第8話 物語の終わるときに


     1


 スマホを起動してSNSにログインする。

 フォローしている相手の情報、ゲームやアニメに関する興味を引きそうなトピックがざっと表示される。

 最近、ようやくわかってきた。SNSってのは、自分の好きなものだけ見るためのツールだって。ここから未知の、新しい世界に繋がるなんてことは、おそらくないんだ。

 開け放たれた窓から風が吹き込んでカーテンが揺れた。小高い丘の上にある校舎からは街並みが一望できる。まるで子供が勝手気ままに積み上げたブロックのような建物が所狭しと犇めいている。

 カツカツと先生が板書するチョークの音が耳朶を打つ。興味もない数式が並ぶ黒板に目を戻す。一番後ろの片隅の席――そこが俺の定位置だが――からは、教室全体が、生徒全員の様子が丸見えだ。

 真面目にノートを取っている奴、うつらうつらと居眠りしている奴、隠れてスマホをいじっている奴、まあ様々いるけれど、みんな女。学校はおろか、この街の人間全部カウントしても、たぶん男は俺一人だ。

 女が女を産む孤独生殖。世の中、女しかいねえってこと。だけど、ごくまれに遺伝子の異常で男が生まれてくる。世が世なら男児は鬼子として忌み嫌われ、産まれると同時に殺されることもあったそうだ。だけど、今では科学的にも倫理的にも理解が進み、一応は人間扱いされる。

 良い時代になったと思うだろうが、完全に差別や偏見がなくなったわけじゃねえ。好き好んで俺に近寄ってくる奴はいねえし、クラスのSNSには俺は存在しないことになってる。要するに、俺は厄介者ってわけだ。

 俺は、はぐれ者。その事実を受け入れるまでには結構時間がかかったが、一度呑み込んでしまえば、それはそれで楽だ。まわりの人間関係に巻き込まれて疲れることもない。他人の機嫌を取ろうとして鬱になるより、孤独でいるほうがよっぽどマシじゃねえか。

 放っておいてくれればいいんだよな。構ってくれなんて一言も頼んでねえんだから。

 なのに、たま~にウザ絡みしてくる奴らがいる。俺が目に入るだけで腹が立つらしい。だったら、てめえが学校に来なければいいのによ? 誰も頼んでねえんだから。お前ひとりこの世から消えたところで、世界は何も変わんねえぜ?

 そう言ってやったら、怒って喧嘩を吹っかけて来やがんの。腕力で女が男に勝てるわけねえのに。三対一だったけど、それでも相手にするのが馬鹿らしいんで、適当にあしらって逃げた。そしたら、弱虫とか後ろで吠えてやがる。見逃してやったのは、こっちだっつうの。

 やれやれ。アホらしい。この世はまことにアホらしい。

 このアホらしい誰が作ったのかもよくわからん世界を、よく人間はこうも真面目に、頭がおかしくなることもなく生きていけるもんだ。

いや、ひょっとしたら、もう頭はおかしくなっちまってるのかもしれねえがな?

社会に順応する、それ自体がすでに狂気に片足突っ込んじまってる状態なのかもしれねえ。

 まったく困ったもんだぜ。


 黄昏時。夕闇迫る空が血を混ぜ合わせたみたいにやけに鮮やかで、作り物臭く思えるくらいだった。河川敷をぶらぶらして暇を潰した後、腹が減ってきたので仕方なく帰路についた。

 夕蝉の音を聞きながら細い路地に入っていくと、柳が囲う小さな墓地の前に古ぼけた古書店があった。古民家を転用したような、趣味でやっているとしか思えない古本屋。

 はて? こんなところに古本屋なんてあったっけ?

