第7話 トワの地の記憶


     1


 エノス地方を越えると、そこは不毛の大地だ。

 日照時間はますます短く、凍てつきは厳しい。少数の遊牧民族を除いて人は住まない。

 なぜこのような地にトワは築かれたのか。かつてこの地が温暖であったとする説がある。急激な気候変動によってトワは滅びたと示唆する伝承も残っている。

 いずれにしても見捨てられた大地であることは変わりない。

「さ、寒い……帰ろう」

 防寒着の襟を命綱のように手繰り寄せ、ラフィアーレは弱音を吐いた。

「おいおい、神様だなんだといっても人間と変わらねえのか?」

 ラグナドは竜である。寒さをものともしない。いつも通りの薄着で意気揚々と先頭を進む。

 枯れ木に寄りかかり、ナクティスが息絶えようとしていた。

「てめえ、しっかりしやがれ! こんなところで行き倒れるつもりか、悪逆皇帝!」

「……エルフは貴様と違ってデリケートだ。暑さに弱く、また寒さに弱い……」

「その虚弱体質でよく五百年も帝国を統治できたな!」

「……皇居の外に出なければ問題なかった」

「引きこもり皇帝が!」

 九死に一生を得る。自然に湧き出る温泉があった。

 極寒の地でつかる温泉は格別だった。まさに生命泉。くすんだ緑の湯面からもうもうと湯気が立ち、硫黄の匂いがした。水温は熱かったが、芯から冷え切った体にはむしろ心地よい。

「いやあ、生き返るねえ!」

「天の恵みか……」

「滅びの地 湧いて出る湯は 不滅なり」

「下手な句はよせ。興が殺がれる」

「下手じゃねえし!」

 二人と離れたところでラフィアーレは湯につかっている。

「下手な句を詠んでもいいけれど、こっちに来ないでよね」

「下手じゃねえっつってんだろ! 大体な、俺は高貴なる竜だぞ? 人風情の裸体に劣情を催すかよ」

「同じく。子供の裸身に関心を寄せることはないから安心しろ」

「誰が子供だよ。わたしは着痩せするタイプだ。おっぱいは大きい」

「ほう、どれどれ、見せてみ?」

「こっち来るな!」

 近寄ろうとするラグナドに石が投げられた。

「なんだよー。大体、神様が人並に恥ずかしがるもんかね? 神様の像なんて割ともろ出しが基本だよな?」

「まったくうるさい奴らだ。静かに湯につかれんのか。人生の喜びは、こうしたささやかな瞬間にこそ宿るというのに」

「また小難しいこと言いやがって」

「まあ、一理あるけどね」

 三人は夜空を見上げる。世界が滅びに瀕しているとはとても思えない満点の夜空が広がっていた。特に冬の大三角は冴え冴えと輝いている。ラフィアーレの話が正しいとするなら、星の輝きが一つ、また一つと失われていっているらしいが、この無限の星空を消し飛ばすことはおよそ不可能なように思える。

「お前たちと出会ってなくちゃ、時間と空間がごちゃまぜになっているなんて信じられねえところだぜ。まあ、今でも半ば信じられない気持ちはあるんだけどよ」

「普通はそうだよね。納得できることじゃない」

「トワの地へ行けば、その謎は解けるのだな?」

 ナクティスが問う。

「たぶんね。そこにはわたしの記憶が眠っていると思うから」

「記憶なんざ思い出さないほうがいいかもしれねえぜ? 人はいつだってそいつに捉われて苦しむもんだ」

「ほう、めずらしく哲学的だな?」

「俺たち竜は本能に従い、人は記憶に従う。馬鹿げていると思うのさ、記憶に捉われて争い続ける人をうんざりするほど見てきたからな」

「言い返す言葉もないな」

 ナクティスは五百年分の溜息をついた。

「だけど、記憶は物語を紡いでいくよ。わたしはそれを否定したくはないかな」

「我々にとっては歓迎したくない物語だっただろうがな」

「ちげえねえ」

 かたや悪しき独裁者として討たれた物語。かたや魔王として討たれた物語。

 当の本人たちは認めたくない物語になるだろう。

「別にいいじゃない」

 ラフィアーレは軽やかに笑む。

「それこそ記憶に捉われているってことだよ。二人の、ううん、わたしたちの物語は今ここにあるんだもの。わたしは二人と旅をしているの、楽しいよ」

「そりゃそうか。過去の自分なんて関係ねえや」

「過去の連続性の末に己という現象が存在しているともいえるが」

「今この瞬間が大事なんだよ」

 ラフィアーレは無邪気だった。

 だが、その言葉に異を唱えるつもりは二人にはない。

「この世界が終わっちまうのを、防げるんだよな?」

 ラグナドは星空を仰いで、誰に問うわけでもなく問いかけた。

「きっと大丈夫さ。そのためにわたしたちは巡り合ったんだ。わたしはそう信じているんだよ」

 二人はうなずいた。

 ラフィアーレの言葉には、いつだって信じたくなる力が備わっていた。

「そういや、もう少し北に行くとオーロラが見えるんだよな」

「オーロラ! いいねえ、見に行こうよ!」

「いいのか? そんな寄り道していて」

「旅は寄り道というからね」

「やれやれ」


     2


 トワの地は見棄てられた都だ。古代エナンシア人が築いたとされる都市は数千年前に滅び、以来、誰も住まない。

 当時のまま取り残された石造りの街並みは灰色の雪をかぶっている。静かに雪景色と時の中に埋没していくようだ。

 しかし妙だった。トワの都が数千年前に滅んだのは確かである。それなのに、風化するわけでも崩れ去るわけでもなく、おそらくは当時のままに街並みが保たれている。左右非対称な流線形の建物が並び立ち、今にも崩落しそうな高く細長い塔もあちこちに建っている。どこの文化圏にも見られない奇妙な建築様式だ。今にもそこの路地から人が出てきそうな、生々しささえとどめている。

