第3話 竜の牙が砕くもの


     1


 旅立ちから一月。

 ひたすら北へと進むが、光の柱は変わらず地平の彼方に聳え立つ。

 いつかは辿り着く。ラフィアーレのその言葉を信じるよりない。もっとも彼女は楽観的に過ぎるし、好奇心に底がなく、少し目を離したすきに珍しい動植物を追い求めて迷子になっているが。

 そのせいもあって寄り道は絶えないながらに幾つかの峠を越え、ようやくにもポロムスの炭鉱に辿り着いた。切り立つ谷間にあるドワーフたちの街である。

 ドワーフは職人集団である。製鉄炉からもうもうと立ち昇る煙が霧のように街を包んでいる。鍛冶職人が鉄を打つ音は風の音より自然でもはや環境音と化している。背は低いが筋骨隆々としたドワーフたちは働き者で、常に動いていないと気が済まない性分。体だけでなく心もだ。何をしているときにも、「エッホエッホ」と弾むような調子で口ずさんでいる。その掛け声が不思議と鉄を討つ音色とハーモニーを奏でていた。

「懐かしいなあ。何十年ぶりだろうな、ポロムスを訪れるのは」

「なんだ、ラグは前に来たことがあるんだ?」

「まあな。縁の深い街よ。一度は焼き払った街だからな」

「意味が分からん」

 ナクティスが突っ込む。どうせつまらん冗談だろうと相手にする気もないらしい。

 円形の広場までやってくると、中央に見事な竜の銅像があった。今にも飛び立たんばかりに羽根を大きく広げた躍動的なポーズもさることながら、鱗の一枚一枚を見事に表現した技術力はさすがドワーフと唸らせる。何より驚いたのは、銅像が古の魔王ラグナドの姿であったことだ。

「実物はこの何倍も雄々しいんだがな、まあ、よく出来ているほうだ」

 遠慮も謙遜も知らないラグナドが言う。

「なぜお前の銅像が立っているんだ? この街を焼き払ったんじゃないのか?」

「ああ。ドワーフたちは泣いて感謝したよ。そしてこの像を立てたんだな」

「意味が分からん」

 ナクティスは肩をすくめる。

「それで? ラグはどうしてここに立ち寄りたかったのさ?」

ラフィアーレが聞く。

「ちょいとした野暮用さ。昔の馴染みがいるんでね。いるはず……なんだがな」

 ラグナドはドワーフたちの鼻歌を口ずさみながら歩いていく。

 町外れに小さな鍛冶屋があった。活気のある工房ではなく、店内には白髭をたっぷり蓄えたドワーフにしても小柄な老人が丸椅子に腰かけて、のんびりパイプを吹かしていた。客に気づくと、深く落ちくぼんだ目を開いた。隻眼だった。

「お主……ラグナドか。久しいな」

「よう、ジャカ! 元気だったかい? こんなおかしな世界になっちまったんだ、この炭鉱ごと無くなっちまっているかとも思ったが、いてくれて助かったぜ」

「ああ、たしかにおかしなことになっちまっているらしいが……珍しいな、お前が連れを伴っているとは」

「ああ、ちょいと事情があってな。こっちはラフィアーレ、そっちの背の高いエルフはナクティスって名の独裁者だ。聞いたことねえか?」

「ナクティスの名は若い衆がたまに話しておるな」

「碌でもねえ話だろ?」

「まあ、そうだ。ラフィアーレは、ふむ……どこかで聞いたような気もするが、思い出せんな」

「やっぱそうか? 自称神様なんだけどよ、どの神話を漁っても、見つからねえんだ。こいつの話によると、世界はあの巨大な柱のせいで滅びちまうんだとよ」

「ホッホッホ、そりゃ豪儀だな」

「驚かねえな?」

「おかしなことが立て続けに起こっているんだ。そこにもう一つぐらい追加されたところで今さら驚かんよ」

「ずいぶん肝が据わってやがるな。相変わらずで嬉しいぜ」

「そんな話をしに立ち寄ったわけではあるまい?」

「おっとそうだった。こいつを打ち直してもらいたい」

 ラグナドは背負っていた大剣を地面に突き刺した。

 獲物を見つめる老人の目が鋭さを増す。

「竜牙がひび割れるとはな」

「勇者たちを相手にした」

「なるほど。お前はどれほどの人をこの牙にかけた?」

「必要な分だけ」

「これからは?」

「必要な分だけ」

「結構だ。打ち直すには一週間ばかりかかるぞ」

「いいぜ。元通りになるのならな」

「元通りでは持ちこたえられまい? どういうからくりかはわからんが、お前さんは若返っておるようだから」

「その通り! さすが話が早いねえ! だが、いいのか? その分、刃は血にまみれるぜ?」

「必要な分だけではないのか?」

「わからねえな。何しろ、俺ははぐれ竜だからな」

「まあ、よかろ。竜牙は預かっておくぞ」

「よろしく頼むよ。それで報酬は?」

「お前、金なんぞ持っておるのか?」

「いや、全然。しかし金を持っている連れがいる。悪逆皇帝、無辜の民から搾取した金をたんまりとな」

「ふざけるな」

 とナクティスが眉間にしわを寄せる。

「まあ、よかろ。わしらとて竜から金を取ろうなどとは考えておりゃせん」

「いいのか? 取れるときに取っておくのは鉄則だぜ?」

「他人の金を何だと思っているんだ、タダ飯食らいが」

 ナクティスが苦言を呈すると、ラグナドは悪びれた様子もなくガハハと笑った。


 炭鉱は眠らない。夕闇押し迫っても、活気を失わない。ポロムスの谷はこれまで訪れたどの街や村とも異なる雰囲気があった。家の屋根がドワーフの身の丈に合わせて低く、煙がもうもうと渦巻いているので空はいつも灰色にくすんでいた。地肌が露出した山は高くなるにつれ青さを増し、連なる山の稜線が街を囲うようだ。

「あれは何?」

 ラフィアーレが好奇心に目を輝かせた。

 車両が、もうもうとした黒煙を噴き上げ、ガシャガシャと車輪を線路に軋ませながら走っている。

「蒸気機関車だな。あれもドワーフの発明の一つだ」

 ナクティスが説明すると、ラフィアーレもラグナドも感嘆して機関車に見惚れた。

「俺の時代には、あんなのなかったぜ」

「あれに乗りたい。わたしはあれに乗りたい」

「ふむ、おそらく山を下りた先のサグレフに通じているはずだ。ちょうどいいんじゃないか」

「やったー!」

 ラフィアーレが嬉しそうに飛び跳ねる。

「だが一週間はここに留まるのだろう? さっさと宿を探すぞ」

「酒場もな。ドワーフの酒は美味いからなあ」

「自分の金で飲めよ……」


 翌日、ラフィアーレはナクティスとともに製鉄所を見学した。ラグナドが同行しなかったのは、単純に興味がなかったからだ。適当に時間を潰すと言ってぶらぶら出かけてしまった。

