第4話 エルフヘイムにて


     1


 渓谷を超えると、大森林が見えてくる。エルフの里――エルフヘイムが隠されている森。海のように青く広大な森だ。賢者の木といわれるオークの密集する森は語るように鳴り、鳥のさえずりが波のように木霊する。大森林にしか植生のない草花が行く道に彩りをそえる。木漏れ日が柱のように差し込んで緑を淡くきらめかせていた。

「綺麗な森だねえ」

 ラフィアーレの声が弾む。

「そう言っていられるのも今の内だ」

 ナクティスの言葉の意味はすぐにわかった。

 大森林は人の世とは隔絶された森。エルフヘイムに辿り着くどころか、一度迷い込んだら二度と抜けられないと云われる魔境。奥に進むうちに厚く覆いかぶさった森の笠が日差しを閉ざし、色濃い闇が漂い始める。太陽の位置も隠されて、方向感覚が狂う。さっきまでは耳に心地よかった葉擦れが妙な不協和音を搔き立ててくる。まるで妖精の悪戯のように。

「おいおい、本当にエルフヘイムに辿り着けるんだろうな?」

 途方もない森の広大さと闇の深さにラグナドが頭を掻いた。

「エルフヘイムに入る必要はなかろう。このまま抜ければよい」

「どうして? 久しぶりの故郷なんでしょ? 帰りたくないの?」

 不思議そうに問いかけるラフィアーレの顔を、ナクティスはじっと見つめた。そしてひとりで勝手に納得してうなずいた。

「そうだったな。余の目的はそうだった」

「エルフヘイムへ入る?」

「ああ」

「しかし道がわからんことにはねえ? このだだっ広い海原のような森でエルフの里を見つけるってのは、並大抵のことじゃねえぜ?」

「安心しろ。どのみち無暗にさ迷っていたところで、絶対にエルフヘイムへは辿り着けん。エルフヘイムにはよそ者を拒絶する結界が張られてあるからな」

「じゃあ、どうすんだよ?」

「結界は、よそ者には目晦ましだが、エルフにとっては目印になる。エルフにしかわからぬ魔法の気配が漏れ出ているからな」

「なるほど? そいつを辿っていけるってわけか?」

「余がまだエルフであるならな」

「どういうこった?」

 ナクティスはそれ以上は語らない。結界の魔力を探知することに集中しているらしかった。

「人の世と 境を分かちし エルフびと……ってか」

 

 どれほど歩いたのだろう?