「古代エナンシア人は不老長寿を持っていたと云われるがな」

「こんだけちゃんと街が残っているなら、誰かしら移住しそうなもんだが」

「この辺りでは作物が育たん。それに、人が消えるという」

「人が消えるってどういうこった?」

「その通りの意味だ。過去、何度も探検家がこの都を訪れたが、帰ってくるものはなかった」

「根も葉もない噂だろ?」

「そうとも断言できん。余が皇帝であった頃、調査隊をこの都に送り込んだが、彼らもまた消息を絶った」

「エナンシアの民は生きているんだよ」

 都に入ってから無言だったラフィアーレが口を開いた。

「どういうこった?」

「すぐにわかると思うよ。人が消えてしまう意味も」

 目抜き通りをまっすぐに進み、広場に至る。

 その中央には、女神の大理石像が鎮座していた。

 どこか儚げな雰囲気の漂う美しき女神像。膝に巻物を広げ、その端が足元に流れている。聡明そうな眼差しは巻物に注がれているわけではなく、あらぬ虚空を見つめていた。

「この像はお前なのか、ラフィアーレ?」

 ナクティスの問いかけに、ラフィアーレはうなずく。

「ええ、そうか? それにしてはやけにグラマラスじゃね?」

 ラグナドは首を傾げる。

「わたしは本来このように大人っぽいのだよ」

 ラフィアーレが女神像の前に進み出たそのときだった。

 女神の顔がこちらを向いたかに思えた。

 目の錯覚だろうか?

 ラグナドは目をこすり、ナクティスは怪訝そうに眉根を寄せた。

 おそらく錯覚ではない。

 どういうわけか、女神像が虚空を睨みながらも、異国から訪れた三人を眺め下ろしてもいる。重ね合わさって見えるのだ。

 女神像がぼんやり鈍く光った。

 その瞬間、景色が一変する。

 厚い雪に覆われていたはずの街並みから灰色の色彩が取り払われ、真っ青な空の下、生き生きとした明るい色彩を取り戻す。四方八方から人の声が聞こえた。馴染みのない言葉だった。広場にはいつの間にか、多くの人々で賑わっていた。魔法陣のような不思議な模様が刺繍された古代の民族衣装を身に纏う人々。子供たちが楽しそうに追いかけっこやボール遊びをしているさまを、老人たちが目を細めて見守っていた。

 足元にコロコロと転がってきたボールをラフィアーレは拾い、駆け寄ってきた女の子に返してあげた。

「ありがとう、おねえちゃん」

 女の子はまじまじとラフィアーレの顔を見つめた後、にこりとした。

「おねえちゃん、女神さまに似ているわ」

 女の子が指さした女神像は、視線をこちらに向け、やわらかく微笑んでいた。

「ありがとう。あなたは女神さまが好き?」

「うん。女神さまがわたしたちを見守ってくださるから、わたしたちはいるんだって。母様はそういっていたわ」

「そう」

 女の子は友達のところへ駆けて行った。

「どういうことだ? 幻影とも思えんが」

 ナクティスが問う。

「そうね、幻ではない。だからといって、現実であるわけでもない」

「どういうこった? とんちかよ?」

 ラグナドが首を捻った。

「幻と現実の狭間なのよ。ここでは時間と記憶が永遠に閉じ込められている」

「理解が及ばん。そんなことはいかなる魔法を尽くしても不可能なはずだ」

「魔法の原理を知り尽くした人々には可能なんだよ」

「魔法の原理だと?」

「いかにエルフが魔法に長けていても、原理を極めたわけではないからね。それを極めた民はエナンシアの民だけなんだよ。そしてそれを漏らさぬよう、エナンシアの民は狭間の時間にみずからを隠した」

「狭間の時間?」

「異なる時空間と言えばわかりやすいかな。生きた時間を異空間に、廃墟と化した死の時間をこちらにとどめている。エナンシアの民にとってはね、時間という概念は物語のどこを読むかというようなものなんだよ。好きな時間に栞を挟んでとどめておける」

「そんなことが可能なのか? この現状を目の当たりにしては、認めざるを得ないが……」

 ナクティスの口調には悔しさのようなものがわずかに滲んでいた。エルフは魔法に長けた民であることに自負を抱いている。そのエルフでさえ解き得ない高みに達した古の民に対する羨望と妬みがある。

「難しいことはよくわかんねえがよ、俺たちどうするんだ?」

「墓所に向かおう。そこですべてがわかるはずだよ」

 ラフィアーレの口調は確信に満ちていたが、何より憂いが感じられた。


 墓所は都の中央に位置する。

 奇妙な黒い立方体だった。一点の角しか接地しておらず、宙に浮いているようにしか見えない。石とも金属とも異なるような質感。壁面には、古代文字がびっしりと刻まれている。それはエナンシア語のもとになった神代文字だ。ナクティスでさえ解読ができない。ゆえに好奇心を大いに刺激されるのだろう、ナクティスは我を忘れたように熱心にメモ帳に神代文字を書き写していた。

「おいおい、そんなことをしている場合じゃねえだろ。俺たちは学術研究のために遠路はるばるやって来たわけじゃねえんだからよ?」

「そうであっても、余はいささかも構わないが」

「ああ、そうかい。なら、暇な時間に好きなだけやってくれ。それより、こいつの中に入るんだろう? 見たところ、入り口がないんだが?」

 文字がびっしりと刻まれた正六面体の建造物には、たしかにそれらしい出入口が見当たらない。そもそもこれは建物なのかという疑念がわく。一辺七ペデス(約三メートル)ほどしかない。建物にしては、小さすぎるのではないか。不可思議なモニュメントにしか見えない。

