第6話 聖都サイードを巣食うもの
1
サイードの堅固な城壁が見えた頃には、秋になっていた。
旧ロムス帝国領において最北端に位置するロアーム地方は寒さの厳しい土地だ。日照時間が短い上、空を灰色の雲が厚く覆っている。岩だらけの荒涼とした地が果てしなく続くようだ。トゥテラの村で行商人の馬車に乗せてもらえたからよかったようなものの、そうでなければ何日もこの荒れ地を歩き通さねばならなかっただろう。
「サイードねえ。俺の時代には、そんな街はなかったな」
「余が帝国制を敷いた後に北方の要として築いた街だ。余についてきたエルフの多くはサイードに移り住んだ。エルフは酷暑を嫌う。ロアームの気候はまだしも肌に合っている」
「ふ~ん、今も帝国領なのか?」
「いや。サイードを拠点として新興宗教が起こった。その勢力が力を増しながら中央に迫り、ついには帝国を滅ぼしたのだがな。救世主ヤーレのジハラ教団だよ」
「おお、情けない。広大な領土を掌中におさめながら、カルト教団にやられちまうなんてよ?」
「広大な領土をおさめていたゆえ、だろうよ」
「どういうこった?」
「ジハラは圧倒的な求心力を持っていたからねえ」
と荷台からつまらなそうに景色を眺めていたラフィアーレが口を挟んだ。
ナクティスがうなずくが、ラグナドは「話が噛み合ってないんだが?」と不満そうだった。
「今はジハラ教徒たちの聖都になっているようだよ」
「まあいいさ。どうせ長くは滞在しねえんだろ? 冬の備えだけやってさっさとオサラバしようぜ。俺もジハラって名前には良い印象はねえしよ」
聖都サイードに入る。
北方の中心都市らしく洗練された街並みである。石造りの建物が櫛比している。とりわけ絨毯のような臙脂色の屋根は壮観である。海は近く、経済の中心地としても栄えているはずの都市なのに……。
異様な雰囲気であるとすぐにわかった。瘴気が立ち込め、大通りがあまりにも寂れている。路地裏には病に倒れる人の姿が見えた。あちこちから聞こえてくるのは、ジハラ教の僧侶の辛気臭い説法である。世の終わりが迫っている。救われたければ、ジハラに祈れ。ジハラに救いを求めよ。そんな嘆き声ばかりが聞こえてくるので、気分が滅入ってくるのだ。
「光の柱の影響かね? 柱との距離がだいぶ近いからな」
「それもあるだろうがな。この地には古代の神々を祀るための神殿があった。古代人が建てたものであろうが、今や詳細を知る者はない。サイードは古の神々の加護を得るべく神殿を中心に築かれた都市なのだ。しかし神殿は今や教会と改められている。おかげで今ではどこもかしこも坊主だらけだ」
ナクティスが気分を害したように言葉を吐き捨てると、ラフィアーレも深い溜息を洩らした。
「それにしたって異様じゃない? ほとんどの店は閉まっているしさ。疫病でも流行っているのかな?」
「長居は無用ってことだな。一晩明かすために、さっさと酒場を見つけようぜ」
「酒場じゃなくて宿屋ね……」
広場まで来たとき、噴水前に人だかりができていた。
説法が聞こえていた。どうやらここでもジハラ教徒が終末論を唱えているらしい。
それにしては、先ほど見かけた僧侶たちとは違い大勢の人々を集めている。
説法をしているのは、端麗だがひどくやつれた顔の少女だった。紺色のローブを身に纏い赤いマントを羽織っている。少女の声は深く落ち着きがあって、そのトーンで発せられる言葉の一つ一つが確かな重みを持つようだった。
「みなさん、あきらめてはいけません。我らが主ジハラはすべてを見ておられます。必ずやこの世界をお救いくださります。ジハラを信じ、祈りましょう。ジハラは世界から虚無を払い、いつしかわたしたちを天の国へと導いてくださるのですから」
ナクティスはフードで顔を隠し、足早にその場を離れた。
その意味をすぐに二人は知る。
少女の説法が終わると、観衆から「救世主ヤーレ様!」と声が上がったからだ。
入り組んだ路地に安い宿を見つけた。その三階の部屋からは、教会の屋根が見えた。大理石の三角屋根。かつては神殿であったことを物語る古代の建築様式。
「まさかさっきの娘が救世主ヤーレだったとはなあ。ずいぶん幼いじゃねえか。二十歳を越えているようには見えなかったぜ」