 森は常に大きな闇を孕んでいた。

 魔法で呼んだ小さな光の球を先頭にうねり立つ木々の合間を縫っていく。

 時の感覚さえ失われていくようだ。太陽は落ち、月は昇ったのだろうか? それさえも定かではない。時という概念が大森林からは失われてしまっているみたいに。

 エルフであるナクティスに運命をゆだねるしかない。

「着いたぞ。ここがエルフヘイムの入り口だ」

 おいおいとラグナドが不満の声を上げる。

 無理もない。目の前には何本もの巨樹が絡み合い、壁のように道を閉ざしていたからだ。

「魔法陣が刻まれているね」

 ラフィアーレが目ざとく気付いた。

 ほとんど苔と蔓に覆われてしまっているが、確かに人為的な幾何学模様が幹に刻まれている。この魔法陣に気づき、なおかつ読み解けた者だけに道が開けるというわけだ。

 ナクティスが手をかざすと、魔法陣から仄かに光が立ち、絡み合った樹木の合間に道が開いた。

「まったくエルフってのは用心深いねえ。大森林に隠れているうえに、こんな小細工までやるんだからな」

「エルフがめったに人前に出てこないのもうなずけるね」

「そんなエルフ様がよ? 人の世に出て帝国を築いたのは、どうした了見なんだ?」

 ナクティスはその問いには答えず先を行く。二人は後に続いた。

 樹木の織り成す回廊を抜けると、眩いばかりの日差しに目がくらんだ。

 奇妙なほどに明るい光だ。ずっと暗闇の中をさ迷っていたから、余計に明るく感じるのだろうか? いや、おそらくそうではない……。

 鮮烈な光でぼやけていた視界が戻り、三人は気づいた。

 槍を構えたエルフたちにぐるりと包囲されていたことに。

「おいおい、手荒いお出迎えだなあ?」

 ラグナドは両手を挙げる。

 方々から「この裏切り者め!」と声が上がった。その声は何度も何度もしつこく繰り返され止む気配もなかったが、エルフたちの間を割って一人の女性が姿を現したとき、声はぴたりと静まった。

 美形の多いエルフの中にあっても、その女は飛び抜けて美しかった。エルフならではのなめらかで透き通るような白い肌。愁いを帯びたエメラルドのような瞳を縁取る睫毛が長い。高貴な顔立ちで、太陽の色の髪が腰で波打っていた。身はほっそりと、それでいて偉大なる老木のように堂々としている。着ている衣は、エルフの僧侶が身に纏うローブ。襟に金糸の刺繍が入っている。

「エルトリーゼか。久しいな」

「何百年ぶりでしょうね、ナクティス。何故今さら戻ってきたのです?」

 森の息吹を感じさせるような深く麗しい声でエルトリーゼが問う。

 ナクティスは答えなかった。

「あなたは禁を犯して出て行った。戻ってきたからには、どのような罰が待ち受けているかわかっていたでしょうに?」

「だからだよ、エルトリーゼ」

「……覚悟の上ですか。よろしい。望み通り、裏切り者には死を。ナクティスを捕えなさい」

「おい、ちょっと待てよ!」

 とラグナドが口を挟もうとしたが、ナクティスが制止した。

「この二人は大森林を抜けたいだけだ」

「道を示しましょう」

「安心した」

 ナクティスはエルフの兵士たちに引き立てられていく。

「待ってよ、ナク!」

 ラフィアーレが声をかけたが、ナクティスは振り返らなかった。

 エルトリーゼは二人を振り向き、ローブの裾をつまんで優雅に会釈した。

「竜王ラグナドとお見受けいたします。あなた方に他意がないのは一目瞭然。しかし我々はよそ者の来訪を好みませぬ。一夜限りの滞在を許可しますが、明日の朝には立ち去ってもらいます。よろしいですね?」