「魔法鍵で扉が開く仕組みなんだよ」

 ラフィアーレは壁面に触れた。

 その触れたところから光が伝播し、壁面に刻まれた文字が正しい配列を組むように動き出した。それがおさまったとき、墓所の奥へと続く入り口がぽっかりと口を開いた。

「さあ、行こう」

 通路の壁面にもやはり文字がびっしりと刻まれていた。いや、浮かび上がっているというのが正しいのか。光の文字がまるで小魚のように壁面を泳ぎ回るよう。

「待てよ、この通路やけに長くないか? そんなにでかい建物じゃなかっただろ?」

「目に見えるものだけを信じちゃいけないよ?」

 ラフィアーレが得意気に説教する。

「余の知識にある魔法学や物理学ではもはや何の用もなさないな。時間が許すなら、何日でも留まっていたいところだが」

 ナクティスは驚きと好奇心を隠さない。

 広間に出た。

 そこには僧侶服と一体となった頭巾で顔を隠した数人の小男たちが列を成して待っていた。

 彼らは深々と首を垂れた。

「お帰りをお待ちしておりましたぞ、ラフィアーレ様」

「あなたたちはわたしを知っているの?」

 ラフィアーレが問うと、小男たちはみな同じように声を揃えて笑った。

「存じ上げておりますとも。私はようくあなたを存じ上げておりますよ、イヒヒ……」

「あなたたちは誰? わたしは誰?」

「私はあなたに仕えておる神官でございます。ラフィアーレ様、やはり記憶を失くされているようでございますな?」

「ええ。だから、わたしはわたしについて知りたい。そのためにここに来たのだもの」

「この墓所自体があなた様ご自身でございますがな、イヒヒ……」

「どういうこと?」

「それは言葉で説明するより、ご自身の記憶を呼び戻されたほうが早い。参りましょう、あなたの記憶の眠る場所へ」

 神官たちは綺麗に一列になって奥の扉へと進んでいった。

 後についていくしか選択肢はない。

 照明がなくとも、壁面に浮かび上がる言葉が瞬くので、暗くはなかった。

 言葉は気まぐれに瞬いているのか、あるいは進む道を示して瞬いているのか。

 いつの間にか神官は一人になっていたが、不思議とそれを妙に思うこともない。元より一人であったような気さえしてくる。

「あの光の柱について、あんたは何か知っているのか?」

 ラグナドが神官に聞いた。

「あの柱は、不要となった物語を無に還すためのもの。世界から記憶を吸い取っているがゆえに起こっておる光……」

「不要となった物語だと?」

 ナクティスが問う。

 神官は不気味に笑い、

「あらゆる時空間といったほうが、あなたがたにはまだしもわかりやすいかもしれませんな。本来、そこにはあらゆる可能性があったのです。御覧なさい、そこの壁を。空白でしょう? 柱のせいで言葉が失われてしまったのです。本来、そんなことはあり得ません。この墓所には新しい言葉と物語が次々と生まれておりますが、それさえも追いつかない。このままでは、世界はすっかり失われてしまうでしょうな、イヒヒ……」

「このお墓がわたしとはどういう意味なの?」

 ラフィアーレがたずねる。

「その言葉通りの意味にございます、ラフィアーレ様。もしくは失われた数多の物語の墓とも言えますな、イヒヒ……」

 神官のいうことはさっぱり要領を得ないが、ラフィアーレはそれとなく理解しているようである。

「さすがはラフィアーレ様でございます、数ある物語の中にあって、もっとも雄々しき竜の王と、偉大なる悲運の皇帝を伴い、戻って来られた。この二人なくして、ジハラに立ち向かうことはできますまい」

「ジハラだと? やはりこの忌まわしき事象のすべては、ジハラによって糸が引かれているのか?」とナクティス。

「ジハラは影に過ぎません。ジハラはこの世界におけるその者の表れ」

「誰だ、その者というのは?」

「名も無き古き神、ということになりましょうか。ラフィアーレ様と同じぐらいには古い」

「わたしはそんなおばあさんだったのか、トホホ……」

「年齢詐称にも程があるな」

「言ってくれたもうな、ラグよ。一番傷ついているのはわたしなんだよ」

 ラフィアーレは悲しそうである。

「心配召されるな、ラフィアーレ様。我らにとって時など意味を持ちませぬゆえ。イヒヒ……」

「そうだよね、時間なんてさ、人が勝手に作った概念だよね」

 ラフィアーレはいじけたふうに言う。

「ババアであることに変わりないだろ?」

「言ってくれたもうな、ラグよ。そなたは女を傷つけるために生まれてきたのかい?」

「ジハラの目的は何だ? 貴様は知っているのか?」

 ナクティスが神官を問い質す。

「ジハラは運命の管理者。その者の目的は運命の選別でございます。この世界はジハラの選別から漏れた物語が合わさったものにございますれば。悲しいかな、多くの物語はこうして棄てられ、無に還ろうとしている。選ばれるは一部の物語のみ。それはジハラの導きに従い、勇者ゼノスが魔王ラグナドを打ち倒す物語であり、救世主ヤーレがロムス帝国の支配から世を解放する物語。それ以外の物語はすべて一緒くたにされて消えようとしている。もったいない話でございます。中には、魔王ラグナドが勇者を返り討ちにする物語や、皇帝ナクティスが全土を統治する物語もあったかもしれませぬが……。それらの物語はあのお方には、お気に召さないらしい」

 神官は足を止め、振り向いた。

「さあ、着きましたぞ、ラフィアーレ様」

 辿り着いたのは球体の小部屋だった。丸いせいで安定感に乏しく、床、壁、天井の境も曖昧としない壁面には、例のごとく、古代文字がびっしりと浮かび上がっている。部屋の中央にはまるで閉じた書物のような石櫃が置かれていた。その石櫃には見慣れぬ魔法陣が刻まれている……。

「この部屋に記された言葉はすべてがあなたの記憶……いや、あなたご自身といって差し支えありません」

「どういうこった?」

 ラグナドはぽかんとしている。

「物質は情報の表れ。『外界(オルテリア)』とも呼ばれるこの世界の外側には、この世で起こり得るあらゆる事象が言葉で記録されております。我々の世界で起こる事象はその言葉が投影された虚像に過ぎませぬ」

「その理屈では、この世界は夢幻と変わらぬということになるが?」

 ナクティスが言う。

「さよう。しかし幻を幻と感じぬのなら、それは現実でありましょう、イヒヒ……」

「馬鹿げている」

「さようでございますかな? ナクティス殿、あなたはエルフであり、類稀なる魔法の力をお持ちのはずだ。その魔法の力はどこから来なさる?」

「……オルテリアからだと云われている」

「さようでございます。魔法の原理も変わりませぬ。いくらかでも外界に通じる素質を持った者だけが、言葉を書き換え、魔法を操ることができる。書き換えた言葉は、事象となって現れますゆえに」