「年端も行かぬ娘に敗れたと笑いたいわけだな?」
「まあ、そうだ」
ラグナドは無邪気に笑った。
ナクティスは気にした様子もない。
「ヤーレが帝国を滅ぼしたのではない。ヤーレの求心力が滅ぼしたのだ」
「同じことじゃねえのか?」ラグナドはふと笑みを漏らし、「いや、そうだな。人間は群れるのが得意だからな」
「でも、ここでヤーレと遭遇したのは意外だったね。ヤーレは帝都にいると思っていたのにね」
「ジハラ教はここロアームで起こったから、奴にはここのほうが居心地が良いのだろうよ」
ナクティスは言葉を吐き捨てた。この話題を続けたくはない様子。
「明日、早々にここを出るぞ。厄介事に巻き込まれんうちにな」
「賛成。ここには面白そうな物語もなさそうだし」
だが、すでに厄介事には巻き込まれていたものらしい。
部屋の戸をノックする音があった。
ナクティスが用心しつつドアを開くと、浅黒い肌をしたエルフが立っていた。エルフは都市に長く住むと日に焼けて地肌がその色と化すものらしい。口ひげを蓄えているのでいくらか年嵩に見える。エルフなので数百を超えていてもおかしくはない。帝国軍人らしい立派な身なりで銀髪を丁寧に後ろに撫で付けていた。
「ナクティス陛下、やはり陛下であらせられましたか。広場でお姿をお見掛けして、よもやとは思いましたが」
「セルヴィスか。達者で何より……と言いたいところだが、今さら余に何の用だ?」
セルヴィスは背後の二人を気にかけた。余所者には聞かれたくない話……ということだろう。
「この二人に聞かせられぬ話なら、今の余にすべきではない。他を当たれ」
突き放すように告げると、セルヴィスは深々と首を垂れた。
「承知致しました。中に入ってもよろしいですか?」
「力になるとは約束できんが、昔のよしみだ、話だけは聞いてやる」
「ありがとうございます、陛下」
「陛下はよせ」
ナクティスは不機嫌そうに窓辺の椅子に腰かけ、長い脚を組んだ。
「それで? 救世主ヤーレに寝返ったお前が今さら余に何の用だ?」
「これは手厳しい。誓って申し上げますが、私はあなたに対する不満や不信からヤーレについたわけではございませぬ。純粋に国の行く末を考えてのこと」
「わかっている。だから責めてはおらぬ」
ナクティスは溜息をつく。
ここでラグナドが割って入った。
「ちょっと待てよ。俺たちにも事情がわかるように説明しろ。察するに、お前たちは共に旗揚げして帝国を築き上げたんだろ? 何百年という付き合いじゃねえか。それなのに、お前はこのセルヴィスって奴に裏切られたんだろ? その割には悠長じゃねえかよ?」
「お察しの通りでございますな」とセルヴィス。「今から六百年近い昔、私を含む数十のエルフが陛下に付き従い、エルフヘイムを出ました。陛下は類稀なる才覚を発揮し、その後のたった数十年で帝国の礎を築いた。あの頃のことを今でも夢のように思い返します。勝利に次ぐ勝利、まさに黄金の時代でした。そこまではよかった。我々は気づいてはいなかったのです。帝国に暗雲が兆したのは、勝利を重ね過ぎた結果であると」
「わかんねえな?」
「帝国は版図を広げ過ぎたのでございます。いかに陛下が偉大であろうと、その威光が領土の隅々にまで及ぶのは難しい。また、重ね過ぎた勝利には反発も生じます。地方のあちこちで騒乱が起こるようになった」
「つまり帝国をデカくし過ぎたのが失敗だったってわけだな? 目が十分行き届く範囲に抑えておけばよかったのに、欲張ったな?」
「そういうわけではございませぬ。最初から、ナクティス陛下には広く世を統べたいとする志があった。それはより強大な権力や広い領土を持ちたいとする欲から来ているわけではなかった。竜王ラグナドが討伐されて以降、世界は人間、エルフ、ドワーフ、つまり人が支配するようになりました。人はそれぞれの文化圏を築き、異なる価値観を持っております。ですが自然のままに放っておいては、力を持つ文化圏の者が他の文化を押し潰してしまう。実際、ロムス建国以前に、あまたの少数民族がこの地から姿を消しました。ナクティス陛下は、帝国領内においていかなる文化・価値観も平等に扱われるものとして帝国の拡大を目指したのです」
