長く伸びたホースを手繰り寄せて、宇佐木が銀色のマウスピースを咥える。こぽこぽと泡立つ心地よい水音の中に彼の呼吸音が混ざり、すっかり意識がそらせなくなってしまった。天井まで吐き出された白は雲のように濃く、きらきらと星の粒が輝いて見えた。

 妙な恥ずかしさを覚え、無意識のうちに熱くなっていく頬を気まずく思っていると、目前に「はい」とホースハンドルを差し出される。

「煙の吸い方なんだけど、むせない為に少しコツがいるんだ。紙巻きとも吸い方が違うんだけど、イメージとしては深呼吸しながらシェイクとかフラペチーノを吸い上げる感じかな」

「肺には入れた方がいいんですか?」

「そうだね。じっくり溜めずにふわっと吐き出した方が味がよく分かる。でも最初は難しいと思うからちょっと吸ってみて、すぐに吐いちゃっていいよ。それでも味はするからさ」

 彼から教わりながら使い捨てのマウスピースをハンドルに差し込み、真宙は何度か呼吸を整えてからそうっと煙を吸い込んでみた。軽やかな泡の音を聞いていると、ふわりと甘い煙が口内に滑り込んでくる。

 砂糖の甘さだけじゃない、パイナップルやライチの爽やかな甘さ。その後をカルダモンのスパイシーさやラベンダーの柔らかな香りが鼻を抜けていき、真宙はざわりと体の奥が落ち着きを無くすのを感じた。全ての味を感じ取れないくらい豊かな風味と香りの渦に呑まれて、強張っていた四肢から自然と力が抜けていく。吐き出した後も強く残った甘みに呆然と唇を舐めていると、そんな真宙の様子を見て宇佐木が苦笑を零した。

「上手に吸えたね。味は平気だった?」

「……めちゃくちゃ美味しいです。色々な味が上手く織り交ざってて、奥が深くてフクザツなのに嫌味がなくて……すごい不思議……」

「それはよかった。なんか疲れてそうだったから、ベースは南国系のフルーツにしてみたんだ。今日も寒いから体を温めるスパイスや、リラックス効果のあるハーブや花のフレーバーなんかも混ぜてある。君が明日からも元気に過ごせたらいいなと思って」

 そう夏の太陽のようにニカリと微笑みかけられて、真宙は目の奥が一気に熱くなるのを感じた。せり上がってくる波を押し留めようと足掻くように煙を吸ってみたが、吐き出した瞬間にぼたぼたと涙が降って落ちた。ああもう、恥ずかしい、こんな風に人前で泣くつもりなんてなかったのに。

 ひくりと嗚咽を漏らして唇を噛みしめていると、真宙の変わり様に宇佐木がぎょっと目を見張った。

「わっ、大丈夫?! もしかして煙強すぎたかな?」

「ちが、っごめんなさい、そうじゃ、なくて……」

 どうやってこの気持ちを伝えたらいいんだろう。上手く言葉が出てこないまま鼻をすすっていると、ふいに宇佐木の指先が頬に伸びてきた。少し乾燥した大きな手の平でぐい、と涙を拭われる。全体的に皮膚は厚く、長い指の付け根には硬いタコの感触があった。

 その熱いくらいの体温に驚いて、涙が引っ込んだような気がした。真宙がきょとん、と濡れた目で見上げると、苦しげな宇佐木と視線がかち合う。

 泣いていたのは自分のはずなのに、彼の方がよっぽど辛そうで、泣き出しそうな顔に見えた。

「宇佐木、さん……?」

「あ、ごめん、知り合いと似てたから……驚いちゃって」

 彼から手渡されたティッシュで鼻をかみ、真宙は大きく息をついた。

「すいません、嬉しすぎて感情がバグりました……」

「そうなの?」

「俺、三年間付き合ってた彼女にもフラれたばかりで……今日も仕事上手くいかなくて先輩にめちゃくちゃ怒られたし、終電も逃しちゃうし、思ってた以上に疲れてたみたいです。俺なんかのために考えて作ってもらえたのが、すごい嬉しくて……」

 この店で当たり前のように提供されている商品のはずなのに、いちいち感動しすぎて気味の悪い客になっていないかと不安になってしまった。銭湯に行き、湯舟に浸かりながら号泣しているようなものだろう。