 ナクティスは口を噤んだ。魔法を操る身ゆえ、神官の言葉に嘘がないとわかる。

「難しいことはわからねえが、どうしてここがラフィ自身ってことになるんだよ?」

「墓所は世界で唯一外界と通じておる場所なのですよ。異なる世界の言葉でいうと、エンタングルメント……つまり外界にある言葉がもつれあって墓所の壁面を埋めておるのです。つまり墓所に生まれる言葉は外界に記された真実なのです」

 神官はラフィアーレに向き直り、深々と一礼した。

「そして、私はあなたがお戻りくださるのを待ちわびていた。私はあなた様の記憶をここに隠し、保存しておりましたが、御覧の通り、墓所の言葉も徐々に失われております。危うくあなた様の記憶も浸食されるところでございました」

「わたしは何者なの?」

 ラフィアーレは問うた。

「それは石櫃に触れれば、わけもなくお判りいただけることでしょう。さあ、石櫃に触れてくだされ」

 疑うところがなかったわけではないだろう。ラフィアーレは躊躇いがちに、おずおずと石櫃に手を伸ばした。

 触れた指先から光が伝わった。

 ラフィアーレはしばらくうんともすんとも言わなかった。

「おい、大丈夫なのか、ラフィ?」

 ラグナドが心配になって声をかけた。

 ラフィアーレはゆっくりと振り向き、にこりと微笑み頷いた。

「すべてを思い出したのか、ラフィアーレ?」

「うん、思い出したよ。どうしてここにいるのかも、ね」

「どういうこった?」

「簡単に言うと、わたしはジハラと喧嘩して負けたんだよ。そしてこの世界に落とされた。その際にわたしは自分の記憶を分割して各地に散らばらせたんだ。記憶を辿っていけば、いずれ墓所に帰り着くようにと」

「今までの旅はここに辿り着くよう仕向けられていたわけか? しかし、どうしてそんなことを?」

 ナクティスが問う。

「わたしは存在特異点であるあなたたちに出会わなくちゃいけなかった。二人がいないと、わたしはジハラに対抗できないんだよ」

「よくわからねえことばかりだが、記憶が戻った今、お前はジハラに勝てるんだな?」

「正直、それはわからないかな。わたしがこうしてここにいるのも苦肉の策に過ぎないからね。本来、わたしはこの世界にいてはいけないんだよ」

「いてはいけないってなんだよ?」

 ラグナドが首を傾げる。

 そのとき、神官が笑った。

「安心致しました。ラフィアーレ様はすべてを思い出されたご様子。不確かな時空の狭間でコピーにコピーを重ねて生き永らえて参りましたが、ようやく務めを終えることができます」

「ありがとう、トト」

「私の台詞でございます、ラフィアーレ様。あなたの望む物語に辿り着かんことを切に願っております、イヒヒ……」

 まったく不可思議な現象だったが、笑い声を残しながら神官は煙のように消えていってしまった。

 ラフィアーレは彼の消失を悼むように顔を伏せていた。

「未だわからぬことだらけだ。聞かせてくれるのだろうな?」

「そうだね。とりあえずはここから出ようか」


     3


 墓所を出ると、トワを満たす生きた時間は失われており、元の廃墟に戻っていた。

寂れた広場、そこで意外な人物たちが待ち受けていた。

 ゼノスとヤーレだった。

「おやおや、勇者様と聖女様がご一緒でどうしたんだい?」

 ラグナドがからかうように訊ねた。

 ゼノスが一歩前に出た。

「トワの地……人を喰う惑わしの都。この地に向かった者は誰一人として帰ってはこない。噂は本当だったか。悪しき幻影が人を惑わし、戻れなくする。そしてその都に祀られているのは邪神ラフィアーレ。お前たちが行動を共にしているその女だ」

「だそうだ。邪神様の感想は?」

「一度敗れた神は邪神と謗られても仕方ないよね、トホホ……」

「気にすんな。どうせ俺たちゃ三悪党。別に今さら正義面しようってつもりはさらさらないだろうがよ? それに俺たちがちょいとばかし聞きかじったところによると、お前たちが信頼を寄せるジハラのほうがよっぽどヤバそうだぜ?」

「愚かな。かつて我らはジハラの導きにより貴様を討ったのだ。そんなことも忘れてしまったか、魔王? そしてヤーレ殿に聞けば、その後の世もジハラへの信仰によって平穏がもたらされているという。貴様らは世を乱す害悪であるのに、ジハラを愚弄するとは許せん」

「だったら、どうするんだい?」

「無論、ここで貴様たちを討つ」

 ゼノスは剣を抜いた。

 ラグナドはにやりとして、

「そうこなくっちゃなあ。といいたいところだが、ゼノス君よ、前に俺が言ったことを覚えているか? お仲間を引き連れていなくちゃ、お前には勝ち目がねえぜ? もし後ろの聖女様がお仲間なのだとしても、ちいと数と力が足りてねえんじゃねえか?」

「安心しろ、魔王。確かに多くの仲間たちが僕に力を与えてくれることは確かだ。しかし僕の力の源はそれだけではない」

「というと?」

「世界を救いたい。それこそ勇者が勇者であるための力だ。魔王、貴様たちはジハラに逆らうだけでは飽き足らず、この世界の奇妙な状況を生み出している元凶でもあるらしいな? つまり貴様たちを討たねば、世界は滅びる。世界を救いたいという願いは、僕に果てしない力を与える」

 ゼノスが気合を込めると、どんという衝撃とともに彼を中心に凄まじい渦が生じた。ゼノスの黒髪が逆立ち、びりびりと稲妻が走る。

 以前、浮遊島と手合わせしたときとは比べ物にならない力を感じる。

「はははっ、勇者ゼノス! 面白い奴だ! まだそんな力を隠していたのかよ?」

 ラグナドは嬉しそうに高笑いして竜牙を構えた。

「ちょっとは楽しめそうじゃねえか?」

「楽しむ前に終わらせてやる」

 二人の剣が克ち合った。

 凄まじいスパークとともに四方に衝撃波が及び、互いに後方へと大きく弾き飛ばされた。

 ラグナドは愉快そうに舌なめずりする。

「いいねえ。予想以上だ」

「……殺してやる。今度こそ殺してやるぞ、魔王」

「ますますいいねえ、その容赦のなさ。人間らしくて好きだぜ?」

「……減らず口を」

 魔王と勇者が睨み合っている一方、ナクティスはヤーレと対峙していた。

「貴様は何故ここにいる、ヤーレ? 貴様程度の力では、勇者の足手まといにしかならんのはわかっているはずだが? 貴様はとち狂った狂信者であると同時に優れた用兵家だった。それが強みだった。数を動かすのは得意でも、貴様自身は前に出て行くタイプではない」