 問いかけている割には、取りつく島もない冷淡な口調だった。


     2


 ナクティスは身ぐるみを剥がされた後、地下牢に放り込まれた。粗末なベッドと土の匂い以外には何もない。

 ナクティスはベッドに腰かけ、ふうと長い息を吐いた。五百年以上ぶりの帰郷の末に投獄される。懐かしさを感じる暇もないが、妙に安心してしまっていた。

妙な感慨だ。もう何も考える必要がないと思うと気が楽なのだ。

 足音が聞こえ、門番が敬礼した。

 麗しい声に続き、麗しい姿が見えた。

「ご苦労様です」

「ナクティスめの所持品はこちらに!」

 エルトリーゼは台の上の品々を検分して、はっと息を呑んだ。

「わたしがナクティスを問い質している間、外の空気を吸ってきなさい」

 門番が持ち場を離れ、エルトリーゼは格子越しにナクティスを見つめた。

 その瞳には怒りのような悲しみのような複雑な色が滲んだ。

「巨大な帝国を築き上げ、そして滅ぼしたようですね。それは望み通りに?」

「形あるものが滅びるは必定。望み通りと言えば、そうなのかもしれん」

「あなたはこの羽根のことを覚えているのですか?」

 エルトリーゼはその指に、いつもナクティスが肌身離さず持ち歩いている不思議な色の羽根のついたペンを挟んでいた。

「忘れる道理もあるまい。我らの記憶と思いは長い」

「それなのに、どうしてあなたは戻ってきたのです? いえ、どうしてエルフヘイムを去ったの?」

 ナクティスは答えない。褪めた目の端にエルトリーゼを捉えているだけだった。

 エルトリーゼは気持ちを引き戻すように姿勢を正した。

「あなたは禁を犯し、何人ものエルフを引き連れ、エルフヘイムを去った。あなたは裁かれねばならない」

「無論だ。お前は族長として当然そうするべきだ」

「……何一つとして申し立てることはないと?」

「ない。何も」

「そう……」

 エルトリーゼが面を伏せたとき、門番が戻ってきた。

 彼女は顔を上げ毅然として告げた。

「大罪人ナクティス。そなたの罪はそなたの命をもって償わなければなりません」

 エルトリーゼは羽根ペンを胸に押し付け、踵を返し、ナクティスのもとを去った。


 エルフヘイムの建築物はすべてが木造である。家が大樹に添うように建てられているのは、大樹のように家が長持ちするようにと願いを込めてのことだ。

 ラフィアーレたちに用意された家は立派なもので、甘い香の匂いが立ち込める室内には木材のもたらすやわらかさとあたたかさが満ちていた。落ち着いた臙脂色の絨毯が敷かれ、エルフの歴史を紡いだタペストリーが壁に掛けられていた。

「さて、どうしよう?」

「エルフヘイムにおいては族長が法だというからな。このままじゃ、ナクティスの奴、これじゃねえの?」

 ラグナドが縛り首になるというジェスチャーをやった。

「何とかしなくちゃいけないよね」

「何とかするってどうするよ? ナクティスを助け出してここから逃げ出すか?」

「う~ん、最悪そうするしかないかもだけど、話し合いで何とかならないかな?」

「話し合いで何とかなることなんて、世の中ほとんど何もないぜ? 特に種族が違うと、しばしば話が噛み合わねえからな」

「そうかもだけど、このままナクを放っておくわけにはいかないよ。とりあえずナクの話を聞いてみよう」

 竜はエルフにも敬われている。客人扱いなので、見張りは付いていない。

 夜空に浮かぶハーフムーンが照らす道を辿り、牢屋に向かった。

 さすがに門番に見張られるが、面会は可能だった。

「ナク、平気?」

 ラフィアーレが心配そうに尋ねた。

「案ずるな。刑に処されるまでは何事もない」

「世に聞こえる悪逆皇帝ともあろう者が牢に繋がれた挙句、処刑とはな?」

 ラグナドが皮肉を言ったが、ナクティスに感情一つ動く様子はなかった。

 諦め切っている。そんな感じだった。

「ナク、覚悟していたんだね? エルフヘイムに入ると、こうなるって?」

「ああ。許可なくエルフヘイムの外に出たエルフは極刑だ」

「先に言えよ。そしたら、エルフヘイムに寄らずに済んだのによ?」

 ラグナドは腹立たしそうだった。

「ナクはこれを望んでいたの?」

「いつか言っただろう、ラフィアーレ。余は死地を探していると。人生の最後に故郷に戻れたのだ。悪くはあるまい?」

「本当にそれでいいの? 一緒に光の柱に行くんじゃなかったの?」

「あの光の柱が何であるか、関心がないわけではないが、死地を目指すのが余の目的だ。ここで旅を終えても何ら後悔はない」

「本当にそう思ってる?」

「ああ。余は長く生き過ぎたのだよ。皇帝の座にあった頃から、生に飽いていた。終わることのない無意味な戦、繰り返される権力闘争と裏切り……。どれほどの血が流れたか。玉座は死人の血で出来ている。いつからかそう感じるようになった。あそこに座っていると、どんよりと身が重たくなり、想いが泥に沈むようだった。いくら血が流れても何も思わなくなり、やがて何事にも飽き、終わりを望むようになった。ようやく願いが叶うのだ。余は満足だ」

