第10話
少し、昔の話をしよう。
これはまだ少年が、陰キャでもぼっちでもなかった頃の物語だ。
◇◇◇
いつもより少し早い朝。まだ太陽もぼんやりとした光を見せるだけで、街は静まり返っている。リビングの時計は午前5時半を指し、普段ならまだ眠っているはずの時間だ。
「修学旅行って、そんなに荷物いるの?」
小学6年生の蓮は、テーブルの上に並べられた荷物を見て小首をかしげた。着替えに洗面用具、タオル、ビニール袋、日記帳、カメラ、そして父親がしきりに押し付けてくる絆創膏や薬のセットまで並んでいる。
母親の
「そりゃいるわよ。初めて家族と離れて泊まりに行くんだもの。何が起こるか分からないでしょ?ほら、雨具はちゃんと入れた?」
「んー、入れたと思うけど……」
蓮は面倒くさそうに顔をしかめ、床に置かれた大きなリュックの中を再確認する。父親の
「まぁ、理恵、そんなに心配しなくても大丈夫だって。蓮はもう12歳だぞ?それに先生や友達もいるんだから、いざとなったら助けてもらえるさ」
「でもねぇ……」理恵は少し唇を尖らせ、父親の言葉を軽く睨むような目で見つめた。
「あなたも男の子だから分かってないのよ。蓮がちゃんと準備してるかどうかなんて、信用できないもの。蓮、まだポケットティッシュが入ってないじゃない。あとハンカチももう一枚入れておきなさい」
「えー、そんないらないよ。男は身軽が一番なんだから!」
蓮は不満そうに母親を見上げるが、理恵はその抗議をものともせず、どっしりと構えている。「修学旅行は『身軽さ』じゃなくて『準備万端』が大事なの。後で困らないためにね」
「母さんの言うこと聞いておけ、蓮。お母さんは一番お前のことを心配してるんだからな」
父親の智之はそう言って、蓮の頭を軽く撫でた。
蓮は少しだけ目を伏せる。家族と離れるのは初めてではないけれど、今回は2泊3日という長い旅だ。いつも当たり前に家に帰れば、母親の笑顔と父親の温かい言葉がある。そう思うと、ほんの少しだけ、胸の奥がきゅっとなる。
「……わかったよ。ちゃんと入れる」
「よし、いい子ね」理恵は満足そうに頷くと、蓮のリュックのサイドポケットにティッシュをそっと差し込んだ。
「ところで、お土産は何を買ってくるんだ?」父親が唐突に話題を変える。「父さんはな、温泉饅頭がいいな。お母さんには小洒落たアクセサリーとかどうだ?」
「そんなお金ないよ!お小遣いだって決まってるし、全部使っちゃったら自分の分もなくなっちゃうし……」
「ふふ、冗談よ。蓮が楽しんでくれれば、それで十分だから」
理恵は笑顔で蓮を見つめ、優しく髪を整えてくれる。
「だけどね、帰ってきたら旅行の話、たっくさん聞かせてね。蓮がどんなことを体験したか、お母さん楽しみにしてるから」
「……うん。ちゃんと話すよ。あと写真も撮ってくる」
「おぉ、頼もしいな!」父親は蓮の肩を軽く叩く。「お前にとって忘れられない思い出になる旅になるといいな。行く先はどこだっけ?奈良と京都だったな?」
「うん、奈良と京都。お寺とか神社とか、たくさん回るらしいよ。シカも見られるんだって」
「いいなぁ。俺も小学生の頃に行ったけど、鹿せんべいあげてたら囲まれて大変だったなぁ。あれは恐怖体験だったぞ。蓮も気をつけろよ?」
「そんな怖がり方するの、父さんくらいだって!」蓮は思わず笑ってしまい、智之もそれに釣られて笑う。理恵もその様子を見て、安心したように微笑む。
「じゃあ、行ってくるよ」
「忘れ物ないようにね。あと、友達と仲良くするのよ?」
「わかってるって!もう、母さんしつこいよ……」
そう言いながらも、蓮はしっかりとリュックの紐を締め直し、玄関へと向かう。靴を履き、扉の前で振り返ると、両親の温かい視線が蓮を見守っていた。
「じゃあ、行ってきます!」
「気をつけてね。いってらっしゃい!」
「お土産、期待してるぞ!」
蓮は大きく頷き、玄関の扉を開けた。冷たい朝の空気が顔に触れ、深呼吸をする。これから始まる修学旅行への期待と、少しの不安を抱えながら、蓮はいつもの道を学校へと向かって歩き出した。振り返らないのは、きっと家族に心配をかけたくないからだろう。
……しかし、それが最後に見た家族の姿だった。
修学旅行最終日、夜の空は真っ黒な雲に覆われ、激しい雷鳴と共に雨が地面を叩きつけていた。バスは学校の正門前に静かに滑り込み、到着の合図と共にエンジンを切った。フロントガラスに打ちつける雨粒は勢いを増し、バスの中までその音が響くほどだった。