 店の前には一冊五十円~百円の文庫本が無造作にワゴンに詰め込まれてあった。棚には、日焼けした単行本の背表紙が並んでいる。

 このネット全盛時代にまだこんな化石じみた店も残っているもんなんだな。

 少し興味を惹かれて店に入った。

 古い本の匂いがした。妙に懐かしい気にさせてくる。薄ぼんやりとした照明の下、一生かけても読み切れない量の本が棚に並んでいた。古本好きにはたまらない楽園なんだろう。

 見るからに古い本もある。表紙がやたらと黄ばんでいるのだ。こんなもの売り物にして大丈夫なのかよ? 読み進めているうちに、黄ばみが感染してしまいそうだ。

 店の奥には、ショールを肩にかけた白髪の老婆がちょこんと丸椅子に腰かけ、文庫本を読みながら店番をしていた。尖った鷲鼻の、皺の深い老婆。軽く八十歳は超えてそう。

 やっぱ趣味でやってんだな、この店。

 老婆は文庫本から目を上げ、きらりと好奇心に目を光らせた。

「いらっしゃい。どんな物語をお探しだい?」

 唐突にそう聞かれて、俺は頭の裏を掻いた。

「よくわかんねえや。俺、今まで一冊も本を読んだことなくて」

「現代っ子だねえ」

 婆さんは愉快そうに肩を揺すって笑った。

「本が苦手かい?」

「う~ん、苦手かどうかもわかんねえや」

「そうかい。あんた、男の子だね?」

「そうだけど? 悪いかい?」

「悪くはないよ、ちっともね。男の子が主人公の物語があったなと思ってね。あれはどこへやったっけかね……」

 お婆さんはよっこらせと立ち上がって、踏み台に乗り、本棚の上段を探り始めた。

「ああ、あった。これだよ」

 老婆は目当ての本を棚から抜き出し、よっこらせと台から降りて、その本をこちらに差し出した。

 分厚い単行本だった。タイトルは『竜の君』――臙脂色の布張りの表紙に竜が描かれている。

 やけに立派というか、偉そうな装丁の本だ。手に取ってぱらぱらとページを繰ってみる。字がびっしり詰まっているが、挿絵も多い。

 それなりに値の張りそうな本だが、どこにも値段が書いていない。

「その本はね、お前さんにぴったりだと思うよ。はぐれ者の竜がみずからの使命に目覚め、成長していく物語さ。きっと気に入ると思うよ」

「そうなんすかね? でも、俺、金持ってねえんすよ」

 老婆はくすぐったそうに笑い、

「貸してあげるよ。もし気に入ったなら、買っておくれ」

「え、でも……」

「いいんだよ。本を好きになってくれる子が増えたほうが、わたしにとってはありがたいんでねえ」

 そんなんでいいのかよ? やっぱ趣味でやってる店なんだな。

 無料でお試しが当たり前の時代なんだ。本屋もこうした戦略を打つ必要があるのかもしれない。お試しがあるなら、こっちもありがたく試させてもらうし。

 婆さんから借りた本を学校カバンにおさめ、俺は店を出た。


 閑静な住宅地にあるマンションの七階。

 帰宅すると、母さんがキッチンで夕飯の支度をやっていた。

「ただいま」

「おかえり」

 母さんの後ろ姿が答えた。

「今日はどうだった」

「ああ、うん、まあ普通」

「そう」

 母さんの後ろ姿が答えた。

「晩御飯、もう少しでできるからね」

「ああ、うん」

 その日の夕飯はカレーだった。

 母さんとテーブルを囲んで夕飯を平らげる間、母さんは決まった構文のような話をしていた。俺の顔を見ることはない。もうずっとない。

 母さんはまだ俺の存在を受け止め切れていないのだ。子供は自分の分身であって、子が女である限り、自分はずっと続いていく。だけど、男は子を産めない。我が子が男であった場合、当然ながら血脈はそこで途切れる。自分も、命も、途切れるのだ。 その意味では、俺は母さんを殺す者だ。

 母さんが未だ俺を受け止められないのも無理はない。

 そして俺もまた自分を受け止め切れていないんだろう。

 どうして俺だけまわりと違って生まれてしまったのか?

 自分の部屋に戻って、ごろんとベッドの上に寝転がる。宿題があったような気もするけれど、やってもやらなくても変わんねえな。学校の教育なんざ、敷かれたレールに沿って生きていける奴向けのシステムなんだから。生まれたときからはぐれ者だった俺には関係ねえ。

 ふと思い出して、学校カバンを開け、古本屋で借りた本を取り出す。

 今時、こんな分厚い本を読む奴なんざいねえよ。みんな、SNSとか動画とかで手軽に暇を潰すに決まってるんだからよ。

 そんなふうにぼんやり思いながら、本を開き、そこに書かれてある文字を目で追いかけ始めていた。


 翌日、俺は古本屋に本を返しに行った。

 婆さんは俺に気づくと、嬉しそうににこりとした。

「おや、昨日の。どうしたんだい?」

「借りた本を返しに来たんだ」

「読まなかったのかい?」

 婆さんは悲しそうな顔をした。

「いや、最後まで読んだよ」

「おや、そうなのかい? たった一晩で読んでしまったのかい?」

 婆さんは驚いて目を丸くした。

 表情豊かな婆さんだな。

「どうだった? 面白かったかい?」

「う~ん、そうだな。思ったよりずっと面白かったな。だけど……」

「だけど何だい?」

 俺は少し考えた。どう言い表したらいいんだろう?