「納得いかない」

 ラフィアーレはむっとしてナクティスを睨んだ。

「ナクは仲間だよ。仲間が死ぬのを黙って見ていられると思う?」

「余の刑が処される前に、ここを去ればよかろう」

「そういう問題じゃない!」

 めずらしくラフィアーレが感情的に声を荒らげた。

「話にならない。行こう、ラグ」

 と、ラグナドの手を掴んで、牢屋を後にした。

「行くったって、どこ行くんだよ?」

 ラグナドが問う。

「族長に直談判するしかないでしょ」

「無駄だと思うぜ? 世の中、何一つとして穏便にはことが済まねえように出来てんだ。ナクの奴を救うなら、相応の覚悟を決めなくちゃな?」

 竜の王のいう「相応の覚悟」とは里を焼き払うぐらいのことをいうのだろう。そして竜であるからにはそれぐらいのことは造作もない。

 だが、竜は裁定者である。個人的な理由によって力を行使することはない。もしそうしたなら、ラグナドは竜の誉れを地に落とすことになるだろう。


 月がさらに輝きを増した時分、族長家の戸をノックする音があった。

 蝋燭の灯を頼りに窓辺で物思いに暮れていたエルトリーゼは肩掛けを羽織り、応対に出た。ラフィアーレとラグナドを認めると、用件を察したかのように部屋に招き入れた。

 丸いテーブルに席を取った二人に、風味の香る紅茶を出す。

「うっめえ、酒の次に美味いな、こりゃ」

 ラグナドの評価は正しい。

 こんなに美味しい紅茶はここでしか飲めないだろう。滋味が五臓六腑に染み渡る。

「ナクティスのことで来たのでしょう?」

 席に着くと、エルトリーゼが切り出した。そして先手を打つように言葉をつづけた。

「ナクティスは禁を犯して里を出て行った。その罪は償われなければなりません」

「エルフヘイムの外に出るのが罪なの?」

「ええ。エルフヘイムは人の世と交わってはならない。人の世と森の境にあることで、我らエルフはオルテリアに通じる高い能力を保っているのですから」

「オルテリアってのは、魔法の源みたいなもんだっけ?」

「そう。すべての事象が記された場所でもある」

 ラフィアーレが答えた。

 エルトリーゼもまたうなずき、

「境を保つのが我らの役目。しかしそれをわきまえず、森の外に出たエルフたちがいた。そして彼らはよからぬたくらみを抱いた者たちをエルフヘイムに招き入れた。エルフヘイムが危機に瀕したことさえあったのです。竜王ラグナド、あなたが竜でなかったなら、我々は即座にあなた方を殺していたことでしょう」

「よくわかるよ」

 ラグナドは当然だとばかりにうなずいた。

「だけど、ナクはよからぬ者をエルフヘイムに連れ込んだわけじゃないでしょ?」

「そういう問題ではないのです。災いの種は蒔かれる前に防がねばならない」

「要するにナクティスの奴が里を出ちまった時点でアウトってわけだな。まあ、予防策を講じるって意味においちゃ正しい判断だな」

 ラグナドは紅茶を飲み干し、ラフィアーレに目をやった。

「それに、ラフィ、お前はよからぬよそ者なんじゃね? 邪神かもしれねえんだから」

「そうだったよ、トホホ……」

 切なそうに細めた目で天井を仰ぐラフィアーレ。

「そなた、ラフィアーレといいましたね」

「そうだよ」

「とても懐かしい響きがありますね。おそらくわたしたちはかつてあなたを知っていた。あなたが神であるというのも嘘ではないかもしれません」

「では、神の忠告として聞いておくれよ。わたしたちの旅にはナクが必要なんだ」

「なぜ?」

「世界の中心に光の柱が立ち、世界から記憶が失われているのには気づいているよね? このままでは世界はすっかり失われてしまう。わたしはそれを食い止めたいんだ、何としてもね。そのためにはラグとナクが必要なの。二人は『存在特異点』だから」