蓮はバスの窓から、滝のように流れる雨の向こうをぼんやりと見つめながら、少し緊張した面持ちで深呼吸をした。2泊3日の修学旅行を終え、ようやく自宅に帰る時が来た。奈良や京都の名所を巡り、友達と過ごした夜は今までにない経験で、今でも心が弾むような気持ちだ。
しかし、このどこか不穏な雷雨が、その楽しかった思い出を打ち消すかのように、蓮の胸に不安を忍び寄らせていた。
「蓮、着いたぞ。荷物、忘れ物はないか?」
担任の先生が優しく声をかけ、蓮は「はい」と返事をしながら座席から立ち上がる。隣の席に置いたリュックを肩に掛け、上着のポケットに手を入れて確認する。
「大丈夫です。全部持ちました」
バスを降りると、冷たい雨が顔を打ちつけ、身体が一瞬で冷えた。蓮は慌ててフードを被り、リュックをぎゅっと抱きしめるようにして小走りで校門の前に向かう。
迎えに来た家族たちが傘を広げながら、次々と子どもたちと再会し、声を弾ませる姿が薄暗いライトに照らされて見える。だが、その中に自分の両親の姿は見当たらなかった。
「……まだ来てないのかな?」
蓮は自分に言い聞かせるように呟き、スマートフォンを取り出して時刻を確認した。午後9時過ぎ。予定よりも少し早く到着したとはいえ、普段時間に厳しい母親の理恵がここにいないのは珍しい。母親は蓮のことをいつも気にかけていて、こうした迎えの場面でも必ず少し早めに到着するのが常だった。
父親の智之も、仕事が忙しい時でも約束は必ず守る性格だ。そんな二人が今日に限って遅れていることが、蓮にはどこか不自然に感じられた。
「まあ、しょうがないか。もう少し待ってみよう……」
蓮はそう呟きながら、自分を落ち着かせようとしたが、どこか胸の奥で不安がじわじわと広がり始めていた。雨はますます激しさを増し、校庭を叩きつける音が耳に残る。
「蓮、どうした? 迎え、まだか?」
担任の先生が心配そうに声をかけてきた。周囲を見回すと、ほとんどの生徒が家族と合流し、車に乗り込むのが見える。校庭に残っているのは、蓮を含めてほんの数名の生徒だけになっていた。
「はい……少し遅れてるみたいです。でも、連絡はないので、もうすぐ来ると思います。」
先生は「そうか」と頷き、蓮の肩に優しく手を置いた。
「じゃあ、もう少し待ってみよう。もし何かあったら先生に言ってくれ。」
「ありがとうございます。大丈夫です」
蓮は微笑んで見せたが、心の中では焦りが胸を締め付けていた。時計の針はすでに午後9時半を回り、雷鳴が夜空を裂いた。
いつもなら「遅くなってごめんね」と言いながら駆け寄ってくるはずの母親の姿がない。父親の車が見えない。何かがおかしい。そんな疑念が頭をよぎる。
それからしばらく経って、担任の先生が駆け寄ってきた。
「蓮、先生が家まで送っていこう。ご両親に電話してみたが誰も出なくてな。もしかすると何かあったのかもしれない」
蓮は言葉を発することなく、ただ黙って小さく頷いた。足元に置いていたリュックを持ち上げ、傘を差しながら校門の外へと歩き出す。ふと見上げた空は、まるで悲鳴を上げるかのように雷鳴を轟かせ、稲妻が闇夜を真昼のように照らしていた。
「安全運転で行くけど、少し急ぐからな。ご両親のことが心配だろう?」
先生はハンドルを握りしめ、車を発進させた。ワイパーがリズミカルにフロントガラスを往復し、雨を弾き飛ばしている。ヘッドライトの光が濡れたアスファルトを照らし出し、道路には幾筋もの水たまりができていた。
蓮はただ、手に握りしめたスマートフォンをじっと見つめていた。何度か母親と父親に電話をかけたが、どちらも繋がることはなかった。いつもならすぐに「どうしたの?」と柔らかい声が返ってくるのに、今日はその声がどこにもない。
心臓の鼓動がやけに速くなり、頭の中でいろいろな最悪のシナリオが浮かんでは消えていく。
「先生、もっと急いで……お願い、早く……!」
自分でも驚くほど震えた声で蓮はそう訴えた。先生はハンドルを握り直し、スピードを少し上げる。車が小さく跳ね、ワイパーが忙しく雨を弾く中、蓮の視界はフロントガラスの先の暗闇へと向けられていた。
やがて、車は蓮の家がある閑静な住宅街へと入っていった。そこは、街灯が規則的に並び、いつもなら温かな光で道を照らしているはずだったが、今夜の強風と雷雨のせいでか、ほとんどの街灯が消えてしまっていた。薄暗い闇の中、蓮の家の影が遠くに見えてきた。