「そうだな……。たぶん、俺は物語が得意じゃないんだよ」

「得意じゃない? ふふ、面白い言い方をするねえ?」

「そうなのかな?」

「どう得意じゃないんだい?」

「う~ん、本に書かれているところとは別のところが気になるっていうか。婆さんはこの物語を竜の成長を描いたものだって説明したろ? だけど、実際に描かれていたのは勇者が竜を打ち倒す物語だ」

「そうだったかもしれないねえ」

「でも、俺が感情移入したのは竜なんだよ。竜から見たらこの物語はどうなっていたんだろうか、あるいは、竜が勇者に勝っていたら世界はどうなっていたんだろうかとかさ、そっちのほうが気になったんだよな」

 婆さんはとても嬉しそうに笑った。

「本来、物語はそういうところを楽しむものなんじゃないかねえ。お前さんは物語に向いているよ」

「そうかい?」

「物語はすべてを書かないし書けない。世界の一部を切り取ることでしか成立しないからねえ」

「だから、嫌なんだよ。運命が最初から決まっているみたいでさ」

「書かれなかった物語は書かれた物語よりよっぽど多い。埋もれてしまった物語を読んでみたい。あるいはこれから語られるはずの物語を読んでみたい。わたしもそう思うよ」

 なんだか、ずっと昔、そんなことを言っていた奴がいた気がする。

 とても近くにいた気がするんだ。

 あれは誰だったのだろう?

 俺は頭を軽く振り、婆さんに向き直った。

「悪いけれど、やっぱりこの本は返すよ」

「いいんだよ。この物語はあんたのものだ。取っておきなよ」

「いや、だけど……」

「もしこれがきっかけであんたが自分の物語を歩んでくれるなら、わたしはそれが何よりうれしい」

 老婆はにっこりと微笑んだ。

 大きな口を弓なりにする笑い方が懐かしかった。

 絶対にどこかで出会っているのだ。

 俺はふとその名を口にする。

 まったく知りもしない名前だ。

「……ラフィアーレ?」

 老婆はうなずき、俺と彼女の間にあった本が勢いよく開き、そこから世界を真っ白に塗り替える鮮烈な光が迸った。


     2


「……ラグ……ラグ?」

 ラフィアーレが呼ぶ声が聞こえ、ラグナドはようやくにも目を覚ました。

「目が覚めた、ラグ?」

 声は背中から聞こえた。

 背後に目をやると、ラフィアーレとナクティスが背に跨っている。

 いつの間にか、ラグナドは竜に化身していた。紅の翼が宙を打っている。

 無意識のまま、飛んでいたらしい。

「どうして俺は……? それにここは……?」

 無意識で飛行していたのも不可解だが、それ以上に謎めいた空間を飛行している。

 途方もなく巨大な虚のような空間だった。上下左右、どこを見渡しても漆黒のオーロラのような波が立ち、そこにびっしりと古代文字が浮かび上がっている。方向感覚も狂いそうな、あるいは方向の概念さえも存在しないような空間を不確かに揺らぐ古代文字が埋め尽くし、今にもぼろぼろと零れ落ちてきそうだ。まるで蟻にでもなって果てしない本の上を歩き回っている気分。

「覚えてる? わたしたちは『物語の果てる場所』へ飛び込んだんだよ」

 ラグナドは記憶の糸を手繰った。

 そう、最果ての地、光の柱の立つところに辿り着いたのだ。世界から情報が吸い出されているというが、途方もなく巨大な光の奔流が天に向かって伸びていた。

 この光の柱がどのように存在しているのかさえ皆目見当がつかない。どのようにその中に入るのかさえも。

 必要だったのは、魔法鍵だ。ラフィアーレが一言呪文を唱えると、光の壁の最中に不確かに揺らぐ入り口が開いた。

 三人はそこから「物語の果てる場所」へ飛び来んだのだ。

「それから先がよく思い出せない。妙な夢を見ていたような気がするが……」

「同じだ。余もおかしな夢を見ていた。あれは何だったのか……」

 ナクティスが眉根を寄せる。

「あり得たかもしれない世界での出来事を見ていたんだよ。あわよくば、二人を永遠にそこに閉じ込めておこうと。だけど、二人はわたしを思い出してくれた。これってすごい奇跡だよ。ありがとうね、ラグ、ナク」

「だいぶ危なかったけどな」

 ラグナドは長い首を回して、周囲の空間を見晴らす。

「しかし目覚めた先の方がよっぽど悪夢のような世界なのは如何なものなのかね?」

「まったく。ここがオルテリア? 次元を超えた世界なのか?」

 ナクティスが問う。ここに至っても知的好奇心を失っていない様子だった。

「壁面にはあらゆる物語、あらゆる事象が記されている。ジハラはここで自分の理念に見合った物語を選別し、他の物語を消し去っている。そうやって歴史と宇宙を調整している」