「存在特異点? 何だ、そりゃ?」

 ラグナドが首を傾げた。

「物語に必要な登場人物だといえばわかりやすいかな。ゼノスの魔王討伐の物語に、魔王は欠かせない登場人物でしょ? それぞれの時代において、物語の歯車を回す役目を担う人物は必ずいて、それがラグでありナクだった。世界から記憶が散逸するのを防ぐには、二人のように因果が強く集中する人物の協力が必要なんだ。わたしたちが出会ったのは、偶然じゃなかったんだよ」

「てことはなんだ? お前は俺たちと出会うために空から降ってきたってのか?」

「たぶんね」

 ラグナドは半信半疑といった顔だった。

 エルトリーゼは厚い目蓋を伏せ、

「本来は交わることのない時と空間が入り乱れている。あなたたちの言う通り、世界は滅びに向かっているのでしょう」

「だったら、協力して欲しいな」

 エルトリーゼは首を横に振る。

「だとしても、ナクティスの罪を許すわけにはいかない」

「エルフは頑固だね。なまじ寿命が長い分、記憶と感情が尾を引くんだ」

 ラフィアーレは半ば喧嘩腰だったが、エルトリーゼは涼やかに「そうね」と受け流す。子供と大人の言い争いを見ているよう。

「たとえどのような理由があろうと禁を犯した者を裁くのは、族長としてのわたしの務め。でなければ、示しがつきませんから」

「あんたが示しを付けたいのは、自分自身に対してじゃないのかい? なんだかそんな気がするな。ナクティスとの間に何があったのかは知らねえけどよ?」

 ラグナドが口を挟んだ。

 しばらくの間があって、エルトリーゼは席を立った。

「お引き取りを。明日の朝には、里を去っていただきます」

 話はそれまでだった。


 部屋に戻り、怒り心頭に発したラフィアーレはむうと頬を膨らませていた。

「こりゃ、今夜中に牢屋を襲撃してナクを救い出すほかないね」

「話し合いはどうしたよ?」

「話し合いが通じないのでは仕方ない。実力行使だよ」

 本気か冗談か、ラフィアーレはむんと両拳を固める。

 ラグナドはやれやれとばかりに肩をすくめ、

「ま、話し合いで解決できることなんざ何もねえってわかってたけどよ? 問題はナクの奴じゃねえかな? 俺たちが助けに行ったところで、あいつが動かなくちゃどうしようもねえぜ? あいつの顔、見ただろ? あれはマジで死ぬのを覚悟している奴の顔だったぜ」

「う~ん、そうなんだよねえ。ナクを説得しないとどうしようもないよ」

「エルフってのは頑固だからな」

「そうなんだよねえ。どうしよう?」

「さっき言ってた存在特異点……だっけ? あれはこの前の浮遊島の神殿で思い出したのか?」

「まあね。わたし一人では物語が終わってしまうのを防げないんだ。ナクは絶対に必要だよ」

 二人がナクティスを説得する手段を考えている間に幾許かの時が経ち、森は大きな夜をかぶる。

 月から降りてくるようなフクロウのさえずりが聞こえる静かな森に、突如として紅蓮の炎が舞い上がった。


     3


 大森林の抱く闇は懐深い。里のすぐ近くに大長老の木と呼ばれる巨木が立つ。エルフたちの伝承によると、大森林はこの老木から生まれたのだと云う。里を腕に抱くように広く根を張り、包み込む偉大な神樹。言うまでもなく、エルフたちの心の支えである。