 ドワーフたちが鞴を踏んで炉に空気を送り込む様子をラフィアーレが飽きずに眺める横で、ナクティスは懐にいつも持っている不思議な色の羽根のついたペンで熱心に製鉄の工程をメモ帳に書き記していた。文化や技術に並々ならぬ関心があるらしい。

 その後、本屋に立ち寄った。ラフィアーレの意向だった。彼女は熱心に棚を眺め、様々な物語を手に取っていた。

「本が好きなのか?」

「うん。物語を読んでいると、ワクワクするからね。自分の知らない世界と出会えるじゃない? ナクはどう? 本は好き?」

「主に学術書と魔導書だな。物語はめっきり読まなくなった。だが、昔はこんなものを読んでいたよ」

 ナクティスが本棚から抜き出したのは、神話から抜粋された勇者ゼノスの物語。子供向けに書かれたもので挿絵が入っている。

「勇者ゼノス、好きだったの?」

「子供は、特に男の子はそうだろう。だが大人になると、魔王の立場にも共感するようになった」

「ラグに共感してるんだ?」

「あんな馬鹿だとは思わなかった」

「ラグが聞いたら怒るよ」

 たくさんの物語を買い込み、本屋から出たところで、ラフィアーレは満足そうに伸びをやった。

「さて、どうする? まだ夕餉には遠いが」

「ジャカのところに行ってみようよ。ラグの剣を打っているところを見学できるかもしれない」

 他にすることもなしとナクティスは同意し、二人はジャカの工房へ。

 ジャカは丸椅子に腰かけ、ぷかぷかとパイプを吹かしていた。

「こんにちは。どうですか、竜牙の具合は?」

 ラフィアーレは、台の上の竜牙に気づいた。刃のひび割れが修復されている。

「わ! もう治ったの?」

「そう思うかね?」

「そうではない?」

 ラフィアーレはこっくりと首を傾げる。

 ジャカはほっほっほと笑った。

「竜牙はその名の通り竜の牙だ。こいつは生きているのだよ。少し手を加えてやれば、おのずと傷は癒える。元通りになったというなら、そうかもしれん。だが、それでは今のあいつの力には耐えられまい。竜に化身したとて、すぐに折れてしまってはどうにもなるまい。ここからさ、ここからなんだよ」

「竜の牙を打ち直せる者がいるというだけでも驚きだ。そもそも人の世に竜が出てくることさえ珍しい。竜は人と関わり合うのをやめたと思っていたが」

「ラグナドははぐれ竜だからのう」

「はぐれ竜だと?」

「竜に性別はないんだよ。あえて言うなら女しかいない。なのにラグは?」

 ラフィアーレが説明すると、ジャカは深くうなずいた。

「よくご存知だ。竜は裁定者であるからな。自然と文明の境を見極める者たちなのだよ」

「裁定者? 竜がか?」

 ナクティスが首を傾げた。

「そうだ。人は、特に人間は文明を選んだ。文明を開くには森を削る。その行為が行き過ぎぬようにと境を見定めていたのが竜であった。だが、文明が進んでいくにつれ傲慢になっていく人を、竜は見放してしまった。竜は人と関わらなくなってしまったのだよ」

「たしかに竜は神話にしか存在せぬが。今もまだどこかで生きているのか?」

「人には辿り着けぬ竜の国があるというがね」

「ラグはどうしてこっちにいるんだろ?」

「さあて、奴がはぐれ竜であることが関係しているのかもしれんがね。あいつだけが未だに大地との古い契約に従い、裁定者としての役目を務めておるのだろう。わしらがかつて行き過ぎて山を削ったとき、あいつは街を焼いた」

「解せんな。文明の力を推し進めることでしか、公平なる世は約束されない。山を削るも仕方ない話だ」

ナクティスは言うが、ジャカは肩を揺らして笑った。

「いかにも森を棄てたダークエルフらしい理屈だ。しかしわしらはそうは考えぬ。ラグナドの裁定は当然のことだったのだよ」

「恨んではいないのか?」

「竜の裁定は自然の意志だ。山火事のようなもの、恨むも何もあるまい」

 ジャカの言うことは真実なのだろう。そうでなければ、竜の銅像が大事にされている道理はない。ドワーフにとって必ずしも魔王は悪ではなかった、ということだ。

 であるならば、なぜ魔王は勇者によって討たれたのか?

 日が暮れようとしていた。広場のベンチにラグナドが腰かけていた。愁いを帯びた目で山間に沈む夕日を見つめていた。

「……酒が飲みてえ」

 ダメだこいつ……と二人は思った。

 気配に気づいて、ラグナドが振り向いた。

「よう、製鉄所なんぞ見て面白かったのか?」

「面白かったよ。ラグも来るとよかったのに」

「興味ないね」

「お前みたいなのが裁定者とはな。頭が痛い」

「ああ?」

 ラグナドがナクティスを睨んだ。

「ラグは結構この街だと敬われているんじゃないの?」

「誰も俺が竜だと気づいちゃくれねえんだ。おかげで酒にもありつけねえ」

「竜の姿になればいいじゃない」

「ばーか、竜は気高いんだ。そう簡単に化身してやるもんかよ。だけど、そうだなあ、竜に化身してちょいと脅してやれば、せっせと酒樽運んでくるんだろうなあ。いっそやっちまうか」

「威厳も何もないね」

「昔はそうやって化けて出て、人との関係性をうま~く保ってたんだぜ?」

「そうした行為が人身御供譚に発展していったんだな……」

 酒や供物を捧げるだけで竜との関係性を保てていたのなら安いものだったろう。そこから人の命を捧げろという話に変化していったのは、おそらく竜と人の関係性が悪化していったからだ。