「まったく途方もない話だが……魔法の原理を探求している身としては興味深い」

「だけどよ? そんなに強大な力を持つ奴だぜ、ここの言葉をいじくって俺たちを即座に消し去るなんてこともできるんじゃねえのか?」

 ラグナドの疑問はもっともだった。

 ここは不条理に満ち満ちた世界なのだから。

「二人は存在特異点だからねえ。ジハラの必要とする物語にも、倒されるべき者たちとしてあなたたちは存在している。だから、二人の存在そのものを好き勝手に消去することはできない。少なくともわたしたちが守ろうとしている世界の終わりまでは」

「つまり世界と一緒くたに我らを滅ぼそうとしているわけだな? それでどうするのだ? どうすればジハラに打ち勝てる?」

 ナクティスがたずねたときだった。

 紅蓮の竜を狙って四方八方から無数の光線が放たれた。

 雄々しき竜は旋回し光線を躱すが、無限に放たれる攻撃を躱し続けるのは至難の業。

 高熱の光が竜の翼を、鱗を掠め、ジュっと灼けつくような音があった。

「ラグ、大丈夫?」

「俺は竜の王だぜ? この程度で墜ちるかよ!」

 防戦一方で黙っている竜王ではない。

 喉を鳴らし、壁に炎を吹き付ける。

 だが、幻影を相手にしているように手応えがない。

 そのくせ、四方八方から放たれる攻撃は確かだ。ラグナドの翼は、皮膚は、無数の光を浴びて焼け爛れていた。

「どうするよ? さすがにこのままだとヤバいぜ!」

「試してみるか」

 ナクティスが月影を抜く。その刀身にエナンシアの文字が浮かび上がった。

 気合とともに刀を振るう。

 魔法を伴う衝撃波が波を切り裂いた。その裂かれた空間からはぶわっとヘドロのような黒い膿が溢れ出す。

「物理は無効でも、魔法はそうでもない」

 魔法もまた異なる次元の力。同じ次元による力ならば、効果はあるということ。

 ナクティスは一太刀、さらにもう一太刀と空間を切り裂いていくが、宇宙のように広大な空間において、それがどれほどのダメージになっているのか未知数だ。

 その上、攻撃を浴びせるほどに、向こうの攻撃も熾烈さを増す。

「このままじゃジリ貧だぜ、どうするよ?」

「そもそもジハラはどこにいるのだ?」

「この空間そのものがジハラともいえる」

 ラフィアーレが答える。

「どういうこった?」

「ジハラは運命の観測者だからね。ジハラの観測に伴い、空間の中の言葉はいかようにも変化する」

「我らは神の掌の上で飛び回っているに過ぎんというわけか」

「わたしがジハラと同等の力を取り戻せたらよいのだけど……」

「無理なのか?」

「できると思ってた。二人と出会い、ここまで来たから。存在特異点である二人がわたしの力を、存在を、より強固なものとしてくれるはずだった」

「はずだったとは?」

 ナクティスが刀を振るった。

「ジハラの高みに届かないんだ。思ったより、ジハラは力を付けていた。あるいはわたしたちの世界が力を失い過ぎてしまったのかもしれない」

「よくわからねえが、八方ふさがりってわけか?」

「解読速度を速めて、ジハラを炙り出してみる」

「集中してやれよ!」

 ラグナドの翼が宙を打つ。

 ぐんぐん上昇し網の目のように走る光線の中を駆け抜ける。

 ラフィアーレがやっているのは、いわば魔法が発動する前にその発動を食い止めるようなもの。その甲斐あってか、空間を埋める文字がところどころ消失し、光線がやむ。だが、それが限界とも言えた。

 漆黒の波に文字が寄り集まり、魔法陣を形成した。

 そこからぼろぼろと蛆が湧くように魔物がこぼれてくる。

 魔物の中にはいくらか羽根を持つ種族もあったが、大抵はそうではない。奈落の底に落ちていくしかないのではないか。

 だが、そうはならなかった。いつの間にか、大地が生じていた。

 着地したラグナドたちを魔物たちがぞろぞろと取り囲んだ。

 中には、かつての英雄、あるいは神々であった者たちも含まれているだろう。

「飛び回っているよりはやりやすかろうよ」

「だな!」

 ラグナドは紅蓮の炎を吐いて魔物たちを焼き尽くす。

 ナクティスの太刀はその一振りで無数の敵を薙ぎ払う。

 さすがは一つの物語の終局を飾る猛者たちである。彼らの世界とその時代において、彼らに打ち勝てる者など、ほとんど存在しなかった。そのことを見せつける圧倒的な強さだった。

