第8話

 夜の帳が降りると、街は昼間の喧騒から一転して、深い静寂に包まれた。空には無数の星々が散りばめられ、地上の世界を淡く照らし出している。こちらの世界の星空は、地球のそれとはまるで異なり、いくつかの星々が帯をなして流れるように光を放っていた。その輝きは、まるで魔力を帯びているかのように瞬き、天上に銀色の軌跡を描きながら夜空を彩っている。


 ――結局、俺の制服は売ることができなかった。店主いわく、「この服は高価すぎる」とのことだ。生地の質や縫製技術があまりにも優れていて、庶民相手の仕立て屋では買取の対象にできないらしい。代わりに、高級品を専門に扱う買取商に持ち込んでみるよう勧められたが、その行商人は今はこの街にいないらしい。次に来るのはいつになるかもわからない……要するに、当面の間この服を金に換えることはできそうにないってことだ。


 それから、彼女たちの方もそろそろ動きがある頃合いだろう。王に目をつけられた以上、下手をすると厄介事に巻き込まれる可能性がある。俺はあまり面倒ごとに首を突っ込みたくはないが、ここで見捨てるのは寝覚めが悪い。


「……乗りかかった船、か」


 そんなことを考えつつ、俺は辺りを見回し、人気の少ない路地に足を向けた。そして、周囲に誰もいないのを確認すると、軽く息を吐く。


透明化インビジブル


 体全体に冷たい膜のようなものがかかり、徐々に自分の存在が薄れていくのを感じる。視界の中で、自分の手や足が透明になり、やがて完全に闇の中へと消え去った。


「これで少しは動きやすくなるな」


 俺は闇に溶け込むように姿を消し、ゆっくりと街の中を歩き始めた。



 ◇◇◇




 牢獄の空気は冷たく、肌を刺すような寒さが身を包む。壁に触れると、氷のように冷えきった感触が手に伝わってくる。特に夜になると、温度は一段と下がり、吐く息は白くなるほどだ。囚人たちはその寒さに耐えられず、藁の中で身体を丸め、体を寄せ合って震えている。しかし、3人の美少女たちはそんな寒さにも耐え、決してその美しさを損なうことはない。


 牢内には常に水滴の音が響き渡り、規則的に「ぽたっ……ぽたっ……」と、まるで時の流れを刻むかのように鳴り続ける。だがそれ以外には何の音もなく、誰も囁かず、誰も叫ばない。ただ沈黙が支配するこの場所には、見張りの看守すら立っていない。脱獄不可能なことと、何より、彼らも冷たくて暗い牢獄を嫌っているのだろう。


 牢の奥に佇むのは、高嶺麗華――日本一の美貌を持つと称えられる彼女だ。暗闇の中でも、その端正な顔立ちと長い黒髪はひときわ目を引く。彼女はまるで貴婦人のように背筋を伸ばし、威厳を保ったまま、冷静に周囲を見渡していた。どんなに過酷な環境にあろうとも、その表情に怯えや焦りは見えない。


「……ここは、思っていた以上に劣悪な環境ですね」


 彼女は床に膝をつくことなく、まっすぐな視線で鉄格子の外を睨みつけた。その瞳には静かな決意が宿っており、王の手によって閉じ込められたにもかかわらず、彼女のプライドは微塵も揺らいでいない。


 麗華の隣には、氷月雪乃が無表情に座っている。彼女は大理石のような白い肌を持ち、冷たい雰囲気を漂わせている。普段は滅多に感情を表に出さない彼女だが、牢獄の冷えた空気にわずかながら不快感を覚えているのか、肩を抱くようにして身を縮めていた。


「……寒い。これでは、凍えてしまうわ」


 雪乃の口から零れた言葉は寒さによって声が震えているが、ただ静かに、感情を押し殺しているだけのように思える。彼女は自分の衣服をぎゅっと握りしめながら、虚空を見つめていた。


 その一方で、最も快活な性格を持つ天神爛漫は、普段の明るさを失わずにいた。彼女は牢の隅で胡坐をかいて座り、何やら床に小石で模様を描いている。明らかに劣悪な環境で、少しでも気を紛らわそうとしているのかもしれない。