「お前は大地と取り交わした古の契約を守り続けているのか?」

 ナクティスが問うと、ラグナドはきょとんと目を丸くした。

「古の契約? 何だ、そりゃ?」

「竜は自然と文明の境を見定める裁定者なのだろう?」

「ああ? 聞いたこともねえ話だなあ。ひょっとしたらそんな契約がまっとうな竜にはあるのかもしれんが、俺には関係ないね」

「では、何故人と――勇者と戦った?」

「そりゃ、おまえ、あいつらが喧嘩を売ってきたからだろうがよ? 売られた喧嘩は買うぜ。当たり前だろ? 舐められたら終わりの世界だからな」

 それではまるでゴロツキたちの縄張り争いではないか。ナクティスは深く溜息をついた。

「何故こんな奴が魔王ラグナドなんだ。よくも神話で語られるイメージを木っ端微塵にしてくれる……」

「知るかよ。てめえらが勝手に作った話だろうが。俺には関係ねえ」

「もっともだ。ラグにはラグなりの言い分があったに違いない。うんうん」

 ラフィアーレは妙に納得していた。

「酒をけちるようになった人間に用はねえ! 思い知らせてやるぜ!」

「ワルだねえ」

「魔王だからな」

 魔王は陽気に笑った。


 そうして一週間が経ち――。

 打ち直された竜牙を手に取る。

 電流が背筋を駆け抜け、ラグナドの赤い髪を逆立てた。

「すげえ。かつての……いや、それ以上の力を感じるぜ」

「えー、そんなに? 見た目変わんないじゃん」

 ラフィアーレが首を傾げた。

「見た目じゃねえんだよ。こいつは人の見た目に合わせた仮の姿だからな」

「つまり本当の姿はこうじゃないってこと?」

 ラグナドはうなずく。

 真実の姿は、竜牙の名の通り、竜の牙であるらしい。

「助かったぜ、ジャカ。あんたに頼んでよかった」

 ジャカはぽわと煙の輪っかを吐き出した。

「剣一つ打ち直してこの世界が朽ちていくのを止められるなら安いもんだ」

「まあ、世界が本当に滅んでいるのか俺にはわからんけどな。とりあえず面白そうだから見に行ってみるさ」

「サグレフに向かうのだろう? 聞いた話によると、下った先ではいろいろおかしなことが起こっているそうだがな。お前たちの旅の目的と関係しているのかもしれんな」

 ジャカと別れ、蒸気機関車の乗り場に向かう。

 汽笛が高らかに鳴った。がたごとゆっくり滑り出す列車を追うために駆ける脚。

 間一髪、後部車両に飛び移り、ほっと安堵の息をつく。

 機関車は煙を噴き上げ、加速する。ドワーフの谷がみるみる遠ざかっていく。

「まったく……何が別れの一杯だ。危うく乗り過ごすところだ」

「ドワーフの作る酒は美味いからな。名残惜しいよ」

 ラグナドはしみじみ呟いた。実に残念そうである。

「わあ!」

 ラフィアーレが感嘆の声を上げた。

 山を抜け、眼下に大きな湖が広がった。日差しを浴びて、砕いたガラスをまぶしたように湖面がきらきら輝いている。

「綺麗だねえ!」

「悪かねえな」

「それに蒸気機関車! 速いねえ!」

「俺もこいつには初めて乗るが……結構揺れやがるな」

「この数十年の発明だ。物資の輸送の効率が飛躍的に上がった」とナクティス。

「このまま柱まで一直線だね」

「そういうわけにはいかない。路線網がまだ限定的だ。この列車は終点のサグレフまでしか行かん」

「なんでえ、そんなに便利じゃねえな」とラグナド。

「利便性は一日にして向上することはない。文明と共にゆっくりと発展していくものだ」

「文明の発展ねえ……」

 進行方向には光の柱が天高く聳え立っている。どこにいても、柱は北の地平の彼方に見えている。まるで悠久の太古からそうしてあるのが当然というように。少し前にはあんなものはなかったはずなのに、すでに多くの人々は柱を当然のものとして受け入れている。

「あの柱を見ていると、腹が立ってくるんだよね」とラフィアーレが膨れる。

「なら、なるべく無視するこった。嫌なもの見ていたって幸せにはなれねえぜ」

「そうして現実から目を逸らしたまま生きていけたら確かに幸せだ」

「ネガティブだねえ、皇帝様はよ?」

 ラグナドは陽気に笑った。

「サグレフに着くまで何時間もかかるんだろ? とりあえず中に入って酒でも飲んでようぜ」

「お前はどこに行ってもそれしかないのか」

「わたしは機関車がどういう仕組みで動いているのか知りたいなー」


     2


 サグレフに到着したのは夕暮れ時だった。

 黒黄海に面した港街だ。黒黄とは、黒い黄金――つまり現実にはあり得ぬほど類稀であることを意味する。大陸に囲まれた海であり、古くより豊富な水量と魚影で水面が黒く見えるほどの漁獲量で貴ばれている。

 ここトルカーナ地方においても一、二を争う活気のある街である。行商人が多い。ポロムスから鉱石や優れた工芸品が降りてくるのに加え、大国トゥールズを経由してはるか東方のめずらしい織物や陶芸品が入ってくる。

 目抜き通りには、東方を目指す旅人、行商人が行き交い、馬車が荷を運んでいる。道の脇を固めるように新鮮な魚や肉を売る店、パン屋、仕立屋、居酒屋、雑貨屋など様々店が出ており活況がある。日が暮れかけていても、土地ならではの特産品を売る物売りの甲高い掛け声、絶え間ない雑踏、騾馬のいななき、車輪の回る音が絶えない。

 人種も多様で、人間の他にドワーフ、そしてわずかにエルフもいたが、商売熱心なのはやはり人間である。金という概念を作ったのも人間だから、それを稼ぎたがるのもまた人間というわけだ。

 広場に建つ神殿の高い尖塔、その頂の鐘が重たい音で時を打っていた。

 腹の減る時刻である。三人は酒場に入って夕食を取った。名物の仔牛のローストとミートパイ。どちらにも甘辛いソースをたっぷりかけて食べるのがトルカーナ流。美味。ラフィアーレは幸せそうだ。ラグナドも……酒が飲めるから幸せそうだ。