 だが、あまりにも多勢に無勢。

 言葉から生み出される意思無き魔物たちは、わらわらと絶えることなく涌いてくる。それこそ無限に涌いてくるのだ。

 さすがの英雄二人も疲れが隠せない。

「どうにかならねえか、ラフィ?」

「まだ足りない……もう少し……」

 傍からはどのような攻防がラフィアーレとジハラとの間に成されているのかはわからない。ただ、空間の至るところで組み替えられていく文字が、言葉が、魔法陣が、二人の戦いの激しさを物語るようでもあった。

 そして、やはりラフィアーレの分が悪いのだ。

 魔物たちの生じるペースが加速する。

 状況は最悪に思えた。ラグナドとナクティスの二人だけでは凌ぎ切る余力が残っていなかった。わらわらと魔物の群れが二人を取り囲んでいく……。

「情けないぞ、魔王。たかが影に後れを取るつもりか!」

 天より声が響いた刹那、凄まじい一閃に魔物たちの群れが割れた。

 純白の両翼をはためかせる天使に連れられ、ラグナドたちの前に降り立った勇者の紺色のマントが翻る。

「ゼノス! 何でてめえが?」

「世界を救うは、勇者の定め」

 ゼノスは剣を構えた。

 ナクティスは上空を見上げ、問う。

「天使が唯一絶対の神に叛逆しようというのか?」

「愛は信仰を超越します。ナクティス様、あなたへの愛が、わたしを真実へと導くのです」

 ヤーレは恍惚の表情を浮かべる。

 ナクティスはうんざりしたようだった。

「その表情はあまりにもつれない。あなたを生かすも殺すも、わたしの愛でなければならないというのに?」

「愛ではないが、その通りだ。魔王よ、貴様を殺すのは僕でなくてはならない。こんなどこに存在しているのかもわからぬような亡霊ではない!」

 勇者の剣が次々と魔物を葬っていく。

 天を統べるような天使の翼に生じる魔法陣から放たれた無数の光が敵を打ち滅ぼす。

 この世界において、唯一ラグナド、ナクティスに匹敵し得る力を持つ二人が、状況を覆そうとしていた。いや、覆ると信じて、畳みかけるしかない。

 ラグナドは首を大きく回して炎を噴き散らし、魔物たちを火の海に沈めた。

 ナクティスの月影は静かに敵を屠る。

千の英雄、千の神々が無に還る。

 だが、それでもようやく魔物が涌いて出るペースと釣り合いが取れるという程度でしかない。

「女神ラフィアーレ! 僕らもまた存在特異点のはずだ! 僕らもまたあなたの存在を確かなものとするのではないか!」

 ゼノスが訴えた。

「へっ、いいのかよ? 勇者ともあろう者が邪神に加担してよ?」

 と、ラグナド。

 だが、今のゼノスに迷いはない。

「僕たちが見たかった世界は、魔王を倒して平和になった後の世界だ! 僕たちの物語もまだ終わっちゃいないんだ! 続いていかなければならないんだ!」

「そうですわ。ナクティス様とわたしが共に築いてゆく世もこれから始まるのですから」

「断じて断る」

「あら、つれない」

 ヤーレはくすりと微笑む。

「ありがとう、二人とも」

 ラフィアーレは祈るように目蓋を閉ざした。

 そしてその目蓋が開かれたとき、彼女の瞳には希望の光が燃え立っていた。

「勇者ゼノス、救世主ヤーレ。二人の存在をわたしに繋がせてもらったよ。今こそわたしは物語を司る神としての力を取り戻すことができる!」

 その言葉に偽りはなかった。

 空間中の言葉と文字は書き換えられていく。

 空間中に浮かび上がっていた魔法陣が次々に決壊し、まるでいっせいにガラスが砕け散ったかのように剥落していく。同時に、操られていただけの哀れな魔物の群れは断末魔の一つあげることもなく煙のように消えた。

「もはやお前の隠れ蓑となる言葉はない! 姿を現せ、ジハラ!」

 空間がぐにゃりと歪んだ。

 それに伴い、地面が波打つように不安定になった。

 足場を喪失したゼノスは竜の背に拾われ、ナクティスは天使の手に掴まった。

 環境の影響を受けずにいられるのは、ラフィアーレと……。

 空間のゆがみとうねりから、途方もなく巨大な人の影が生じた。竜の巨体が羽虫に見えるほどの巨躯である。

 巨人は空間と同一であったのだろう。その全身にはびっしりと古代文字と魔法陣が浮かび上がり、それらが絶えず揺らぎながら体中を流れていた。顔はなかったが、両眼には瞳のような魔法陣が開いていた。まるで万物を吸い込む虚のようでもある。