「……そうですね。わたしは先頭に立って戦うことはしなかった。無論、ときには兵たちを鼓舞するために先陣に立つこともありましたが、帝国という強大な軍事力を相手にするにあたって、わたし個人の武勇は必要ではなかった。だからといって、ナクティス様、わたしを見縊らないで欲しいのです。わたしはあなたの高みに届くためにあらゆる努力を惜しまなかったのですから」

「何を言っている?」

「あなたは覚えておられないでしょう、あの日のことを。今より十年以上も前のことです。幼い頃、わたしはイェルサ地方の小さな村に住んでおりました。あるとき、西方の蛮人たちが村を襲った。村は焼き尽くされ、あらゆる蛮行が繰り広げられた。戦火に燃える故郷を背に巨大な男の影が迫り来るのを、わたしは未だ夢に見ます。しかしその影にすっかり呑み込まれてしまう前に、わたしは救われた。

 真っ二つになった黒き影の向こうに、ナクティス様、あなたが立っておられた。そしてそのしなやかで逞しい腕にわたしをすくい上げてくださったのです。覚えておられますか?」

「いいや、まったく覚えていないな。しかし、イェルサを襲った賊どもを一掃したのは確かだ」

「わたしの目には、あなた様こそ救世主に見えました。あのときわたしを救ってくださった偉大なる皇帝の気高き横顔をわたしは決して忘れないでしょう」

 ナクティスは怪訝そうに眉根を寄せた。ヤーレが何を言っているのか理解に苦しんでいた。だが、ヤーレは興奮さえ帯びた弾む口調で話を続ける。

「あなたの計らいか、わたしはサイード付近の平穏な村の老夫婦に預けられた。子のなかった老夫婦はわたしを実の我が子のように育ててくれました。そこでわたしは十代半ばまで過ごしました。片時もあのときのことを、あなたのことを忘れた日はなかった。わたしはあなたに再会できる日を、叶うならば、あなたの横に並べる瞬間を夢見ていた。だけど、一介の少女に何が出来ましょう? わたしには村を出る勇気一つなかった。

 そんなおりのことでした。わたしはジハラより神託を授かったのです。今、世は乱れに乱れている。帝国の圧政から人々を解き放ち、ジハラの教えを広めなさい。そのための力をそなたに授ける、と」

 雲行きが怪しい。ナクティスの表情が沈んでいくのとは対照的に、ヤーレの表情はぱっと輝き立った。

「まさしく天啓だったのです! 神のお告げに従えば、きっとナクティス様のもとへ辿り着ける! わたしはそう信じ、神託通りに物事を進めていきました。ジハラのお告げに間違いはありません、いつだって驚くほどうまく行きました。それを人々は奇跡と言い、いつしかわたしは救国の聖女として持ち上げられるようになっていました。もちろん故郷を戦で失ったわたしには世を平穏にしたいという強い願いがありました。だけど、それ以上にわたしはあなたに会いたかった! あの日、わたしを救ってくれたあなたの横に並び立ち、あなたと共に新しい世を築きたかった! だけど……そうはならなかった。我が軍が皇居を取り囲んだとき、敗北を悟ったあなたは潔く死を選んだ。わたしは玉座に急いだ。だけど、そこにあなたの姿はもうなかった。あなたは火の手の中に消えたと……そう聞きました」

「何が言いたいのかわからぬが」

 とナクティスはややあってから口を開いた。

「余がお前と並び立つことなど絶対にない」

「どうして?」

「余はお前が嫌いだからだ」

 ヤーレは苦しそうに胸を押さえ、悲しそうにナクティスを見つめた。

「……ひどい。あなたは女心のわからない人」

「それだけは同意するけど」

 とラフィアーレが口を挟んだ。

「わたしたちは手を取り合えないのですか、ナクティス様?」

「絶対にあり得ん」

「本当に?」

「くどい」

 ナクティスの拒否には絶対的な揺るぎなさを感じた。

 ヤーレは心の底からつらそうだった。絶望的だった。

「……だったら、そこまで嫌われているのなら、わたしはあなたを殺すしかないじゃない? あなたをこの手で殺して、あなたを美しい思い出として、わたしの心に永遠に留め置くために?」

「凄い粘着質だ。こわい……」

 ラフィアーレが怖気を振るった。

 戦いながら話を小耳にはさんでいたラグナドは笑い、

「さすが悪逆皇帝、オモテになられる」

「くれてやるぞ、ラグナド」

 ナクティスはうんざりしたように頭を振り、嫌そうにヤーレに目をやる。

「どのみち、お前に余を殺せるほどの力はないが?」

「見くびってもらっては困ります、ナクティス様。わたしはあなたのためにすべてを授かった女。あなたを愛するは運命。御覧になってください、ナクティス様、わたしの愛の形を!」

 ヤーレの青い瞳が深紅に染まる。

 その刹那、彼女の背から肉が盛り上がり、巨大な翼が広がった。

 白鳥のような、真っ白な翼。

 幻ではない。舞う羽根をナクティスが拾った。確かに物質として実在している。

「天使か……。まだ生き永らえていたとはな」

「我が故郷は古の時代に滅びし天使の隠れ里でございました。もっとも長い時の間に、ほとんどの者からは天使としての力は失われてしまっていましたが……」

「なるほど。お前だけが先祖返りというわけか」

「いいえ? この姿はあなたを愛するための姿。我が翼は、あなたを包み込む安らぎの翼!」

「これが神憑りの末路か……」

 ナクティスはぞっとする。

「あなたは前に手段と目的を取り違えるなとおっしゃった。わたしは何も取り違えてはおりませぬ。わたしは最初からあなたを愛していたかっただけ。どうしてもわたしを受け入れてくださらないのだとしたら……悲劇ですわ。我が翼は、あなたの躯を包み込む黒き翼となりましょうから……」