「だが、それはうまくはいかなかったのだ。帝国法の下に自由を約束しても、価値観の相違から生じる争いは終わらなかった。辺境の民族はかつてからあった他民族との諍いの原因までもを帝国にあると論理をすり替えたのだ。そしてそれは結果としては間違ってもいなかった。やむを得ず、帝国がそれらの民族を武力で制圧することもあったからだ」
ナクティスがひどくつまらなそうに補足した。
セルヴィスはうなずき、
「私は帝国の行く末に明るい展望を抱けなくなっていました。この世界の実相は、あの誰よりも聡明で勇敢なるナクティスが思い描いていた理想とはかけ離れておりました。そして陛下御自身、かつてエルフヘイムを去ったときのナクティスとは異なってしまっていた。陛下の成した功績が偉大であることは否めません。だが、陛下の治世に限界が来ていたこともまた事実。そんなおりに、救世主ヤーレは現れた。彼女はかつての陛下のように自信と希望に満ち溢れ、ジハラという神の名のもと、民を急速にまとめ上げ、勢力を拡大していった。我らにとって必要なのは、価値観の多様性ではなく一つの強固な理念であったのです」
「ヤーレは余と帝国を討った。そして、ジハラの名の下に従う理想国家を築き上げようとしている。それは余の望む世界ではない。だが、敗者には世界を変える力はない。今さら余の出る幕はない」
「私はヤーレに賭けたのです。あなたの築いた世の次を担ってくれるだろうと」
「それでよい。お前の好きにすればよい。他の者にもそう伝えよ、セルヴィス」
「ナクティス陛下、あなたは生きておられた。私は今でもあなたがヤーレと手を取り合うことを願っているのです」
「ありえんな」
「何故ですか?」
「余は一神教が嫌いだからだ」
ナクティスは窓の外を見つめていた。
「陛下、あなたは未だかつての誓いを忘れずにおられる。エルフヘイムを守りたいと考えておいでだ。エルフの掟はジハラ教とは相容れない。いつかは衝突が生じると懸念されておられる」
「それだけわかっているなら、もはや何も言うことはなかろう。立ち去るがよい」
ナクティスの口調は突き放すように冷淡だった。
それもやむをえないとセルヴィスは理解している。彼は――彼らは同胞であるナクティスを裏切ったのだから。
「では陛下……いや、ナクティス殿、ここからは取引の話を致しましょう。今、このサイードには問題が起こっております。その問題をあなた方に解決してもらいたい。報酬は金貨十枚。悪くはない話だと思いますが」
「金貨十枚! しばらく酒には困らないぜ?」
「どんだけ飲むつもりなんだよー」
ラグナドにラフィアーレがツッコむ。
事実、金貨十枚ともなれば、一年や二年、飲み食いには困らないだろう。
「ふん、曲がりなりにも皇帝であった者を金で雇おうというのか? 見縊られたものだな」
「そうはおっしゃいますが」セルヴィスはぐるりと部屋を見渡し、「他に宿はいくらでもあるのに、このような粗末な部屋を借りようというのですから、懐具合がよろしくないのでは?」
「……財務に関してはお前に任せていたこともあったな」
忌々しそうに舌打ちするナクティスを見て、セルヴィスはにこりとした。
ナクティスは応じず、ただ夜景を眺めるばかり。
長い付き合いだ、セルヴィスはナクティスの扱い方を心得ていた。
「聞き流してもらえば結構。独り言として話しましょう。お気づきかとは思いますが、聖都として栄えたこのサイードにかつての面影はありません。あの奇妙な光の柱が立った日から、すべてが一変してしまった。いったいあれは何なのでしょうな? 聖なるものなのでしょうか、あるいは邪なるものなのでしょうか? ともかく、光の柱が立った日から、このサイードには疫病を撒き散らす死の瘴気とともに死者が徘徊するようになったのです。虚ろな目をした、意思無き者たちが夜な夜な街のあちこちに出没しては、誰彼となく襲い掛かる。おかげでサイードからは活気が失われ、あちこちで生臭坊主たちが終末論を唱え、不安を煽り立てる」
「ふん、さっき広場でまさしくそのとおりのことをヤーレがやっていたではないか」
ナクティスが嘲笑う。
「ヤーレ様はああやって民を励ましていたのです。傍から見ると、無法な坊主たちと同じに見えるかもしれませんが……。それに夜な夜な現れる死霊たちを無に帰すべく尽力されているのもヤーレ様。あの方は寝る間も惜しんで、街を救おうとなさっている」