「それで? ここからどう進路を取るんだ?」

 小食のナクティスはナイフを置き、話を切り出した。

「どう進むのが早いかな?」とラフィアーレ。

「まっすぐ北進するのが早いが山を越えなければならない。迂回するなら道は楽だが、だいぶ遠回りになるだろうな」

「馬車を使ってもまっすぐ行くのが早い?」

「馬を使う前提なら、迂回してもさほど変わらんだろうよ。だが、どのみち山岳地帯を抜ければ大森林に入ることになる。馬には不向きだ。それに……」

「それに?」

「馬を買う金がない」

「おいおい、皇帝様のくせに金欠って」

「お前が馬鹿みたいに酒を飲むせいだ。それももうお終いだがな」

「はあ? ふざけんなよ、てめえ!」

「ふざけているのは、お前の馬鹿げた飲みっぷりだ。そいつが最後の酒になる。よくよく味わって飲むことだな」

「なんてこった……。残り酒 悲しみあえて 深み増す……」

 ラグナドの目に涙が光る。

「じゃあ、これからの路銀はどうするの?」

「知らんな」

 そのとき、隣のテーブルから話し声が聞こえてくる。

 北の山に得体の知れない魔物がうろつくようになって、山越えに支障が出ているらしい。

 この原因を突き止め魔物を退治した者には報酬が出るとのこと。

 なるほど、その詳細は掲示板に貼り出されていた。銀貨二十枚。結構な報酬である。

「ちょうどよかった。これを引き受けよう」

 ラフィアーレは提案する。

 しかしラグナドは腕を組んでふんぞり返り、

「俺はごめんだね! なんで俺様が人間のために働かなくちゃならんのだ!」

「余も労働は遠慮する……」

「何なの、この人たち」

 頭が痛い。

「でもお金ないんでしょ?」

「金は奪い取るもの!」

「金は民が納めるもの」

「話にならないんですが」

 頭が痛い。

「そもそも世界が滅ぶか滅ばないかなんだ。働いている暇なんてあるのかよ?」

「働きたくないだけでしょ?」

「そうだが?」

 ラグナドは悪びれない。

 さすが魔王だ。

 ラフィアーレの溜息が深まる。

「そもそもがだぜ、ラフィ、金がなくちゃ生きられねえなんてのは、人間の妄想だぜ? 金なんざ、ないならないで案外何とかなるもんだ」

「そうかもだけど、明日からお酒飲めないよ?」

「そうだった。最後の晩餐……」

 ラグナドはしょぼんとする。

「とりあえず。依頼を受けておこうよ。どうせ北の山を通るわけだし」


 翌朝早くにサグレフの街を出発する。

 トルカーナ特有の海原のような田園風景を越えて山道に入る。オークの木が密集する森の笠は高い。ひんやり翳る最中に木漏れ日が降りる。青い毛並みのリスが梢を伝い、くりっとした瞳で三人を見つめていた。

「可愛いねえ」

「リスなんてどこにでもいるだろうがよ」

「わたしは初めて見るんだよ」

「そうなのか?」

「大抵のものは初めて見る」

「なかなか貧しい人生を送ってきたんだな。記憶喪失が関係しているのか?」

 とナクティス。

「たぶんね。だから、何をしていても新鮮で楽しいんだよ」

「神様の発言とは思えねえが、結構なことじゃねえか」

「そうだよ。見るもの聞くものすべてがわたしを作るんだ。楽しまなくっちゃ」

「まるで子供だな。羨むべきなのか」

「そういうナクはどうなの? 旅に出て、ワクワクしない?」

「そうだな。遠い昔に故郷を飛び出したときは、そんな気分だったかもしれんがな」

「故郷って、エルフヘイムか?」ラグナドが聞く。

「ああ。以来、一度も帰ってはいないが」

「どうして?」

 ラフィアーレが首を傾げる。

「さあな」

 そうとぼけて厚い目蓋を伏せたナクティスの横顔は、何かしら事情があったのだろうと窺わせる。

「そういや、この山を越えてさらに北へ進むとエルフヘイムのある大森林だろ?」

「そうなの? じゃあ、寄ることになるかもだね?」

「無理して寄る必要もなかろう」

 ナクティスはそっけない口調で話を打ち切る。取り付く島もない。

 やはり何かあったのだろう。エルフの寿命は長い。ナクティスがロムスを建国してからでさえ優に五百年以上が経っている。その間一度も里帰りしていないとしたら、よほど深い事情があるに違いないのだ。ラフィアーレもラグナドも無理に話を聞き出そうとは思わなかった。

 森の草花や小動物に心惹かれるラフィアーレのせいで散々に道草食いつつ山頂付近まで登ったとき、ふいに頭上から声が聞こえた。

「竜王さま、竜王さまではございませぬか」

 ラグナドは振り仰ぐ。

 崖の上に毛むくじゃらの大きな猿たちがこちらの様子を窺っていた。

「おお、猩々たちではないか」

「やはり竜王さま! こんな高みから失礼仕った!」

「よいよい」

 と言っている間にも、猩々たちは崖から降りてきてラグナドの前に平伏した。

「元気にしておったか、お主たち?」

「はい、この通りでござる。竜王さまこそ、勇者たちと激しく争ったと聞きましたが」

「ああ、そのはずなんだがな。気が付けば、見知らぬ地に放り出されていた。何やら世の中がおかしなことになっているようだが、お主たち、何か知らぬか?」

「おお、竜王さまもご存知なかったか。我らも困っております。いつからか、世は奇妙なことばかり」

「北の地平に立つ柱が何やら怪しいようだがな」

「たしかにあの柱は妙でござる。あの柱が立ってからというもの、世の理が捻じ曲げられてしまったようでござる」

「世の理が? どういうことか?」

「この先の谷間に古の神殿がござる。その辺り一帯は理に反して、地が宙に浮かんでいるのでござる」

「地が宙に浮かぶだと?」

「それだけではござらぬ。その神殿は妖しき影たちの温床となっているようでござる。心無き影たちがぞろぞろと神殿から涌き出しては、我らの領分を侵犯してくるのでござる」

「困っているんだな? 任せておけ。俺が得体の知れぬ影どもを滅してくれよう」

「おお、さすが竜王さま!」

 猩々たちは歓喜の声を上げた。

「しかしそのようなよからぬ者たちを生み出す神殿とは何なのだ? 何の神を祀っている?」

「元々は悪しき影が集うような神殿ではなかったのでござる。名も無き太古の神々を祀っていた神殿でござった」

「まあ、よい。俺に任せておけ」

 ラグナドは威勢よく請け負った。

 猩々たちと別れ、神殿へと歩み始めたとき、ナクティスが口を開いた。

「驚いたな。未だ言葉を話す獣たちがいたとは」

「ああ? どういうこった?」

「俺の時代には知性を持った獣は生き延びていない。魔王が勇者に敗れた後、獣たちは知恵を失くしたと神話は語るがな」

「そうだね。竜の王ラグナドがいなくなって、大きな動物たちは姿を消していった。知性を留めたのは、人間、エルフ、ドワーフ、つまり人だけに限られてしまった」

「なんだ、それ? 地獄じゃねえか」

 ラグナドはつまらなそうに鼻を鳴らした。

「さらに古い時代には、動物だけでなく植物も言葉を持っていたというけどね」

「それこそ神々の時代だな」

 と、ナクティス。

「関係ねえよ。今この時がすべてだからな」

 ラグナドは気にした様子もなく口笛を吹き始めた。


 猩々の案内通りに山道を進んだ先の渓谷。

 そこには確かに異様な光景が広がっていた。

 渓谷は底が見えぬほどに深い。それもそのはずで、本来そこにおさまっていたはずの大地がくり抜かれて宙を浮かんでいるのだ。頭上高くに浮かぶ浮遊島を見上げながら、三人は呆気に取られていた。