「あの……情緒不安定ですいません……」

「ううん、謝んなくていいよ」

 くしゃくしゃと真宙の赤茶けた髪をかき回してから、宇佐木が目を細めて笑う。

「毎日頑張っててえらいね。好きなだけ泣いていくといいよ」

 お客さんもあんまり来ないだろうからゆっくりしてって。そう言い置いて、宇佐木は静かに作業場へと帰っていった。

 どこか懐かしい、優しい手の平の感触を噛みしめながらこぽこぽと煙を吸っては吐く。甘くて温かい煙が肺を伝って全身の細胞に染み込んでいくような心地がした。息苦しい日々の中で、そう言えばこうやってゆっくりと深呼吸をしていなかったことに気づかされた。そうか、息の仕方も忘れちゃってたんだな、俺。

 時折溢れる涙を拭いながら、頭を空っぽにして煙を吸っているうちに上手い吸い方のコツが掴めてきた。炭の交換に来た宇佐木が「サマになるのが早いな」と言って可笑しそうにしていた。

 宇佐木が言っていた通り客足は少なく、彼も自分用のシーシャを吸いながらのんびりと本を読んでいることがほとんどだった。そんな彼の様子を眺めつつ煙を嗜むうちに、睡魔と軽い酸欠が混ざり合い、視界がぼやけていくのを感じた。

 真宙がソファに体を深く沈め、うつらうつらと舟をこいでいると、肩口に毛布の柔らかさが触れた気がした。寝てもいいんだよ、そんな許しを囁かれるのを待っていたかのように、真宙の意識はふつりと暗闇の中へと落ちて行った。


 空気が揺れる気配に頬をなぞられて、真宙はふ、と目を覚ました。レースカーテンの隙間から差し込む朝の光の中でぱたぱたとまばたきをしてから、見慣れない天井をじっと見上げた。そうだ、昨夜は終電を逃して、それで……

 からころと鳴ったドアベルの方を見やると、三人組の男女が退店していくのが見えた。それを見送りながら宇佐木がドアに下がっていた看板を〝CLOSE〟へ裏返す。

「あの、おはようございまひゅ……」

 かさついた喉で慌てて呼びかけると、宇佐木がこちらを見て屈託なく笑った。

「おはよう、よく寝れたかい?」

「おかげさまで……完全に寝ちゃってました……」

「それは何より」

 毛布を畳んで脇へと避けながら、真宙は腕時計に目をやった。時刻は八時をすぎたくらいで、始業開始までまだ二時間はある。仕事のことを思うとやや憂鬱になってしまうけれど、久しぶりにすっきりと眠れた感覚があった。シーシャのおかげ、だろうか。

 近所のネットカフェでシャワーでも浴びてから出社しよう。そんなことをぼんやりと考えながら、通勤用のリュックサックを背負ってもたもたとカウンターへと向かう。

「居座っちゃってすみません、お会計をお願いします……」

 レジ横の料金表には宇佐木から受けた説明通り、案外リーズナブルな価格が印字されている。でもだいぶ長居しちゃったし、いっそのこと追加料金でも請求してもらった方が気が楽だなあ、などと思っていると、

「代金はいらないよ。初回特別サービス。ただ、またうちに来てくれたら嬉しいな」

 あとこれあげるね。そう言って手の中にぽとりと載せられたのは白と青がまだらに混ざり合った青空のようなマウスピースだった。よく見ると差し込み口の辺りには兎のシルエットが彫り込まれている。そうか、〝Rabbit Hole〟だから、やっぱり店名だったんだ。

「空みたいだ……綺麗な模様……」

「開店記念で作ったオリジナルのマウスピースなんだ。余ってるの見つけたから、よかったら使ってみて」

 昨夜のことも料金のことも、たくさん親切にしてもらったのにどうやってお礼をしたらいいんだ! そうあれこれ考えているうちに、宇佐木の手に背中を押されて真宙はいつの間にかドアを通り抜けていた。

「えっと、あの、宇佐木さん、」

「じゃあまたね、真宙くん」

 にこやかな宇佐木の表情が、青いドアの向こうに消えて行く。真宙は呆然とレジン製のピースを握りしめて、最後に聞いた宇佐木の声を反芻した。真宙くん、って呼んでくれた。もしかして名前、覚えてもらえたのかな。

 ……ああ、ダメだ、妙な方向へ勘違いしてしまいそうになる。一瞬で顔に上る熱を押し込めるように額を叩いてから、真宙はぽつりと呟いた。

「……絶対、また来ます」

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