「だから、あいつはあんなにもやつれ果てていたのか」
「さようでございます。このままでは、ヤーレ様は過労によって倒れてしまうことでしょう」
「余にヤーレに加担しろというわけか」
「サイードを救うためでございます。何卒、ご助力いただきたい。今こうしている間にも、ヤーレ様は死力を尽くして死霊どもと戦っているのです」
ナクティスは応じない。
沈黙を破ったのは、ラフィアーレだった。
「ヤーレに加担したくない気持ちはわかるけど、このままじゃサイードが廃墟になっちゃうよ。神様として、それはちょっと見過ごせないかな」
神様という単語が気になったらしくセルヴィスが首を傾げる。
「ラグは?」
「酒代稼げるなら、俺はやってもいいぜ? それにここが滅んじまったら、俺たちの旅に支障があるかもしれん。何かあって引き返したら、街が廃墟と化してたら詰むだろ。竜である俺はともかくとしてお前たち人はひ弱だからな?」
竜という単語が気になったらしくセルヴィスが首を傾げる。
「そだねー。引き返した先が廃墟で凍え死ぬとかやだよ、わたしは」
「ここは酒代の代わりに、悪逆皇帝様には涙を呑んでもらって」
「結局、お前はいつもそれだ……」
ナクティスは肩で大きく溜息をついた。
2
街中に立ち込める深い瘴気に紛れて、いずこからともなく影が立つ。かつてどこかで存在したのであろう者たちの影だ。
意思無き者たちはふらふらと街中をさ迷い、生ある者を見境なく襲う。生者は影たちに見つからないように蠟燭の火を立てることさえもできずに息をひそめて夜の終わりを待つばかり。こんな夜がいつまで続くのだろう?
時に暴走した影が闇雲に家を襲うこともあった。
ただやり過ごしているだけでは、被害は抑えられないのだ。
ヤーレが放つ浄化の光が影を滅していく。
一体……二体……三体……。
寒い夜なのに、汗が止まらなかった。
苦しそうに息を吐き、ヤーレは膝をついた。
護衛の騎士たちがヤーレを守るように囲んだ。
中にはかつて彼女と敵対していたエルフの姿もある。
皆、疲れ果てていた。終わりの見えない戦いに。
霧の中から影たちは無限に湧いてくるようだった。
ジハラの導きがあるはずだ。
そう信じて戦い抜いてきたけれど、一向にその兆しは見えない。
ジハラを……いや、ヤーレを信じられなくなった民はサイードを去っていった。
ああ、あのときは、はっきり神の声が聞こえていたのに。
神の声に導かれるままに、帝国の圧政から民を解放してまわり、そして……願い通りに皇帝に届いた。
あの頃の霊感が働かないのだ。神憑りだった頃の自分がまるで嘘みたい。
帝国は滅び、皇帝ナクティスは戦火に消えた。
あれからのわたしは……。
「ヤーレ様!」
影が迫っていた。
騎士の一人が身を挺して影の刃に背を斬られた。
目の前でまた一人、自分を信じてくれた人が倒れていく。
その事実を受け止めることに、ヤーレは疲れてしまった。
わたしは何のために戦っているのだろう?
わたしの役目は終わってしまったのだわ、皇帝ナクティスを討ったあのときに……。
もうわたしには何もないのだ……。
影の振り上げた剣が項垂れるヤーレの頭上で鈍く光った。
その次の瞬間、影は凄まじい一撃によって斬り裂かれた。
ヤーレはゆっくりと後ろを振り向く。
はっと息を呑んだ。
そこには三日月のような長刀を携えたロムス帝国皇帝が立っていたからだ。
「……ナクティス様? どうして……?」
ヤーレは戸惑う。
広場にさ迷い出る影たちは、瞬く間にナクティスたち三人の増援によって討たれた。
敵意が消失した後に、ロムス皇帝は救世主を振り向く。とても冷たい目で。蔑むようでもあった。
ヤーレは密かに唇を噛んだ。
セルヴィスが間に入り、ヤーレが立ち上がるのに手を貸した。
「ナクティス様がご助力くださるそうです、ヤーレ様」
「貴様のためではない。サイードの民と……かつての同胞たちのためだ」
ヤーレの騎士たちは「本当に陛下なのか」と色めき立った。このどす黒い瘴気に覆われた状況に光が差したとばかりに歓喜する。
「魔物たちはどこから涌いて出るんだろう? 今までの経験則によると、その土地の象徴が蝕まれて魔物が生じる装置と化していることが多かったけれど」