「おいおい、どういう理屈だ、こりゃ?」

「理屈も何もあるものか。島が浮かぶなど、森羅万象の理に反している」

「柱の影響だろうね。自然法則が局所的に失われているんだ」

ラフィアーレが重たく口を開いた。

「つまりこの渓谷だけ、法則が変わってしまったと?」

 ナクティスが顔をしかめた。

「うん。大地の記憶が……情報が吸い取られてしまったんだ」

「おいおい。じゃあ、どうすんだよ? どうやってあの島に辿り着くんだ? お前たちの魔法でひとっ飛びってわけにはいかねえのか?」

「空を飛ぶ魔法は古の時代には存在したというが」

「今は使えないよ。魔法も古いものから失われているんだよ」

 ラフィアーレが首を横に振った。

「魔法が失われている? 忘れられたわけではなく?」

「ナクは魔法の原理を知っているでしょ? 魔法も自然法則も実は同じところに記されているけれど、そこから言葉がどんどん消されていっている」

「なんだと?」

 ナクティスの眉間のしわがますます深くなる。

「小難しい話はわからんけどよ、あそこに辿り着けなくちゃどうにもならねえ」

「ラグが竜に化身してわたしたちを運んでくれればいいよ」

「ごめんだね! 俺の背はそんなに安くはねえんだ!」

「じゃあ、どうするのよー」

 ラフィアーレがぷうと頬を膨らませる。

「待て。妙だな」

 ナクティスが何かに気づき、足元にあった小石を拾い、それを渓谷へと投げた。すると、小石は放物線を描いて谷底へ落ちていくのではなく、風船のように浮かび上がっていくのだ。

「そっか! 浮遊島だけでなく、このあたり一帯から物理法則は失われているんだね!」

 ラフィアーレはぽんと手を打った。

「要するに飛び込めば、あの島まで飛んでいけるってわけだな? じゃあ、早速行くぜ!」

 いの一番にラグナドが崖からジャンプした。

 思った通り、ふわりと体が宙に浮かびあがる。まるで水面を漂っているような感覚。気分が良いものである。しかし、高度は上がっていくが、宙を泳いでの横方向への移動はのろかった。島に辿り着くにはかなりの時間を要するだろう……。

 ラフィアーレは魔法で風を呼んだ。突風が三人を巻き込み、一気に島へと押し流す。

 島の端に到着したとき、体が重たくなるのを感じた。島の中では重力は正常に働いているらしい。

 前方、島の中央に神殿が見えた。巨石を積み上げた太古の神殿。蔓や木の根が絡まり、それは血脈のように神殿の壁から天蓋に至るまで覆い尽くしていた。そのぽっかり開いた入り口の闇に何が潜んでいるのかは不明だが……。

「さあて、お出迎えが来やがった」

 ラグナドは舌なめずりした。

 いつの間にか、魔物たちが三人を囲い込んでいたのだ。

 魔物――その正体が何であるのかは杳として知れない。人の姿をしたものもいれば、見知らぬ獣の姿をしたものもいる。おそらくかつて、どこかの時代で、どこかの場所で存在していたものたちの影であるのだろう。目に光はなかった。精神を欠いている。ただただ肉体だけがここに存在し、何者かに操られて、生あるものたちを襲う。そのように生み出された哀れな影。