「あなたはまだ言葉の中に隠れているつもり?」

『……ラフィアーレ……帰れ……これ以上、立ち入るな……』

 地の底から湧き上がってくるマグマのような声だった。深い憤りを感じる。

 巨人は大きく腕を振るった。

 そうして巻き起こる風が竜をも簡単に吹き飛ばしてしまう。

「ちっ、厄介な! しっかり掴まっていろよ、ゼノス! 吹き飛ばされんようにな!」

「貴様こそ、蠅みたくみじめに叩き潰されんように注意するんだな!」

 ラグナドは気を吐き、大きく旋回する。

「わたしたちも行きますわ。ナクティス様、しっかり掴まっていてくださいまし!……ふふ、永遠に掴まっていてもよろしくてよ?」

「全力で御免こうむる」

「あら、つれない」

 竜の吐く炎が、勇者の剣が、皇帝と天使の間断ない魔法が攻め立てるも、どれほどのダメージがあるのか? 直撃した部分がぼろぼろと崩れてゆくも、虫刺されほどにも感じていないかもしれない。

『わからぬ……お前たちは何故滅びゆく世界に執着する……? 解せぬ……解せぬ……』

 巨人の首が天を向いた。

 口の部分にぽっかりと虚が開く。

 その奥に光が兆したかと思った瞬間――

 途方もないエネルギーが放たれ、天に昇った。

 それは天の頂で四散し、雨のように降り注いだ。

 すべてを滅する終末の光だった。

 空間が真っ白に塗り替えられていく。

 光が去った後、闇が戻った。

『……何故だ?』

 もしラフィアーレがバリアを張っていなければ、すべては滅していただろう。

「わたしは憧れていたんだよ。世界を外から眺めているばかりだった。それですべてを知ったような気になっていたけれど。世界の肌触りが好きだった。ラグとナクと旅をするのが楽しかった。見るもの、触れるものが愛おしかった。たとえ滅びに瀕していても、わたしはこの世界が好きなんだよ」