ラフィアーレが疑問を口にした。
「セルヴィス、心当たりは?」
ナクティスが聞く。
「そうですな、サイードの象徴といえば、アマル神殿以外にはありますまいが。ナクティス様もご存知かもしれませぬが、あの神殿は古代の民に作られたもの、地下には広大な迷宮が広がっております」
「ふむ、そうだったな」
「……ありえない」とヤーレが首を横に振った。「アマル教会の地下に古の祭壇があるのは事実。忘れられた古代の神々が祀られていたのも事実。しかし、以前帝国からこの地を解放したとき、わたし自身でジハラの加護を得られるようにと結界を張り直しました。あそこが虚ろなる影たちの温床となっていることなどあり得ないのです!」
「そこが原因っぽいな?」
「だろうな」
ラグナドの言葉にナクティスは同意する。
「あの、わたしの話を聞いておられます?」
ヤーレは不満そうだ。
「余はジハラなど信じていない」
「そうでしょうね、陛下。あなたはジハラの導きによって討たれたのですから」
ヤーレは挑戦的に言った。かつての敵への憎しみがあるのだろう。
「あのとき、敗北を悟ったあなたは燃え盛る皇居に消えた。潔く死んだはずではなかったのですか? それをおめおめと生き永らえて……」
ナクティスは答えない。聞いてもいないようだった。
二人の連れに合図して歩み出す。
「今から行くのか?」
ラグナドが聞いた。
「ここに長居したくないのでな」
「地下迷宮ってどのくらい広いの? 迷子にならないか心配だよ、わたしは」
休む間もなく魔物たちの討伐に赴くというのだ、ラフィアーレの眉の端が下がるのも無理はない。
「私が道案内致しましょう」
そう申し出るセルヴィスを遮り、
「いえ、わたしが同行しましょう」
と、ヤーレが申し出た。その曇りない瞳に強い決意が漲っていた。
「我らが主ジハラのお導きに間違いがあるはずはない。そのことをあなた方に証明して差し上げます」
「ヤーレ様、戦いの疲れも癒えぬままでは……」
セルヴィスが気遣う。
「心配いりません。わたしはジハラの加護を得た者、ジハラは常に見守ってくださっています。さあ、皆さん、参りましょう」
ヤーレはナクティスたちを振り向く。が……
「断る」とナクティス。
「な……!」
ヤーレは顔を真っ赤にした。
「何故です!」
「足手まといは要らん。それに、余はお前が嫌いだ」
「おいおい、はっきり言うねえ」
「だね。ちょっと可哀想だったよ」
ラグナドとラフィアーレは同情的に肩を落とす。
「余はこいつに国を滅ぼされたんだぞ……」
「だとしても、さすがに面と向かって嫌いと言われると、女子なら堪えるかなー」
「まあ、気持ちはわかるぜ。俺もゼノスの奴と一緒に戦えと言われたら御免こうむるしな。夜も更けてきたし、さっさと終わらせちまおうぜ」
三人は歩き出す。ヤーレはその後ろ姿を追いかけた。
「あなた方が何と言おうと! わたしも同行します! サイードの民を守る責務がわたしにはありますから!」
「ふん、勝手にしろ」
ナクティスが冷淡に告げた。
3
アマル神殿の奥に広大な地下迷宮へと至る階段が隠されている。
この地下迷宮がいつ、どのような目的で作られたのか、判明していない。一説によると、いずこかへと去りし古代人ヒトトタイトの民が作ったとも云われるが。
魔法の照明を頼りに先に進んでいくと、古代文字の刻まれる壁があった。
「面白いな。古代エナンシア語とも違っている。古代人ヒトトタイトの文字か」
ナクティスは熱心にメモ帳に文字を書き写す。
「ということは、ここに祀られている神ってのは、その古代人の崇める神ってわけだな?」
ラグナドの問いに答えたのはヤーレだった。
「ここがヒトトタイトの民の遺跡かどうかはともかく、祀られている神はわかっています。ここに祀られているのは、異教の邪神ラフィアーレ」
「何故ラフィアーレだと?」
ナクティスが聞いた。
「民間伝承にラフィアーレの名が伝わっていますから。かつて祭壇に張られてあった結界もその神のためのものだったでしょう」
「北方にまで名が聞こえているとは、なかなか顔が広いな、ラフィ?」
「異教の邪神だって。トホホ……」
「邪神とて 楽しく生きて ナンボだぜ?」