「もういい。聞いていると、頭がおかしくなる」

 ナクティスが刀を召喚する。

 ラフィアーレは呆気に取られていたけど、愉快そうでもあった。

「想像もつかないようないろんな物語があるねえ。それで、ナク、どうする? 手を貸したほうがいい?」

「いや、ヤーレの目当ては余だ。奴を化け物にした責任の一端が余にあるらしいし、余が相手をしてやるのが道理だろう」

「まあ、嬉しい。愛しい愛しいあなた様の命を、この鎌で刈り取れるかと思うと、体内の血の一滴一滴が沸騰するようですわ。もっとも……そうした高揚感もすべてが終わった後には絶望の色へと変わってしまうのでしょうけれど……」

 歓喜と絶望の色を複雑に交互させながら、ヤーレはその手に巨大な鎌を召喚した。

「さあ、始めましょう、ナクティス様! わたしたちの最後の愛のダンスを!」

 空中から急降下するヤーレの一閃をナクティスは後方に飛んで躱した。

 態勢を整えて反撃に移ろうとしたが……。

 天使の左右の翼に魔法陣が浮かび上がり、紅蓮の炎が迸った。

「ちっ、厄介な……」

「我が翼は外界の言葉を写し取る。あなたがいくら魔法に長けていようと、天使の敵ではありませぬ!」

 深く外界と通じ、魔法を意のままに操れるということだ。

 天使はもはや伝承にしか残っていない存在だったが、語られるところに嘘はないようだった。その力たるや神にも等しい。

 無尽蔵に放たれる魔法を裁くのに、ナクティスは手いっぱいの様子だった。

「はははっ、手こずっているようだな、ナク? 手を貸してやろうか?」

 ラグナドが笑う。

「人の心配をしている余裕があるのか? 勇者に再度の敗北を喫するわけではあるまいな?」

「冗談キツイぜ。俺がやられるわけないだろ?」

「本当だろうね、ラグ?」

 と岩に腰かけ観戦していたラフィアーレが口を挟んだ。

「言い忘れてたんだけど、二人が負けちゃうとわたしは力を失っちゃうからね」

「どういう理屈だよ?」とラグナドが聞き返す。

「わたしがこの世界に顕現しているのは、存在特異点である二人の観測によるものだからね。簡単に言うと、二人がいなくなるとわたしは力を失うどころか、この世界から消えちゃうんだよね」

「またお前はそういうことをこのタイミングで……」

 ナクティスが苦言を呈する。

「いいんじゃねえの? ようは勝てばいいんだろ? 簡単な話じゃねえか」

「馬鹿め。生きて返すと思うか」

 ゼノスが稲妻のような速さで間合いに入り、ラグナドの喉を狙って剣を突き上げる。

 間一髪後ろに身を逸らして躱すラグナドだったが、巨大な竜牙は取り回しが悪く、相手の太刀を裁くのに終始していた。それも一手一瞬の判断を間違えば、致命傷だ。

「魔王、殺す……。貴様を殺さねば、世界は救われない……!」

「なるほどねえ」

 ゼノスの剣がラグナドの左肩を貫いた。

 ゼノスは勝機と知った。

 そのまま斜めに切り裂けば、魔王は真っ二つ。

 あらんかぎりの力を込めた……

 が、剣が動かない。

 ラグナドが筋肉を締めているのだ。何という筋力だろう。まるで鋼だ。

「本来、みずからの身を賭して敵を討つはお前の十八番だったのによ。残念だったな」

 竜牙の腹がゼノスを大地に押し潰していた。

 地に埋もれた勇者は動かない。

「気迫が足りなかったな。信じ切れていなかったんじゃねえか? 自分が戦う理由をよ?」

 もう一方の戦いも勝負がつきそうだった。

 ナクティスは防戦一方だった。

 天使の操る魔法は人知を超える。

 宙を自在に舞い、大いなる翼からは間断なく必殺の魔法が降り注ぐ。

 長刀を握っていては、明らかに不利。反撃に移る余裕も無い。

 それでも好機を見計らっているのか、ナクティスはロスのないように円を描くように立ち回る。

「愛しております、ナクティス様! 一日千秋あなたへの想いに身を焦がしてきたことでしょう? 嘘でもいい、一言わたしを愛しているとおっしゃって!」

「……薄気味悪い奴だ」

「嘘でも女の子にそういうこと言っちゃいけないよ、ナク」

 ラフィアーレが窘める。

「わたしの愛を受け入れてもらえないのなら……やはりあなたを殺すしか。あなたの美しい首をこの翼に抱いて、わたしも共に果てましょう」

 悲愴的な表情の天使は翼をはためかせた。

 その両翼に浮かび上がる魔法陣が輝き、頭上に巨大な光の球を生む。

 あたり一帯が吹っ飛びそうなエネルギーが集まっていた。

「受け止めてくださいまし、わたしの愛!」

「……愚か者め」

 そうナクティスが呟いた刹那、がくりと不自然にヤーレがバランスを欠いた。まるで糸の切れたマリオネットのように。

「何事ですか?」

 ヤーレは眼下に注意を向け、はっと息を呑んだ。

 大地にいつの間にか魔法陣が描かれている。それはナクティスが彼女の攻撃をかわしながら刀の切っ先で地に刻み込んでいたものだ。

 魔法陣から伸びた無数の光の糸が天使の翼を絡めとり、大地に縫い付けた。

 無様に這いつくばる堕天使を常闇の皇帝が見下す。

「感情などというノイズに捉われるから、足元に気づかぬのだ。ヤーレ、貴様は先陣に立つのに向いていない。後方で指揮を執っているほうがよほど手強かった」

「そんな……それではわたしは永遠にあなたのおそばに近づけぬではありませんか!」

「実に結構な話だ」

 ヤーレは悔しさに唇を噛み締めた。その目には涙があふれていた。

「やれやれ、何度も女を泣かしやがってよ、お前は」

「ほんと、罪な男だよね、ナクは」

 ラグナドに同意してラフィアーレがうんうんうなずく。

 長居は無用だった。その場から立ち去ろうとした三人だったが、

「……待て」

 と満身創痍のゼノスがよろよろと立ち上がった。

 ラグナドはヒュウと口笛を鳴らした。

「さすが勇者様、まだ立ち上がれるとはねえ。普通なら一週間は起き上がれんぜ?」

「……何故僕たちに止めを刺していかない?」

「そりゃあお前たちに殺すほどの価値がないからだろうぜ?」

 ラグナドが肩をすくめる。

「……見縊られたものだ」

「それに俺たちの目的は、ジハラ――この世界を終わらせようとしている奴だからよ」

「ジハラが世界を滅ぼそうとしているだと……? ふざけるな、世界を滅ぼそうとしているのは貴様たちのはずだ!」

「そう信じたいなら、そう信じていりゃあいい。俺たちだってラフィアーレを信じて行動しているだけだしな? だけどよ、お前たちの信念もぐらついているんじゃねえのか? かつてあった気迫がいまいち感じられなかったぜ、ゼノスよ?」