車が家の前に停まると、蓮はシートベルトを外し、先生の制止を振り切って飛び出した。強い雨が容赦なく彼の体を打ち、足元の靴はすぐにびしょ濡れになったが、そんなことはどうでもよかった。心臓が喉まで跳ね上がりそうな感覚に突き動かされ、蓮は玄関まで駆け寄った。
「母さん! 父さん!」
無意識に叫びながら、ポケットから家の鍵を取り出し、ドアを開け放った。室内は真っ暗だった。いつもは玄関の灯りがついていて、「おかえり」と笑顔で迎えてくれるはずの母親の姿がない。
蓮は胸が締め付けられるような不安を抱えながら、リビングへと足を踏み入れた。そして、その瞬間、目に飛び込んできた光景に息を呑んだ。
「……母さん……? 父さん……?」
血の池と化したリビングの床に、二人は倒れていた。母親の理恵は裸のまま手足を放り投げ、まるで人形のように動かない。首には青黒い痣が――絞め殺された痕が残っていた。父親の智之はそのすぐ隣で椅子に手足を縛り付けられ、身動きが取れないまま体中からおびただしい量の血を垂れ流している。
「そ……んな……あ、あぁ……う……ああああああああッ!!」
蓮の叫び声は虚しく空間に響き、やがて静寂が訪れた。視界は涙で滲み、二人の顔がぼやけていく。全身の力が抜け、ただその場に座り込むことしかできなかった。
その時、後ろから先生が駆け寄り、驚愕の表情を浮かべながらすぐに警察と救急へ連絡を取り始めた。だが、その頃にはすでに、蓮の意識は遠のいていた。
まるで大きな波に飲み込まれるかのように、彼の心は深い闇へと沈み込んでいく。
――その後、蓮の家に押し入った強盗は警察の手によって逮捕されたが、両親は帰らぬ人となった。
あの夜、蓮の心の中で何かが崩れ落ちた。そして同時に、何かが形を成し、彼を守るように固く閉ざされていった。
中学校に進学した蓮は、どこか変わってしまったと周囲の人々は感じた。以前の蓮は、どこにでもいる普通の少年で、友達と笑い合い、授業の合間には無邪気にじゃれ合うこともあった。
しかし、あの夜を境に、彼は友達と距離を置くようになっている。
「蓮、放課後、サッカーしようぜ!」
「ごめん、今日は無理。用事があるんだ」
「今度みんなで映画行くけど、蓮も来るだろ?」
「いや、俺は遠慮しておくよ。楽しんできて」
蓮の返事はいつも同じだった。用事があると言っては断り、誘いを避ける。いつしか友達からの誘いも減り、クラスの輪から少しずつ距離が生まれ始めた。
蓮は、そんな状況にも特に感情を抱かなかった。むしろ、自分の中でそれが当然のように感じられた。
自分を守るための「壁」を作り、それを誰にも壊させないように。そうすることで、二度と傷つくことがないように。
「あいつ、最近冷たくなったよな。」
「まあ、無理もないけど……話しかけづらいよな」
そんな囁きを耳にすることもあったが、蓮はそれを無視するようにした。感情を押し殺し、彼の心はどこかで固く閉じられてしまっていた。
何かに失望しないために、何かに期待しないために。そうすることで、失う恐怖から自分を守れると信じていたのだ。
蓮の心の中にあるのは、いつも両親の笑顔だった。家族との温かな時間。それが一瞬で失われた、あの日の出来事。その痛みを二度と味わいたくない。
だから、誰とも深く関わらず、自分を守る。近づく者には無意識のうちに「壁」を作り、冷たく振る舞うようになった。
誰かと関われば、またその人がいつか去っていくかもしれない。失う痛みを味わうくらいなら、最初から関わらない方がいい。それが蓮の心に刻まれた教訓だ。
しかし、彼の胸の奥では、未だに消えない小さな炎が揺らめいていた。それは、誰かと心を通わせ、再び温かさを感じたいという儚い願いだった。
冷たい雷雨の夜に築かれた壁は、今もなお、彼を守り続けている。大切なものを失う恐怖と、再び愛する者を得たいという矛盾した感情の間で、蓮は孤独な日々を過ごしていたが、それが今、異世界に来たことで何かが変わろうとしている。
それが吉と出るか凶と出るか。
ただ一つ確かなのは、異世界に召喚されたことで、少年は圧倒的な力を手に入れたということだ。悪を断罪し、大切な人を守るための力を。
そして、そのためなら自分がどれだけ残酷で無慈悲になれるのか……彼自身もその素質にはまだ気づいていない。
アルカナ・ロード《魔法の王》――ゆえに、もう一人の
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