「ねぇー! ご飯まだー!? お腹ペコペコなんだけどー!」


 爛漫の大きな声が、冷たい牢獄の空間に響き渡る。しかし、返事はない。彼女たちが投獄されてから、一度も食事が運ばれてきていない。麗華も雪乃も、彼女の叫び声に対して何も言わず、ただ静かにその様子を見守っているだけだった。


「少しは静かにしなさい。そんなに騒いでも、体力を無駄に消耗するだけですよ」


 麗華は呆れたようにため息をつき、冷たい石壁に背を預ける。体力を温存するため、無駄な力を使わないようにしているのだろう。だが、その声に冷たさはなく、むしろどこか優しさすら感じさせる。


「だってお腹空いたんだもん! おかずの少ないご飯でもいいから、何か食べさせてほしいよ〜!」


 爛漫は拗ねたように頬を膨らませ、小石をポイッと遠くに投げ飛ばした。その石が鉄格子に当たってカランと音を立てると、雪乃が軽く肩をすくめる。


「……投げたって意味はないわ。あなたがいくら騒いだところで、王は何もしてくれないし、看守も無視するだけ」


 雪乃の声は、いつもの冷静さを保ちながらも、どこか憂いを含んでいた。彼女は自分の手首に巻き付いた粗い鎖を見つめ、その傷跡を指でなぞる。この拘束具を付けられてから身体に力が入らず、手に入れた能力も使うことができない。鎖は彼女たちの自由を奪うだけでなく、その身も心も縛りつけようとしているかのようだった。


「でも、せっかく3人で一緒になれたのに、こんな場所で終わるなんて絶対イヤ!」


 爛漫の叫びに、麗華は小さく微笑みを浮かべた。彼女の言う通りだ。今この場で諦めるわけにはいかない。この牢獄から抜け出し、再び自分たちの自由を取り戻す――そのためには、今は耐えなければならないのだ。


「そうですね、爛漫ちゃんの言う通り。ここで終わるつもりはありません。食事が運ばれなくても……そのうち、状況を変えるチャンスはきっと来る。だから、今は少しだけ我慢しましょう」


 麗華は凛とした瞳で鉄格子の外を見つめた。王に囚われ、投獄された彼女たちに未来はないと、周囲はそう思っているだろう。だが、彼女たちはあくまで気高く、己の意志を曲げることはしない。


 爛漫も雪乃も、それぞれが自分の考えを胸に秘め、三人は黙ったままじっと時を待ち続ける。ここから脱出するためには、油断ならない状況判断と、隙を見極める冷静さが必要だ。


 ――突然、牢獄の奥から鈍い足音が響いてきた。厚い鉄扉がギィと音を立てて開き、看守らしき男が重い足取りで近づいてくる。


「……おい、貴様ら、静かにしていろ。王のご命令だ。下手な真似をすれば、今度こそ命はないぞ」


 その言葉に、爛漫は一瞬目を輝かせた。


「おー、看守さんだ! ということは、ご飯は――」


「……お前らに食事を与えるな、というのが王の命令だ」


 爛漫の言葉を遮るように、看守は冷たく言い放った。その瞬間、三人の顔にかすかな失望の色が浮かぶ。


「食事なし……ですか。まったく、徹底的に嫌がらせをしてくれますね」


 麗華は小さく笑ったが、その瞳の奥には微かな怒りが宿っている。


「安心しろ、救済措置は設けてある。お前たち……入ってこい」


 看守が声を上げると、鉄扉の向こうから3人の男子生徒が姿を見せた。2人は見るからに素行の悪そうな不良生徒だ。制服の着崩し方や腕の刺青、挑発的な表情からして、どう見ても普通の高校生ではない。だが、最後に姿を現した人物に、彼女たちは驚きと警戒の入り混じった視線を向けた。


「御影君……?」


 麗華が呟くと、男子生徒はゆっくりと顔を上げた。御影玲王――生徒会の副会長であり、会長を支える縁の下の力持ち。だが、彼の表情はどこかかげりを帯びており、以前の面影は薄い。


「お前たちにはこれから、訓練で優秀な成績を収めた召喚者たちの『娼婦』になってもらう。対価として食事を与えてやろう」


 牢獄に看守の冷たい声が響いた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る