 火の手は大長老の木のほうから上がっていた。

 何事かとラフィアーレたちが外へ飛び出すと、エルフたちが血相を変えて火の手を消し止めようとしていた。「ご神樹様は無事なのか?」と懸念する声が飛び交う。

「こいつは嫌な予感がするな」

「行こう、ラグ!」

 二人は火の手の方へ駆けていく。

 前方から魔法の飛び交う光の軌跡が見えた。

 エルフたちが魔物と戦っている。かつてこの森に存在したであろう獣たちの影。巨大なオオカミやイノシシだった。意思無き獣たちが雄叫びを上げて襲い来る。

 太古の獣たちの雄々しいこと。生半可な魔法ではびくともしない。

「おいおい、どうしてこんなところに魔物が出やがる?」

「わからないけど……」

 ラグナドは竜牙を振るい、ラフィアーレは魔法を放ち、エルフたちに加勢する。

 いかに森の獣たちが巨大で雄々しかろうと、竜と神には敵わない。

「竜王様! この先に、ご神樹様が! そして、エルトリーゼ様が! どうか、どうか、お助けくだされ!」

 二人は魔物たちを薙ぎ倒しながら森を突き進む。獣たちに交じって影と化したヒトもいた。森に火を放ったのはその者たちだろう。

 赤々と燃える行く手に大長老の木が見えてくる。

 神木を前にエルトリーゼの姿があった。

 彼女を中心として渦巻き状に清浄なる光が満ち、一瞬にして火の手を鎮めた。

 夜空を統べる月の明かりが降りて、神木の醜態を露にした。

 かつては……いや、今朝までは稀に見る美しい巨樹だったに違いない。

 だが今は。

 半ば朽ちていた。いや、朽ちていると表現するのは正しくないかもしれない。

 葉はすべて落ち、枝は焦げたように捥げ、うねり立つ灰色の幹のあちこちに膿んだような虚がぼつぼつと空いていた。一見して虚無に蝕まれているとわかり、なおも病状は進行していた。とろとろと樹皮が溶けるように流れ落ちている。

 エルトリーゼの絶望的な表情が、もはや手の施しようがないことを物語っていた。

「こいつは本当に神木なのかい? こいつが魔物を呼び出しているんだろうが!」

 ラグナドの言葉は真実だ。樹木に膿んだ虚が魔物を生み出している。

「……何故こんなことに?」

 エルトリーゼは混乱していた。

「光の柱の影響だよ。この神木は記憶を……情報を吸い出されているんだ。そうして生じた虚が魔物を呼び出す。残念だけど、神木は存在が完全に消失するまで魔物を生み出しつづけるだろうね」

「とんでもねえな? それで? こいつはいつ消失してしまうんだ、ラフィ?」

「記憶の深い木だからね。相応の時間がかかると思うよ。それに神木から生じた虚無は他の木々にも感染している。放っておいたら、エルフヘイムはおろかこの森そのものが全滅だ」