 緊迫した状況とは感じさせない、快活な笑顔でラフィアーレは言った。

『……認めぬ……認められぬ……』

 巨人は両腕を振り回した。まるで駄々っ子がそうするように。

「ラフィアーレ、どうしたら奴を倒せる?」

 ナクティスが尋ねた。

「一瞬だけジハラに流れている言葉を止めるよ。その瞬間にありったけの攻撃をして」

「ミスったら二度目はねえって感じだな?」とラグナド。

「うん。解析手順がバレちゃうからね。二度は使えない手だ」

「了解、一度ありゃ十分だぜ! なあ、みんな?」

「貴様に云われるまでもない」

「わたしたちが息ぴったりなところ、御覧にいれましょう。ねえ、ナクティス様?」

「……やるしかなかろう。不本意だがな」

「行くぜ!」

 ラグナドは注意を惹きつけるように巨人のまわりを飛ぶ。

 鬱陶しく思ったのか、巨人の全身から棘のような光線が放たれた。

 一旦は逃げ回るしかない。

 それにしても、巨人のエネルギーは無尽蔵かと思えるほどだ。

 万物の摂理に無限のエネルギーなど存在しないはずだが、ジハラは条理を覆す力を持っている。

 なんとか時間を稼がなければ……。

 巨人は再び天を仰いだ。

 再び終末の光を放とうというのだ。

 喉の奥に光が滾った。

 そのときだった。

「みんな、今だよ!」

 ラフィアーレの声が走った。

 巨人の喉に滾っていた光は沈み、全身を絶え間なく流れていた文字と魔法陣は止まった。

 動揺か、焦りか、巨人は大地のひずみのような音を上げた。

 天使の翼から放たれる無数の光弾が、巨人の全身に爆発を生んだ。

 明らかに効いている。巨人の身体が砂のようにぼろぼろ崩れていくのだ。

 勇者は竜の背から大きく飛び、勢いそのままに巨人の右腕を斬り飛ばした。

 巨人は頭部の駆動だけに意識を集中し出した。停止していた喉の奥の光が蘇る。

「させるかよ!」

 ラグナドの吐いた巨大な火の玉が頭部に命中した。

 みずからが放とうとしていた光と相俟って、大きな爆発が生じた。

 その噴煙に紛れるようにナクティスが降り、月影による静かな一太刀が巨人の首を刎ね落としていた。

「まだまだまだっ!」

 ラグナドが容赦なく炎弾を吐き続けた。精も根も尽き果てるまで吐き続けたのだ。

 空間を覆い尽くす煙が去り……

 巨人はもはや人の形を留めていなかった。

 胸部から上を欠いた残骸のような姿で宙を漂っていた。

 物理法則が書き換わったのか、地面が再び生じ、ずううんと巨人は膝を折った姿勢で地に墜ちた。

 巨人が動き出す気配はない。

「やったか?」

 ナクティスが問う。

 ラフィアーレは首を横に振った。

「まだだよ。派手にやられて修復が追い付いていないだけ。このままだとまたすぐに復活する。それに、ジハラを倒しても、この世界の消失が防げるわけじゃないからね」

「どういうことだ? それでは我らがやってきたことはすべてが無駄だったのか?」

 ナクティスの声が鋭くなった。

 ラフィアーレは再び首を横に振った。

「ううん、無駄じゃない。無駄にしてはいけない。世界を滅びから救う方法はあるんだよ」

「どうすりゃいいんだ?」

 ラグナドが人の姿に戻っていた。激しく息を切らしていた。人の姿でいるほうがエネルギー消費が少ないらしい。

 ラフィアーレはみんなを振り返り、微笑んだ。

「わたしは神だよ? とってもえらい神様なんだよ?」

「ああ? こんなときに偉いやつ自慢かよ?」

 ラグナドが眉根を寄せる。

「ねえ、ナク。どうして神様が一柱二柱……と数えられるのか、知ってる?」

「何を言っている?」

「その言葉通りなんだよ。神様は柱なんだよ。世界を支えるための柱」

「何を言っているんだ?」

 聡いナクティスは察したのかもしれない。口調がきつくなった。

「軸と言ったほうがわかりやすいかもね。その世界において安定性を図るための基準となる軸。神が軸となって機能するから世界は安定し実在性が担保される。それが神と世界の関係性なんだよ。あらゆる神話において、ね」