「ありがとね、下手な句だけど……」
「下手じゃねえし!」
ラグナドは熱心に否定する。
ナクティスは肩をすくめ、
「気にするな、邪神がどうこうなどと、こやつらの一方的な価値観に過ぎん」
「ありがとね、ナク、最高の気休めだよ……」
「あの、どういうことです?」
ヤーレは話についていけず、困惑していた。
「この少女が貴様の言う邪神ラフィアーレだ」
ナクティスが説明すると、ヤーレは鼻で笑った。
「正気ですか? ラフィアーレは古代の神ですよ? 実在するかどうかも怪しいというのに」
「わたし自身、半ば自分を疑い始めているよ。トホホ……」
「少なくとも、余にとってはジハラなんぞよりよっぽど実体感があるがな」
ヤーレは馬鹿にするように首を横に振った。
「ナクティス様、あなたが異教の神々に愛着を持つのは自由ですが、ジハラより偉大なる神は存在しないのですよ? ロムス帝国の滅亡が何よりの証。わたしは我が主ジハラより神託を授かった。その導きに従い、わたしは帝国領を解放していったのです。ジハラの導きなしに、どうして一介の少女に過ぎなかったわたしがあなたに届き得ましょう?」
「結果論に過ぎんな」
「さようでございます。我が主はすべてを見通されていたのです。もしこの少女が本当にラフィアーレであったとしても、異教の神々など信奉しているあなたは敗れる運命にあったのです」
古代文字を書き写し終えてメモ帳を閉じた後、ナクティスは目端だけで振り向き、
「もしそうだとしても、余はジハラを信仰して生き永らえるより、ラフィアーレら古代の神々とともに滅びる道を選ぶ」
「あなたは愚かだわ。あなたには皇帝である資格なんてなかったのよ……」
「だから滅びたのであろう? 余はそれなりに満足している」
「……話にならない」
そんなことはとっくにわかっていたことだ。理解が可能であったなら、どちらかが滅びるまで争い合うこともなかっただろう。
もはやナクティスは何も語らなかった。
それがヤーレには苛立たしかった。
何より腹立たしかったのは、彼らが和気藹々と楽しそうに先を行くことだ。
帝国を滅ぼしてからというもの、わたしは心の底から笑ったことなどあっただろうか?
帝国を、ナクティスを討っても、宿願を果たしたというような高揚感などまるでなかった。
それどころか、ぽっかりと心に大きな穴が空いたようだった。
救世主として祭り上げられ、神格化され、人々との間には大きな壁が生じた。
頼られはするが、頼ることはできない。
ナクティスを討って、初めてナクティスの孤独を理解できた。
彼もきっと同じだったのだと。
それなのに……。
「この扉の先が祭壇です。あるいは神々の広間と呼ばれていたかもしれません」
ヤーレが告げる。
巨大な石の扉が彼らの前に聳え立っていた。見ただけで押しても引いてもびくともしないであろうとわかる。
「魔法鍵だね。ヒトトタイトは魔法の得意な民だったみたいだね」
ラフィアーレが鍵を開こうとしたが、ヤーレが一歩前に出た。自分に任せろという意思表示だった。
ヤーレは二言三言呪文を詠唱し、扉に掌をかざした。
すると扉はふっと煙のように消える。
その瞬間に、奥から溢れ出すどす黒い瘴気。街中に立ち込めていたものなど比ではない。
濃密な死の気配だ。
ラフィアーレは口元に袖を当てた。
「良い気配じゃないね」
「まあ、覚悟はしていたけどよ」
ラグナドは伸びをやった後に背負っていた竜牙を構えた。
「行くぞ」
ナクティスを先頭に祭壇へと足を踏み入れた。
そこには魔物が巣食っていた。文字通り、巣食っていたのだ。
正面の壁にそのおぞましい魔物は張り付いていた。
何十の人間たちがどろどろに溶け合って一体化したような異様な魔物。どっくどっくと脈打ち、巨大な心臓のようとも思えた。個々の人間たちに意志はあるのだろうか? 顔の一つ一つに苦悶の表情が浮かび、救いを求めるように呻いている。いくつも伸びる手もまた、絶望と死の中で救いを掴まんとしてもがいている。これほど醜い魔物が存在しているとは……。
「ひどいね。人々の記憶と記録が混ざり合っているんだろうね」
ラフィアーレの横顔が沈む。
ヤーレは現実を受け入れられない様子だった。絶望的に表情がゆがむ。