「ここは俺に任せろ。竜牙の切れ味を試してみてえ」

 ラグナドが大剣を構えた。

 迫り来る影たちに向かいて、薙ぎ払い、一閃――

 光の風が走った。

 その瞬間に、影たちは消し飛んでいたのだ。

「そう、これだよ、これ! 懐かしいこの感触! たまらんねえ!」

 ラグナドは満足そうに高笑い。

「さあて、神殿に向かうぜ! ついてこい、てめえら!」


 神殿内は光が差し込まず、薄暗い。ひんやりとした空気が物音を吸い込んでしまったかのように森閑としている。苔むした壁面には古代の王か神の姿が彫り込まれてあった。

 ナクティスは興味津々、七色の羽根ペンでメモ帳にスケッチしている。手早い割には精確な描写だった。並の腕前ではない。

「熱心だねえ」

 ラフィアーレはスケッチをのぞき込み、感嘆の声を上げる。

「見たこともない遺跡だ。考古学的価値がある」

「何の役に立つんだか」

 ラグナドは退屈そうに欠伸する。

「文化的素養に乏しい奴め」

「結構だね。とっとと魔物たちを討伐しようぜ」

 大広間に出た。奥より影の蠢く気配がある。魔物たちだろう。

 ここも俺に任せておけとラグナドが前に出る。

 ぞろぞろと無数の魔物たちがラグナドを取り囲んだ。

 その正面にいる女の顔を見て、ラグナドが眉を高くした。

「ん? てめえの顔はどこかで見たことがあるな?」

 すらりとした亜麻色の髪の美人だが、所詮は意思無き魔物、目に生気がなく表情に乏しい。話しかけても反応はない。

「知り合い?」

「う~ん?」

 ラグナドが首を傾げたとき、女が杖から光弾を放った。

 必殺の魔法だ。圧縮された聖なる光が唸りをあげて迸る。

 光弾は半身を逸らして躱したラグナドの背後の壁を粉微塵に粉砕した。

「凄い威力だね。生半可じゃないよ」

 ラフィアーレが感心する隣で、ラグナドが肩を揺らして笑う。

「思い出した。こいつは勇者の連れが得意としていた魔法だ。そいつは僧侶だったが、正の力を負の力に変換することで必殺の魔法を編み出したんだ」

「そう簡単にできることではないな」とナクティス。

「ああ、思い出したぜ。この女は勇者に連れ添っていた、名前はフィノーラとか言ったかな」

「聖女フィノーラか? まさかな……? しかしどうして魔物に?」

「知るかよ。だが、ちょうどいい。あの時の借りを少し返させてもらうぜ」

 いっせいに襲い掛かってくる魔物たちを相手にしている隙を、フィノーラは突いてくる。

 聖なる光弾は魔物たちをも巻き込んで炸裂したが、魔物に仲間意識はないのかもしれない。味方を巻き込むのも厭わず、フィノーラは魔法を放ち続ける。

 ラグナドは光弾を躱すのに手いっぱいに思えた。

「手こずっているようだな、ラグナド? 手を貸してやろうか?」

「ご冗談を。てめえこそ巻き添え食わねえように、そこでじっとしてやがれ」

 聖女の杖が一際強く輝き、これまでとは比較にならない巨大な光弾が放たれた。

 直撃すれば、影も残さず塵となるであろう。

 だが、次の瞬間、光弾は横に真っ二つに割れていた。

 そこで勝負はついていた。

 竜牙の一閃が光弾ごとフィノーラを切り裂いていたのだ。

 フィノーラは言葉もなく、最後まで表情一つ変えず、塵となって消えていった。

 やはり実体ではなかったのか。

「幽霊……というわけでもなさそうだがな? 実力は本物だったが……どうにもわからんことだらけだ」

 ラグナドは竜牙を背負い、肩をすくめた。

「奇妙な魔法陣が見えるが。あそこから魔物は涌き出しているのではないかな?」

 広間の中央、ナクティスの示すところに、見慣れぬ魔法陣が光っていた。

 ただならぬ妖気を放っている。魔物を生み出しているのは間違いなさそうだ。

「古い魔法陣だね。オルテリアと通じているのは間違いないね」

 ラフィアーレが魔法陣の前で膝を折った。

「オルテリア? 何だ、そりゃ?」

 その問いに答えたのは、ナクティス。

「異次元にあるとされる魔法の源泉、いや、この世の理が記されたフィールドとでも言うべきか。魔法使いはオルテリアに通じ、そこに記された言葉を読み解くことで魔法を発動する」