 ラグナドは天に突き刺さる光の柱を見上げ、

「難しい理屈はわからねえが、ラフィアーレの話は妙に腑に落ちる。この世界は奴の都合によって捨てられちまった世界の集積だってよ。奴が必要とする世界に、歴史の敗者としての役割を担う以外に俺やナクティスは必要なかったんだ。だけどよ、それならどうしてお前たちもここにいる? 歴史の勝者であるはずのお前たちがこの世界に討ち捨てられたのはどういうわけだ? たぶん、ジハラにとっては悪者である俺たちを倒した後、お前たちもまた用なしだったんだろうぜ。お前たちもまたジハラによって都合よく使い捨てられた駒でしかなかったってわけだ」

「……そんなバカな話があるか。ジハラの導きによって僕たちは世界を救ったのではなかったのか……」

 ゼノスは受け入れられない様子だった。

「いつまで古い物語に捉われ続けるつもりだよ?」

 ラグナドが鼻を鳴らした。

 ヤーレが乞うようにナクティスを見上げる。

「……ジハラに見放され、あなたにも見放されて……わたしはどうしたらいいのです?」

「知ったことか」

 ナクティスは冷たく突き放す。

「……あなたは死にたいのだと思っていました。だから、わたしは……」

「争いの尽きぬ世にいた五百年の間、余はたしかに生きる意味を見失っていた。玉座から引きずり降ろしてくれたお前に感謝すらしている。だが、今は死にたいとは思わぬ。打ち捨てられた世界? 結構だ。余はこの不可思議な世界の行く先を見届けたいと思っている」

「……あなたは玉座を失って自由の翼を得たのですね、ナクティス様。だけどわたしは? あなたから玉座を得たけれど、すべてを失ってしまったわ。あなたの愛も得られぬ上、ジハラさえも信じられぬというのでは、あまりにも救われない……」

「世を統べようとする者が救われようなどと思うな。命果てるまで無様にあがいて見せろ」

 三人は今度こそ二人のもとから去った。

 ラフィアーレは二人を尊敬のまなざしで見つめる。

「二人とも、案外大人だったんだねえ」

「当たり前だ。こちとら、竜の王だぜ。何年生きていると思ってるんだ?」

「そうはいっても、ラフィアーレには及ぶまい」

「言ってくれたもうな、ナク。トホホ……」

 だけど、ラフィアーレは満面の笑みを浮かべた。

「わたしは二人が信じてくれて嬉しいよ。それだけでも、今まで旅をしてきた甲斐があったってもんだよ」

「思えば、随分遠くまで来たもんだぜ。あのおかしな柱まで、もう少しってところだもんな」

「このまま、まっすぐ柱へ向かうのか?」

 ナクティスの問いに、ラフィアーレは少し考えて、

「その前に寄りたいところがあるんだよ」

「何かあんのか? こんな辺鄙なところによ?」

「こんな辺鄙なところにしかないものがあるのだよ。もう少し北に行くと、世界で一番綺麗な場所があるんでしょ?」

「ん? 何かあったっけ?」

 ラフィアーレはぷうと頬を膨らませた。

「忘れちゃったの? オーロラだよ」


     4


 トワの地より先は未開の大地といってよい。よほど物好きな探検家でもないと足を運ばない。極寒の上、谷は峻険。死を背に感じるような黒々とした風に追い立てられ、生きた心地はせず、生きて帰れる保証とてない。その上、光の柱が近いせいだろうか、世界の理が書き換えられ、巨大な岩が宙を浮いていたり、空に虫食いのような奇妙な穴が空いていたりする。それでもなおこの厳しい旅路を越えた者には、この世のものとは思えぬ絶景が約束されるという。

 そしてその話は真実だった。

 谷が囲うユイナル塩湖はこの時期湖面が凍り付き鏡面と化す。

 夜の深まりとともに虹色のカーテンが空にかかった。

 虹色の光の波が空を覆い尽くすように泳いでいるのだ。

 オーロラが波打つ様子だけでも目を奪われる。

 その上、塩湖の鏡面はみずからにオーロラを写し取るのだ。

 空も大地も極彩色の光が満ち溢れ、大きく波打っていた。

 この時期にしか見ることのできない、世界で一番美しい場所――。

 三人は言葉を失っていた。

 探検家の気持ちがわかった。

 ここに辿り着くための苦難の旅路も忘れて、

 ただただこの景色に見惚れていた。

 やがてラフィアーレがぽつりと呟いた。

「世界は綺麗だね」

 ラグナドもナクティスも無言だった。

 無言のまま肯定していた。

「わたしは二人とこの景色を分かち合うためにこの世界に降りて来たのかもしれない」

「そうなのかよ?」

 ラグナドは笑った。

「世界を外から眺めているだけじゃ、この感動は味わえないからね」

「お前はこの世界の外から来たということで間違いないのか、ラフィアーレ?」

 ナクティスの問いにラフィアーレはうなずく。

「そいつがよくわかんねえんだよなあ。俺たち竜も神様といえば神様だ。だけど、世界の外に出るなんざ考えてみたこともねえよ」

「次元が一つ異なると概念になるからね。わたしたちは三次元世界に生きているけれど、二次元の平面に降りて生きていくなんてイメージできないでしょ? わたしが来たところは、二人からすると概念なんだよ。そこには無限に本が収蔵された図書館があった。その本にはあらゆる出来事が記されている。わたしはそこで延々と本を読んで、たくさんの物語に胸を踊らせていた」