「そんな……わたしはたしかにジハラの結界に書き換えたはずなのに……」
「その結界が元凶だったということだろう」
「ありえません!」
冷淡なナクティスの言葉に、ヤーレは反発する。
「まあ、何にせよ、倒しちまえばいいんだろ? さっさと終わらせようぜ。もたもたしていると、お前たちも毒っ気に当てられちまうぜ?」
「そだね。この魔物がわたしのせいだって思われたくないしね……」
ラグナドが竜牙一閃、魔物に斬り掛かった。
魔物は真っ二つに引き裂かれ、右側半分がどさりと地に落ちる。
しかし、どちらも切り裂かれた断面がもこもこと膨れ上がったかと思えば、幾人もの人間の顔が苦し気に浮かび上がってきては元通りの奇体として再生した。魔物は二つに増殖しただけだった。
「おいおい、斬ったら斬った分だけ増殖するってんじゃねえだろうな?」
「その可能性が高そうだよ。物理は相性悪そうだね」
ラフィアーレは炎の魔法で地に這いつくばっているほうを焼き払った。
しかし焼け焦げたカスがもごもごと寄り集まり、やはり元通りに再生してしまうのだ。
「う~ん、魔法もダメか。再生速度が速過ぎるんだよ」
「どうするよ?」
「一度に殲滅するしかないかもね。ラグが竜になって焼き払うとか」
「ばーか、この地下迷宮そのものが崩れちまうぞ」
そんな話をしている間に、魔物から幾重にも重なり合う悲鳴の如き雄叫びが上がり、邪気に満ちた炎が無数に飛び交う。怨念と憎悪にまみれた漆黒の炎だ。身も心も冷たく焦がすであろう……。
炎を掻い潜ってラグナドが試しにもう一撃加えてみるが、結果は同じ、魔物が増殖しただけだった。おまけに魔物がどっくどっくと脈打つたびに黒い瘴気が噴出されるし、影がどこからともなくわらわらと湧いてくる。この広間自体が呪われている。
敵の攻撃をかわすこと自体は難しくないが、再生し無限に増殖する敵にどう対処すべきか。
「壁に張り付いている奴を斬ったとき、そこに魔法陣が見えたな?」
ナクティスの問いに、ヤーレが答える。
「わたしの書き換えた結界陣です。ジハラの加護が得られるようにと」
「素晴らしい加護だな」
ナクティスが皮肉を飛ばす。
「あの結界の効力を無効化しない限り、魔物は増殖し続ける」
「そんな……信じられません!」
「お前が信じようと信じまいと、これが現実だ。お前が結界を止めろ。ジハラの結界陣の仕組みはお前にしかわからんだろうからな」
ヤーレは唇をぎゅっと噛み締めた後、
「だけど、結界を無効化するには、陣に触れなくてはなりません」
「そのためには魔法陣を覆い隠すように張り付いているやつを始末せんといかんわけか。さて、どうする?」
「要するに、無限に湧いてくる魔物を、一瞬でいいから殲滅できればいいわけだよね? わたしがやるよ」
「できるのか、ラフィアーレ?」
「たぶんね。だけど、この魔法の調整には少し時間がかかるんだ。広範囲かつ、魔物だけに作用するよう呪文を書き換えるわけだからね」
「その間、敵さんを食い止めればいいってんだろ? お安い御用だぜ!」
「やってくれ、ラフィアーレ」
「うん。じゃあ、適当にがんばってね、二人とも」
ラフィアーレは半ば目蓋を伏せ、何かに憑かれたように口を動かし、声のない独り言をつぶやくようだった。
その間、ラグナドとナクティスは彼女に危害が及ばないように魔物たちを相手取る。
三人の間にはたしかな信頼感が窺えた。
そのことがヤーレには悔しい。
救国の聖女などと呼ばれながら、自分には信頼のおける仲間一人いないのだ。
妬ましささえ覚える……。
「ル・ファド」
ラフィアーレがそう呟いたとき、一切の影が消えるほどの鮮烈な光が広間を満たした。
清浄なる気に満ちた光だ。
その光に呑み込まれて、すべての魔物はひとつの塵も分子も残さず跡形もなく消失した。
「ヤーレ! 何をしている!」
ナクティスの怒号が飛んだ。
ヤーレは我に返り、壁に刻まれた魔法陣へと走った。
もたもたしていては、また魔物たちがそこから涌いてくるだろう。
その前に結界の作用を止めなくてはならない。
ヤーレは掌を魔法陣にかざした。
しかしこのまま、本当に結界を封じていいのだろうか?
それはジハラが間違っていると証明するようなものではないのか?
もしジハラが間違っているとしたら、わたしは……?