「さっぱりわからんのだが?」

「無知蒙昧の輩め。要するに優れた魔法使いほど、オルテリアに通じており、うまく魔法を扱えると思っておけばよかろう」

「どこにあるんだよ、そのオルテリアとかっての」

「この世ではない。精神世界、あるいは異なる次元と考えられている」

「ふ~ん、やっぱりわかんね」

「竜は大地と通じている生き物だからね。オルテリアからは一番遠い存在かもしんない」

 とラフィアーレが口を挟んだ。

「ラフィアーレ、この魔法陣を封じることは可能なのか?」

「たぶんね」

 ラフィアーレは魔法陣に手を置き、一言二言、呪文を唱えた。

 その言葉は一瞬光の文字となって宙に浮かび上がり、やがて魔法陣に吸い込まれて消えた。すると、鈍く光っていた魔法陣がすっかり光を失ったのだ。

「これで大丈夫。もうここから魔物は涌いてこないはずだよ」

「魔法陣が消えて、この島が墜落しちまうなんてことにはならねえだろうな?」

「たしかに物理法則が局所的に消失している中、島の中でだけ重力が正常に働いているのは解せんな」

「う~ん、そう思うけど、この魔法陣には重力を生むほどの力はないよ」

「よくわかんね。世の中、難しいのね」

 ラグナドはお手上げというように両手を挙げた。

「この神殿に限って古代の魔法陣が働いていた理由が気になるな。奥に何か隠されているのかもしれん」

「そだね。もうちょっと探索続けてみよっか。面白いもの、見つかるかもだし」

 ラフィアーレは好奇心を抑えきれない様子だった。

 神殿の奥に進むと、祭壇があった。

 壁には石板を抱えた女神らしき像が彫り込まれている。神殿はおそらくこの女神を祀るためのものなのだろう。

 石板には何かしら文字が記されている。

「古代エナンシア語だな」

「読めるのか?」

「魔法はすべて古代エナンシアの言葉で記述されるからな。失われた言葉も多々あるが……」

 ナクティスが石板の文字を解読していく。

「言葉で時を紡ぐ女神ラフィアーレ……あまたの目を持ち、世界の最後を見届ける。女神の目は世界を滅ぼす……これ以降は読めないな」

「ラフィアーレ? これってお前のことなのか? お前、ほんとに神だったのか?」

「そう言ったじゃん」

 ラフィアーレは胸を張った。

「だとしたら、さっきの魔法陣も魔物たちも、お前のせいってことになるんじゃねえの?」

「……そうかも」

「とんだ邪神じゃねえか。石板に書いてあることも邪悪だし」

「そうだよね、邪神だよね。トホホ……」

 明らかに凹むラフィアーレ。

「待て。石板に刻まれている魔法陣はさっきのものと異なるぞ。解読できるか、ラフィアーレ?」

「できると思うよ。したところで、何にもいいことないかもだけど……」

 ラフィアーレは石板に手をかざす。

 その刹那、掌に呼応するように魔法陣が輝き立つ。

 ラフィアーレはその光のすべてを吸い込むかのようだった。

 魔法陣から輝きが失せたとき、ラフィアーレはあらぬところを仰ぎ、ひどくぼんやりしていた。

「おい、ラフィ? 大丈夫か?」

 ラグナドが彼女の肩を揺すった。

「あ、ああ……うん。平気」

 ラフィアーレは何度か軽く頭を振った。

「どうした? 何か解ったか?」

 ナクティスが問う。

「うん……島の重力が正常だったのはこの魔法陣のおかげだったよ」

「異常な力だな。他には何かあったか?」とナクティスが問い詰める。

「ああ、うん……あと、魔法陣にわたしの記憶が封じられていたよ」

「お、マジか! じゃあ、自分のこと、すっかり思い出したってわけだな?」

 ラフィアーレは首を横に振る。

「全部ってわけじゃない。ここに記録されていたのは、わたしの記憶のごく一部に過ぎない。おそらく他の場所にもわたしの記憶が散らばって記録されている」

「なぜそんなことに?」

「たぶん……わたしは敗れてしまったんだ。わたしはこことは異なる世界にいたんだろうけど……何者かに負けて、この世界に落とされてしまった」

「ふむ? 神話には、そういった神々や堕天使の話が数多く語られているがな?」

「うん。それでこっちに落っこちてしまったときに記憶が散り散りになってしまったんじゃないかと思うんだよ」

「負けたってのは、つまり、ラフィが邪神だったから?」

「そうだね、邪神だから討伐されてしまったのかもね。トホホ……」

 ラフィアーレは明らかに凹んでいた。

「各地に散らばっているであろうお前の記憶を集めると、世界がおかしくなってしまった理由も判明するのか?」ナクティスが聞く。

「世界のことはともかく、わたし自身については思い出すかもね。思い出したところで、いいことないかもだけどね……」

 ラフィアーレはまだ凹んでいる。

「万事を詳らかにする必要はあるだろう。何より、お前はこの世界を救いたいんじゃなかったのか?」

「そうだよ?」

「だったら、しゃんとしろ。己を知ることを恐れるな」

「うん、ナクの言う通りだ。落ち込んでいる場合じゃないよね」

「そうだぜ? たとえラフィが邪神であったとしても、俺たちはお前を見捨てねえよ」

「ありがとうね、ラグ。トホホ……」


     3


 神殿を出ると、向こうから青年が歩んでくるのが見えた。

 紺色のマントを羽織った凛々しい青年であったが、翳のあるやけに深刻そうな表情だった。魔物ではないようだが。

 ラグナドがおおっと彼に気づいて陽気に手を振った。

「よう、久しぶり~!」

 喜色満面、親しげな様子で青年に近づいていく。

 青年は憂いに満ちた顔を上げ、怪訝そうにラグナドの下から上までを眺めて、

「……誰だ、お前は?」

「俺だよ、俺! 忘れちまったのかよ? つれねえなあ? 共にしのぎを削った仲じゃねえかよ?」

「知らん」

「そんなわけねえだろ。こいつを見てくれよ。お前さんが忘れるわけねえんだから」

 と背負っていた竜牙を大地にずどんと突き刺す。

 青年の顔色がみるみる変わった。

「その剣、お前、まさか……」

「思い出してくれたかい、勇者様よ?」

 ラグナドがにやりとあくどい笑みを浮かべた。


「久しぶりだなあ、ゼノス」

「……貴様、本当に魔王ラグナドなのか?」

 勇者ゼノスは険しい面持ちで身構え、腰に差している剣に手をかけた。

「ああ、若返っちまったから、わからねえんだな? 俺も理屈はよくわからねえんだよ。だが、俺は俺さ。お前を殺す者さ」

「……なぜ貴様がこんなところに?」

「ちょいとお仲間に頼まれちまってな。お前さんこそ、ここに何の用だい? ああ、そういえば、かつてのお前の仲間を今さっきぶった斬ったなあ。何て言ったっけ、あの賢者? そうそう、フィノーラっていったっけ?」

「何だと? 貴様……」

 剣を握る手に力がこもる。ゼノスの目尻が鋭く尖り、凄まじい殺意が全身から漲った。

「あの賢者、お前の女だっけ? よもやあいつを探してこんな山奥まで来たわけではあるまいな? だとしたら、ご愁傷様、無駄足だったな?」

「……魔王ラグナド、なぜ生きているのかわからぬが、むしろ僥倖! フィノーラを手にかけた罪、万死に値する! 何度殺しても、飽き足りぬ!」

「いいぜ? その顔! そういう顔した奴とやり合うのがたまらねえ! ゾクゾクすらあな!」

 ラグナドは高笑いして竜牙を構えた。

「ちょっとおかしなことになってるね」

 魔王と勇者の間に漂うただならぬ因縁と緊迫感に当てられて、ラフィアーレは困った顔をした。

「ああ、まさか勇者ゼノスとはな」

 ナクティスは物怖じせぬ足取りで二人の間に割って入った。

「何だ、ナクティス? こいつは俺の獲物だ。邪魔すんなよ?」

「まあ、待て」

 とナクティスは勇者を振り向き、メモ帳とペンを差し出した。

「もし貴殿が真実勇者ゼノスだというのなら、サインをくれまいか?」

「ああ、てめえ! 舐めてんのか! 敵にサインをねだるとはどういう了見だ!」

「余にとってゼノスは敵ではない。神話に語られる英雄だ。それにゼノス直筆のサインとあらば、高値で売れる。働かなくて済むぞ?」

「てめえ、勇者より先に殴り倒すぞ!」

 ラグナドが目を吊り上げて吠える。

 ゼノスがぎろりとナクティスを睨む。

「魔王の仲間はすべて敵。許さぬ。貴様たちすべて討ち取る」

「いいねえ、迷いがない」ラグナドはにやりとする。

「多くの人々がお前たちのために命を落とした。お前を討つのに、迷いが生じるはずもなかろう?」

「いかにも手前勝手な言い分だな? 自分たちがやってきた殺戮は棚の上かい? だが、俺は構わねえぜ? 強い者が勝つ。単純明快だ。決着を付けようぜ、勇者様よ?」

「どういった理由で蘇ったのか知らんが……今度は間違っても復活できないように粉微塵にしてくれる」

「いいねえ、人間だけが持つ邪な殺意だ。俺の持つ純粋な殺意とどっちが勝るか、楽しみだねえ」

「……ほざけ」

 両者、共に構えた。

 達人同士の戦いとあらば、一瞬で勝負がついてもおかしくはない。

 にらみ合いが続いた。

 両者、ことのほか慎重だ。

「仲裁、ダメだったね」

 ラフィアーレが戻ってきたナクティスに声をかけた。

「別に仲裁に入ったわけではない」

「ほんとにサインが欲しかったの?」

「勇者ゼノスだぞ? 余も子供の頃にはゼノスの冒険譚に心躍らせていたものだ」

「わかるよ。残念だったね」

「ああ」

 先に打って出たのはラグナドだった。

 縦一閃、とてつもなく重い一撃が振り落とされた。

 勇者は一瞬にして受けることが不可能と見切った。紙一重で躱す。

 竜牙の一撃は大地を砕き、砂埃を巻き上げた。

 その砂埃を目晦ましにして間合いを詰めたゼノスの鋭い突きがラグナドの喉を狙う。

 が、ラグナドも読んでいた。

 剣圧が首筋を掠めこそしたが、必殺の一撃とはならない。

 勇者はここぞとばかりに責めかかった。

 竜牙のごとき大剣を振るう魔王を勇者が敏捷性と手数で圧倒する。

 ラグナドは攻撃を裁くのに手いっぱいに見えた。

 ナクティスは感嘆する。

「さすが伝説の勇者だ。人間離れした強さだな。やはりサインをもらっておくべきだったか」

「ん? もらっておくべきだった?」

 その言い方に引っかかりを覚えた。もうもらえるチャンスがないと言っているように聞こえたからだ。そして、ナクティスの意図はまさにその通りだった。

「勇者は勝てん。このままではな」

 ラグナドはじりじりと後退しつつ、相手の攻撃をいなしていた。

 攻撃の手を緩めないゼノスから一旦距離を置くべく、横一線大きく薙ぎ払う。

 ゼノスは後方に大きく飛んで逃れた。

 ラグナドは胸の傷に手をやった。赤い血が付着した指先を舐める。

 そして言った。

「つまらん。やめだ。勝負が見えた」

「……なんだと?」

 ゼノスが目を見開いた。

「勝負が見えたとはどういうことだ! 臆したか!」

「臆すも何も。このままやり合っても、お前は絶対に俺には勝てんぜ? 百回やって百回、お前の負けだ」

「……馬鹿が! 以前、僕たちに喉を貫かれた者の言うことか!」

「それだよ、それ! わかってるじゃねえか。俺が曲がりなりにも後れを取ったのは、『お前たち』であって、『お前』じゃねえよ。お前たち人間は一人では何もできねえ。群れてナンボだろ。そうでなくちゃ、人間風情が竜と対等にやり合えると思うか? 知っての通り、俺は竜に化身できるんだぜ? もっとも今の姿のままでもお前を屠るのは簡単だがな?」