「どうすんだ、族長さんよ?」

 ラグナドが意思決定を促す。

 エルトリーゼは煮え切らなかった。

「できない。わたしたちエルフはご神樹様とともにあった。ご神樹様を失ってしまうなんて……」

「早くしてもらいてえもんだな? 悩んでいる間にも、魔物はうじゃうじゃ生まれてくるんだぜ?」

 ラグナドが竜牙を構えた。

 神木の虚は魔物を吐き出し続けている。

 吐き出された魔物たちは、ラグナドが、ラフィアーレが、そしてエルフたちが相手をしなければならない。

 神木が存在し続けるかぎり、魔物たちは無限に涌いて出るのだ。その上、虚無に浸食されて森は枯れゆくだろう……。

 エルトリーゼはそうとわかっている。

 それでも決断に踏み切れない。エルフにとって神木の存在は母に等しい。

 エルトリーゼは膝を崩し、顔を両手で覆った。

「……わたしにはできない」

「愚か者め。願いを忘れたか」

 背後から声があった。

 ナクティスだった。

「あなた、どうして!」

「騒ぎがあるので何事かと思い、重い腰を上げてやって来たらこのザマだ」

 ナクティスの握る刀の刃紋に古代エナンシアの言葉が浮かび上がった。

 ナクティスが一太刀、振るう。

 凄まじい雷が走り、神木を一刀両断にした。

 神木は凄まじい炎でもって轟々と燃え上がった。

「ああ、ナクティス! 何ということを!」

 エルトリーゼが非難するような目で振り仰ぐが、ナクティスは見下したように彼女を睨み返した。

「あなたは母殺しをやったのですよ!」

「どうせ死ぬ身だ。今さら一つ罪が増えたところで変わりあるまい? それに、俺は誓いを忘れてはいない」

 エルトリーゼははっと目を見開き、ナクティスを見つめた。

「ナク!」

 魔物たちを一掃し、ラフィアーレが駆けつけてきたが、ナクティスは踵を返した。

「どこ行くの?」

「余は囚人だぞ? 牢屋以上にふさわしい場所はあるまい?」

 ナクティスは突き放すように言って里の方へ歩き出した。

「もう! 頑固者!」


     4


 長い夜だ。明日には処刑されるかもしれぬ。最後の夜としては悪くないのかもしれない。

 ナクティスは藁葺きの粗末なベッドの上に横になり、エルフヘイムを去ってからの半生を振り返る。帝国を築き上げてから、救世主ヤーレに討たれるまでの五百余年。長いようでいて、思い返してみると短い。メモ用紙の半分も埋められず、くしゃっと丸めて棄てても悔いはないような人生だ。

 俺は何を成し遂げた?

 成し遂げたいことがあった。

 だが、おそらくそれは叶わなかった……叶わないのだろう。

 それだけが心残りではあるが、やるだけのことはやった。

 願いという呪縛から解き放たれる解放感があった。

 もういいのだ……。

 こつこつと階段を降りてくる足音があった。

 騒動の後始末に駆り出されていた門番が戻ってきたのだろうか。

 そうではなかった。

 格子越しに立っていたのは、エルトリーゼだった。

 胸にあの不思議な色の羽根ペンを押し付けるようにして抱いていた。

「どうした? 死刑日時の宣告にでも来たのか?」

 ナクティスはベッドに身を起こす。

 エルトリーゼはやわらかく微笑んだ。

「覚えているでしょう、わたしたちが子供だったとき、森で霊鳥フーマを見たわ」

「ああ……」

「フーマはめったにこちらに姿を現さない。この世とあの世を交互に飛び交っていると云われている。とても興奮して、はしゃいでいたわよね、わたしたち?」

「そうだったな」

 エルトリーゼは遠い目をして嬉しそうに話を続ける。

「とても大きくて美しい鳥だったわ。七色の羽根を持つ、というのも嘘じゃなかった。わたしたちの頭上をゆっくりと何回か大きく輪を描くようにゆったりと飛び回っていた。空からフーマの羽根がひらひらと舞い降りてきて、わたしたちは夢中で追いかけたっけ」

「お前は案外どんくさくて、木の根に躓いて転んだ。お前の分まで俺が羽根を拾ったんだ」

「そうだったわね」

 エルトリーゼがくすりとした。

「フーマの羽根を持つ者は願いが叶うっていうじゃない? どうしても羽根が欲しかったのよ」

「俺たちはそれぞれ羽根に願いをかけた。次期族長に定まっていたお前は、エルフヘイムを守ることに願いをかけた。そうだったな?」

「……そうね。あなたに願いを聞かれて、わたしはそう答えた。あなたの願いは何だったかしら?」

「あの頃はガキだった。実に他愛無い願いを口にしてしまった」

 ナクティスは顔を背け、深々と溜息を洩らした。

「あなたの願い、わたしははっきり覚えている。あなたはね、『エルトリーゼを守り抜く』と言ってくれたの」

「実に馬鹿なガキだった」

「だけど、本気だったんでしょう? あなたはわたしのことが好きだったもの」

「お前、そういうところ変わってないな……」

 ナクティスはうんざりしたように言う。

「あら、大事なことよ? だって、あなたはあのときの願いを忘れてはいないのでしょう?」

 エルトリーゼは得意げに羽根をひらひらさせた。

 ナクティスはやれやれとばかりに肩をすくめる。

「さっき、あなたがご神樹様を焼き払ったとき、わかったの。あなたは願いを忘れてはいないんだって。わたしの願いは里を守ること。里を守ることはわたしを守ることでもある。だから、あなたは躊躇なくご神樹様を焼き払う業を背負った」