「手段と目的を取り違えるな! 貴様が守るべきは民ではないのか!」
ナクティスの叱責が飛んだ。
そうだ、わたしは救世主。わたしが戦ってきたのは、民衆を救うため……。
ヤーレの指先が触れ、魔法陣が発する光が徐々に鈍くなっていく。魔法陣はすっかり光を失い、やがて効力を喪失した。
ヤーレはふうと安堵の息をついた。
「これで……大丈夫なはずです」
「そのようだな。しかしジハラの結界が魔物を呼んでいたということは」
「そんなはずはありません! これは何かの間違いです! 我が主は……」
ヤーレは懸命に反論するが、彼女自身、以前ほど揺らがぬ信念を保てているわけではなかった。
「ジハラかどうかはともかく……この魔法陣は二重陣だね」
「二重陣? 何だ、そりゃ?」
「元は古の神……おそらくわたくしラフィアーレの魔法陣だったということだよ。ヤーレ、この魔法陣を刻みなおしてはいないでしょ? そんな形跡もないしね」
「ええ、元よりその魔法陣はジハラを物語る形でしたから」
ヤーレはうなずいた。
ナクティスは顎に手をやって考え込んだ。
「二重に意味を持つ魔法陣だと? そんなこと可能なのか?」
「どちらも古い神だからかな。不思議に似ているんだよ」
ラフィアーレは魔法陣に触れ、一言古の言葉で呟いた。
すると魔法陣は穏やかな光を放ち始める。
ラフィアーレと魔法陣の間に何かしらの相互作用が生じたのは間違いなかった。
ラフィアーレはしばらくぼんやりとあらぬところを見つめていた。
「おい、ラフィ、大丈夫か?」
ラグナドが彼女の顔の前で手を振る。
「……ああ、うん。平気」
「また何か思い出したのか?」
「ジハラのことを、少しね」
「ジハラとは何者だ?」
ナクティスが興味を惹かれたらしく、前のめりになった。
「う~ん、どう説明すればいいのかな。ジハラとわたしは似た者同士なんだ。わたしたちは同じ役目を担っていてね。わたしもジハラも物語を読むのが好きだった。わたしたちはたくさんたくさん読んだんだよ。だけど、わたしたちはたがいに好みが違っていてさ。あるとき、物語の解釈をめぐって喧嘩になったんだ。それ以来、わたしたちは決別してしまったんだ」
「何言ってんだ、お前?」
ラグナドがきょとんとして首を傾げた。
ラフィアーレは軽く頭を振って、にこりとした。
「ほんと、何言ってんだろうね? 自分でもまだよくわかっていないんだ」
「ジハラがこの結界を生み出し、魔物を操っていた。世界の異変にも、奴が絡んでいるのではないのか?」とナクティス。
「そうだね。絡んでいるのは間違いないと思う」
「どういうことです?」
聞き捨てならないとばかりにヤーレが食いついてきた。
「世界は滅びに瀕している。その元凶がジハラではないかと言っている」
ナクティスが冷淡に告げた。
むろん、ヤーレは反発する。
「あなた方はすべてをジハラに押し付けようというのですか! 結界に欠陥があって魔物を呼びよせてしまったことは認めましょう。だけど、それがジハラを否定する理由にはならない! ジハラこそ、世界を救う唯一絶対の神! 邪神を連れているあなたがジハラを謗るなど! 恥を知りなさい!」
「くだらない。では、ジハラに祈っていれば、世界は崩壊を免れるのか?」
ナクティスが突き付けた問いに、ヤーレは口を噤んだ。
「もっともジハラがすべての元凶であると確定したわけではない。我らは真実を確かめに行く。ただ滅びを待っているだけではあまりにも芸がないのでな」
「永遠なる都、トワの地へ向かおう」
ラフィアーレが言った。
「トワ? 永遠とは名ばかりの古代遺跡だぜ?」
「ラフィアーレが言うのだ、何かあるのだろう。そうだな?」
ナクティスの問いに、ラフィアーレは重たくうなずいた。
「うん。そこはきっとわたしの生まれた場所だから」
4
久方ぶりに瘴気が晴れた朝、支度を整えた三人は早々にサイードを後にした。
去り行く彼らの後ろ姿をヤーレは城壁から眺めている。
「ナクティス様には窮地を救われましたな」
セルヴィスが言った。
「セルヴィス卿、都を任せてもいいですか?」
「どうなさるおつもりで?」
「彼らの後を追いかけます。神託はもう授からなくなった身だけれど、今度はみずからの心に従ってみたい」
「よろしいかと」
ヤーレの目に強い輝きが満ちた。
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