「……ほざけ」

「やってみるか? 忠告しておいてやるが、若返って俺の力は以前の何倍にもなっているんだぜ?」

「たとえそうだとしても。ジハラに導きかれた僕がお前に負けるなどありえない」

「やれやれ、物わかりの悪い奴だ。だから勇者なんてやってられるんだな。まんまと神輿に担がれやがって」

「……戯言はここまでだ。次の一撃で貴様の喉を掻き切る」

 勇者の剣が稲妻を帯びた。魔法剣だ。

 勇者の魔法剣は金剛石をも容易に切り裂いたと物語は伝える。かつて魔王を討ち滅ぼした必殺の剣である。

「いいぜ、俺は逃げねえ。真っ向から受けてやるよ。来い、ゼノス」

「……後悔する間もなく片付けてやる」

 敏捷性に優れるゼノスの剣は、魔王が剣を振り下ろす前に魔王を仕留めるはず。

 ゼノスはそう判断したはずだ。

 ゆえに先手に打って出るのを躊躇わなかった。

 彼の計算は間違ってはいなかった。

 ラグナドが以前のままであったなら……。

 相手を捉えたと思った瞬間にゼノスの網膜を焼いた影は何だったのだろう?

 まるで世界を覆う焦げ付くような禍々しい影だった。

 その巨大な影は剣を振り下ろした。

 ゴッと竜の哭く声が聞こえた。

 気が付いたとき、ゼノスは地に両膝をついていた。

 痺れなのか、恐怖からなのか、手が震えていた。

 長年共に死路を潜り抜けてきた剣が……その刃が真っ二つに折れていた。

 その折れたところから、遥か後方にまで大地が裂けていた。

 恐る恐る見上げると、何ら特別な感情の兆さない魔王の顔があった。

「わかっただろう、人間ゼノス。お前ひとりでは無力なんだよ」

 ラグナドは踵を返して、軽く手を振った。

「今のお前じゃ相手にならん。どうしてもやりたけりゃ、腕を上げた上でかつての仲間を集めてくるんだな」

「貴様が……貴様がフィノーラを殺めたのではないのか!」

「あ、ああ」

 ラグナドは思い出したように天を仰いで、頬を指先で掻いた。

「そうなんだけどよ、そうじゃないっていうか。どう説明すりゃいいんだ?」

「お姉さんに任せなさい! さっきラグナドが倒したのは聖女フィノーラであって、聖女フィノーラではないのだよ!」

 ラフィアーレは完璧に説明できたといわんばかりに胸を張った。

「情報量が一切増えてないじゃないか。お前たちはなぜそんなに説明が下手なんだ」

 やれやれとばかりにナクティスが間に入った。

「勇者ゼノス。貴殿は聖女フィノーラを探していたのか?」

「……ああ」

「何故?」

「魔王討伐した後、僕とフィノーラは結婚する約束を交わしていた。だが、彼女はある日忽然と姿を消した。以来、僕はずっと彼女を探して旅をしている。そしてこの神殿で彼女らしき人物を見たという話を聞いた」

「彼女が消えたのはいつ、どのようにして?」

「世界がおかしくなった日……遥か彼方に妙な光の柱が立ったあの日、フィノーラは突然僕の目の前から消失したんだ。まるで煙のように……」

「ふむ。やはり光の柱が絡んでいるのか」

「いったいあの柱は何なんだ? 世界はどうなってしまった? フィノーラはどこにいる?」

「一つ一つ説明するぞ。まずここにいたフィノーラは影だ。実体ではない。不運なことだが、おそらくフィノーラの実体はあの光の柱に呑み込まれてしまったのだろう。あの柱はこの世の事々の情報を吸い上げているらしいのでな。世界が奇妙なことになっているのも、柱が原因だ。もっともこれはそこにいるラフィアーレの話が正しければ、だがな」

「わたしの話は正しいはずだ。自信がある」

 ラフィアーレは胸を張った。

「だそうだ」

「……では、フィノーラは今どこにいる? 柱に向かえば、彼女と再会できるのか?」

「さあ、そこまではわからんな」

「俺もよくわかっちゃあいねえが、このまま放っておいたら、すべてがあの柱に呑み込まれて、世界は終わっちまうらしい。俺たちはそいつを食い止めるべく、旅をしているってわけ」

 ラグナドが言うと、ゼノスは口の端を引き攣らせて嘲笑った。

「笑わせる。お前が世界を滅ぼそうとしていた元凶ではなかったか?」

「俺は世界を滅ぼそうとしていたことなどないが?」

「人々を苦しめていただろう!」

「さすが傲慢だな、人間よ。お前たち人間のいない世が世界の終わりではない」

 ラグナドが冷たく威厳に満ちた声で言うと、勇者は悔しそうに口を噤んだ。

 北の地平の彼方に聳え立つ光の柱を、ラグナドは遠い目で見つめた。

「お前たち人間の理屈に付き合う気は毛頭ないが、世界が滅びかけているのを指をくわえて眺めているつもりもない。俺たちは事の真実を確かめに行く。お前はどうするんだ、勇者よ?」

 その問いと打ちひしがれた勇者を後に残し、三人は浮遊島を去った。


「ジハラか……」

 ナクティスがぽつりと漏らした。

「どうしたんだ?」

 ラグナドが問う。

「嫌な名だと思ってな」

「ああ、わかるぜ。ゼノスの奴、事あるごとにその名を口にしていたな。俺にはさっぱり何のことかわからんがな」

「神様の名前だよ。とてもとても古い神様の名だ」

 ラフィアーレが口を挟んだ。

「そうなのか? お前とどっちが古いんだ、ラフィ?」

「う~ん、どっこいどっこいかな? 天地創造の瞬間には、わたしたちはすでに存在していたんだ」

「だとしたら、お前とんだ婆さんじゃねえか」

「そうだよ、とても怖~い婆さんだよ」

 ラフィアーレは冗談めかして言う。

「ジハラも古代には数多いる神々の一柱に過ぎなかった。だが、ジハラに導かれた勇者が魔王を討伐したことでジハラを絶対的な神とする信仰が起こり、他の神々が虐げられ始めた」とナクティス。

「そうなのか? じゃあ、ラフィも?」

「う~ん、たぶんね」

「記憶はあんまり戻らなかったのか?」

「断片的なんだよね。穴埋めパズルみたいに記憶がところどころ抜け落ちたままだ」

「では、お前が祀られている場所を発見すれば、穴埋めは埋まっていくわけだな?」

「そう思うよ、ナク」

「邪神を祀っている場所が他にあればいいけどな?」とラグナド。

「そうなんだよね、トホホ……」

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