「前々から気になっていたが、物語を読むというのはそのままの意味なのか?」

 ナクティスが聞く。

「割とね。オルテリアにはすべての事象が言葉で記されてあるからね。わたしは熱心にそこに記されてあることを読んでいたんだよ」

「暇人だったんだな?」ラグナドが言った。

「まあ、そうかも。それがわたしのいわゆる神としての務めでもあったんだけど」

「どういうこった?」

「わたしは『物語を司る神』なんだよ。わたしが読んだ物語が次元を一つ隔てたこちらの世界で事象と化す。事実となるってことだよね。たくさん読んだ分だけ、世界は豊かになる。だからわたしは運命を司る神として祀られることもある」

「はあ? なんだ、そりゃ? それじゃお前が偶然読んだ話が事実になっちまうわけで、世界はまるっきり運のくせして、同時に運命は決まってもいるってわけか?」

「そうなんだけど、一つの出来事においても、異なる結末を描いた本はいくらでも存在するからね。たとえばラグが勇者に打ち勝つ結末を書いた本だってあるし、ナクが世を統一する物語だってある。あるいは二人が全然違う世界に存在している話だってある。わたしはそういう本を読むのも好きだった。むしろそういう本を読んで、異なる可能性と運命を紡いでいくのもまたわたしの務めなわけだよ」

「一見同じような世界がいくつもあるってことか?」

「そういうことになるね。だけど、異なる世界は本来相互作用しない。ラグが勇者に勝った世界と勇者に負けた世界は交わらないってこと」

「だが、今やあらゆる時空の様々な世界が入り混じってしまっている。それは何故だ?」

 ナクティスが問う。

「わたしともう一人、同じ役目を担う神様がいたんだよ。この世界ではジハラって呼ばれているね。彼はね、たくさんの物語を読むことに疲れてしまったんだと思う。たった一つの、決まった歴史があれば、世界はそれで事足りると考えたんだよ。ジハラはみずからの望む世界以外の可能性世界を棄て始めた。それは横暴な判断だった。世界の方向性を決めるのは、わたしたちの務めでもないしね。わたしはジハラを止めようとして喧嘩になった。その喧嘩に負けて、わたしは『オルテリア』を追い出されてしまった。不必要な神として、この世界に落とされてしまったんだ。異なる次元に落とされて具現化してしまっては、かつての膨大な記憶を維持することは到底できない。わたしは落とされて記憶を失う前に、みずからの記憶の断片を各地に分散した。そうすることで記憶を辿り、いつかは墓所へ辿り着くようにと」

「何のことはねえ。とどのつまり、俺たちは負け組の三悪党ってことには変わりねえってことだな」

 ラグナドが快活に笑う。

「しかし解せんな。この世界がジハラの選別から漏れた不必要な世界の集積であるなら、なぜ勇者ゼノスやヤーレまでこの世界に落とされたのか? 奴らはジハラの求める物語の主役ではなかったのか?」

 ナクティスが顎に手をやって考える。

「ジハラにとって必要なのは、歴史を作った英雄である彼らなのであって、その後の彼らではなかった。物語の英雄って、英雄的所業を成し遂げた後、いずこかへと去って表舞台から消えるじゃない? そうすることで印象が深まって伝説となる」

「なるほど。つまりジハラにとって必要だったのは、みずからの正当性を紡ぐための伝説であり、勇者たち自身ではなかったということか。だとしたら、ジハラはよほど独善的な奴だと言わざるを得ないな。自分にとって都合の良い物語しか認めないのだから」

「だから喧嘩になったんだよ。つらい話だよねえ」

 ふうとラフィアーレは溜息をついた。

「神様も大変だねえ」ラグナドがあっけらかんという。「それで? もちろんお前の目的は、ジハラの奴をぶっ倒すことなんだろ、ラフィ?」

「う~ん、そうなのかな?」

「そうじゃねえのかよ?」

 ラフィアーレは再びオーロラをうつす塩湖を見晴らす。

「わたしはずっと物語を読んでいるだけだったからね。文字を追っているだけだと、その世界の匂いとか感触とか肌触りとかさ、よくわからないんだよね。どんなだろうって想像するしかなくってさ。もちろんそうやって想像を膨らませるのも楽しいんだけどさ。だけど、実際にこの世界に降りてきて、自分の身体で世界を体験してみるとすごく新鮮でさ。ここまで二人と旅をしてきて、いろんな景色や人々と出会ってさ、その一つ一つの思い出がなんていうかな、とても愛おしいんだよ。わたしはこの世界が大好きなんだよ。この世界が滅びて欲しくない。この美しい世界で紡がれる物語を途絶えさせたくない。ただそれだけなんだよ」

 ラフィアーレはそう語り、二人は納得した。

 光の柱は、もう目前に聳え立っている。

 明日にもそこへ辿り着くだろう。

「世界は滅びるにはまだ早い」

「俺たちの物語が終わるのもまだ早い」

 ラグナドは背伸びをやって、

「せっかく生き永らえたんだからよ。もっと自由に生きられるはずだよな」

「だが、世界を永らえさせる術はあるのか?」

 ナクティスが問う。

「あるよ?」

 ラフィアーレは軽い調子で答えた。

「二人に出会ってここまでやって来た。もう勝ち確だよ」

「そうなのか? お前、ジハラに負けたんだろうに?」

「あのときは一人だったから。今は二人がいるでしょ?」

 なんてことはないという軽い調子。

 神々の、それも次元そのものが異なる神々の力関係は計り知れない。

「この世界に降りてこられたこと、わたしはジハラに感謝している」

 ラフィアーレは明るい顔で二人を振り向いた。

「ラグ、ナク。わたしにとって二人に出会えたことがすべてだったから。ありがとうね」

 女神は微笑んだ。

 背後のオーロラに包まれているせいか、その笑顔は輝き立って見えた。

 二人は当てられて、何も言えなくなってしまった。

「世界のほんとうの姿を見せてくれて、ありがとう」

 オーロラのカーテンの中に一筋の流れ星が降りた。

 この幻想的な夜を三人はきっと忘れないだろう。

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