 ナクティスは答えない。

 だがエルトリーゼは確信したように言葉を続けた。

「そうわかったときにね、何故あなたがエルフヘイムを去ったのかもわかった。竜王様が討伐されてから、森と文明の均衡は破れた。森に棲む動物たちは体が小さくなり、やがて知恵も失っていった。ヒトの文明が進めば、大森林とてただではすまない。エルフヘイムは丸裸にされ、エルフは境界人としての役目を失う。わたしにはどうしてあなたが巨大な帝国を築こうとしたのか、ちっともわからなかった。あなたはそんなに野心家でもなかったから……。でも、ようやっとわかった。あなたはきっとエルフヘイムを守りたかったのよ。わたしは族長として森の中からエルフヘイムを守り、あなたは皇帝として人の法により森の外からエルフヘイムを守ろうとした。そうではないかしら?」

 ナクティスの横顔は答えない。

「今でもときどき考えるの。あのとき、あなたの願いを先に聞いていたらって。そうしていたら、わたしはきっと自分の羽根を棄てなかったわ」

「どういうことだ?」

 ナクティスが聞き返す。

「相変わらず乙女心のわからない人ね」

 エルトリーゼの浮かべる笑顔に、ひとひらの涙が伝った。


     5


 騒動の夜が明けた朝、広場に縄に繋がれたナクティスが引き立てられてきた。

 エルフたちに交じってラフィアーレとラグナドも固唾を飲んで事態の進行を見守っていた。いっそナクティスを連れ去ってしまおうかとラフィアーレは耳打ちしたが、こういうときのラグナドの落ち着きには貫禄さえ感じられる。

「やっぱエルフたちのことはエルフたちで決めなくちゃいけねえんだ」

 それができなくなったとき、裁定者が必要とされる。ラグナドは経験上、そうわきまえていたのだ。

 だけど、ラフィアーレは気が気ではない。かけがえのない仲間を失ってしまうかもしれないのだ。

 エルトリーゼが毅然たる態度で広場の中央に進み出た。

 ナクティスとエルトリーゼが向かい合う。

 しばらくの静寂の後に、エルトリーゼが声を張った。

「これより逆賊ナクティスに審判を下す。ただちにナクティスの手から縄を解きなさい」

 エルフたちは困惑気味に隣の者と顔を見合わせ、ざわついた。

「ナクティスは滅びの瘴気に憑かれてしまったご神樹様を地に還し、我らの里を救った。この手柄を、里の外に出る禁忌を犯した罪と相殺することとする」

 判決に納得のいかない者も少なからずいただろう。

 だが、神木が魔物を呼び寄せる巣と化してしまった事実を否定できる者はいない。神木を地に還す決断ができた者もまたいなかった。

「わたしは族長でありながら、里を第一に考える決断が取れなかった不甲斐なさを恥じます。皆を無用に危険に晒してしまった自身の甘さを悔やみます。ナクティスの罪を許すのは、自身の過ちを悔い改めるためです。責められるべきは、族長であるわたし。異論があるならば、申し立ててください。皆が納得するまで何度でもわたしは頭を下げましょう」

 民は鎮まった。

 エルトリーゼを非難する声など一つも上がらなかった。

 それは彼女が今までどれほど里に尽くしてきたかを物語る。

 エルトリーゼは謝意を示すべく深く首を垂れた。ずいぶん長い間、そうしたままだった。

 ようやくにも顔を上げたとき、ナクティスの前に歩み、フーマの羽根ペンを彼に差し出した。

「ナクティス、あなたはすっかり許されたわけではありません。あなたの願いはまだ道半ば、ここにあなたの居場所はないのです。あなたには願いを叶えるために、まだやるべきことがあるはずです。行って、それを成し遂げなさい」

「やれやれ、死地を逃してしまったか」

 縄の解かれた手首をさすり、ナクティスはフーマの羽根を受け取った。

「これもまた運命か」

 こうして三人はエルフヘイムを後にした。

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