「話が見えないんだが?」

 ラグナドが口を挟んだ。

 答えたのは、ナクティスだった。

「簡単に言えば、人柱だ。人柱を立てるから秩序が回復する。それを神のスケールでやろうというのだ」

「ああ? 人柱だと? 人柱は供物だ! 生贄になるってことだぞ!」

 ラグナドが吠えた。

 竜として生きているからには、何度も人柱に遭遇してきた。人を柱とするのは、か弱き人の残酷な祈りだ。その重みもよくわかっている。

「あの野郎をこのまま倒しちまえばいいんだ! ラフィが犠牲になることはねえ!」

 ラグナドがそう息巻いたが……。

 ラフィアーレは首を横に振る。

「いいんだ。この世界を守るために、軸たる柱として立つ。それは神たる者に与えられた務めだからね」

「納得いかねえよ!」

「そうしなくちゃ、世界の消失は防げないんだよ」

「お前は! そのために……ここまで俺たちを連れてきたってのか?」

 ラグナドの声が怒りに震えた。

「ごめんね。そうする以外になかったんだよ」

「バカ野郎、今さら謝られたところで……」

「ラグと同じだよ。ラグが竜としての務めを果たすように、わたしも神様としての務めを果たすだけだ」

「……お前はこの世界が好きだったんじゃねえのかよ?」

「好きだよ。だから、この世界の物語を途絶えさせたくないんだ。もっとみんなの物語を見ていたいんだよ」

「お前自身の物語はどうなんだよ? この先にあるはずのお前の物語はよ……?」

 ナクティスがラグナドの肩を掴んで、首を左右に振った。

 ラフィアーレに任せるしかないのだと告げるように。

 それに悠長に話し合っている余裕もなさそうだった。

 巨人が再び動き始めようとしていた。

 砕かれた胸部に明滅する光がある。

「ジハラと決着を付けなくちゃ。ラグ、わたしをあの光まで連れて行ってくれる? あの殻はラグでないと突破できない」

「あ、ああ……だけどよ」

 ラグナドはまだ納得いっていない。

 ラフィアーレはにこりとして言うのだ。

「わたしは邪神だからね。みんなの希望には添えないんだよ」

「……馬鹿野郎!」

 ラグナドは竜に化身した。

「行くぞ! 我らの務めを果たさんがために!」

 竜の王らしい威厳に満ちた声で告げた。

 ラフィアーレが背に跨ると、赤金色の竜は大きく翼を打って宙に舞い上がった。

 巨人の再生が始まっている。言葉が寄り集まって、新しい体を形作ろうとしていた。

 胸部の光の漏れているところが核なのか。

「しっかり掴まっていろ!」

「うん!」

 竜は一筋の赤い閃光となって駆け下る。

 巨人の核は新たな文字の外殻によって覆い隠されようとしていた。

 だが、全身全霊の力でもって宙を打つ竜の特攻は防ぎきれるものではなかった。

 竜は核に突っ込んだ。

 竜の体が半ば外殻に……巨人の胸に埋もれていた。

 頭から突っ込んだせいか、ラグナドは気を失っていたようだ。

 ずるりとずり落ち、そのまま地に落下した。

 ずうんと地に沈んだラグナドのもとにナクティスたちが駆け寄ってきた。

「しっかりしろ、ラグナド」

 ナクティスが人の姿に戻っていたラグナドの頬を容赦なくひっぱたいた。

 おかげでラグナドはすぐに目を覚ました。

「……ラフィは?」

 彼らの視線が上を仰いだ。

 ラグナドが突っ込んで洞穴のようになったところにラフィアーレが立っていた。

 ラフィアーレは満面の笑顔で手を振った。

「ありがとう。あなたたちと過ごした物語はとても幸せだったよ」

 それがラグナドとナクティスの見たラフィアーレの最後の姿だった。


     3


 穴の奥に進むと、巨大なクリスタルが青白く輝いていた。

 これもまたまやかし。次元を超えるための装置に過ぎない。

 ラフィアーレはクリスタルに手を触れた。

 すると、クリスタルの表面に波紋が立った。

 この向こうに彼はいる――。

 ラフィアーレはクリスタルの中に溶け込んでいった。


     〇


 どこまでも透明な世界だった。

 ぽこぽこと泡が浮かび、水中のようにも感じられた。泡は弾け、そこから渦巻きや五芒星、三角や円、あるいは三日月――様々なシンボルが生じていた。それらのシンボルは流れ星のように彼方へ飛んでゆき、ときには互いにぶつかりあって、異なるシンボルを生み出していた。ここは文字や言葉が生まれる前の場所なのかもしれない。

「どうして戻って来たんだ?」

 巨大な影がラフィアーレに覆いかぶさろうとした。

 虚仮に過ぎなかった。

 ラフィアーレが一言呟くと、影は消し飛んでしまった。

 その向こうには、少年がこちらに背を向けて膝を抱え込んでいた。

 ラフィアーレと同い年ぐらいに見える少年。

「たくさんの世界が壊れたんだ」

 少年は独り言のように言った。

「僕が正しい方向へ導いてやらないと、世界はすぐ壊れちゃうんだよ。いくつも、いくつも、際限なく壊れちゃうんだ……。それはとっても悲しいことだ……」

「自分の物語が欲しいんだね」

「それはいけないことかい?」

「ううん、ちっとも。わたしだってそうだ。だけど、他の物語があってもいい」

「それは壊れちゃうかもしれないんだよ?」

「そうだとしても」

「僕はもう世界が壊れるところを見たくないんだよ。これっきりにしたいんだ。これっきりにして……もう二度と壊れない世界だけを見ていたいんだ」

 同じ務めを担う神である身として、その気持ちはよくわかった。

 みずからが観測した世界が壊れゆくのを見るのは忍びない。

 大好きだった物語が終わってしまう余韻……それに勝る物悲しさがある。

「君の守ろうとしている世界だってそうだ。極めて不完全な世界だ」

「不完全でもいいじゃない。たとえ不完全な世界だったとしても、そこで生きている人たちがいる。たくさんの新しい物語が生まれてくる」

「その中には悲しい物語だってあるんだよ?」

「仕方ない」

「神様が仕方ないで済ませるのかい?」

「神様でもどうしようもないこともあるんだよ」

「そんなの無責任じゃないか! 僕はもう悲しい物語を見たくないんだよ!」

 少年は泣き叫ぶように言った。

「わかるよ。わたしだってそうだ。なるべくなら悲しい物語は見たくない。だけど、可能性を閉ざしたくないんだよ。すでに書かれている言葉だけで世界を終わらせたくない。わたしは新たに生まれてくるまっさらな物語に出会いたいんだよ」

「そのために悲しい物語を許容するのかい?」

「その分、ハッピーエンドだって生まれてくるよ?」

「……やっぱり君は邪神だね。誰よりもわがままだ」

「そうなのかもね」

 ラフィアーレは微笑み、少年に手を差し伸べた。

「さあ、行こうよ」

 少年は涙をぬぐい、小さくうなずいた。

 そして、運命と物語を司る少女と少年は手を取り合った。

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