第7話

 玉座の間を出ると、俺は迷うことなく長い廊下を突き進んだ。廊下の両側には朝日が差し込み、赤く染まったカーテンと絨毯が輝くように照らし出されている。


どうやら、この世界は元の世界と時間の流れが異なるらしい。あちらでは夕方のはずが、こちらでは朝が始まったばかりだ。時間のズレがどれほど影響するのかはわからないが、今はただ、一刻も早くこの場所から脱出することが最優先だ。


 廊下の突き当たりに辿り着くと、そこには大きな窓ガラスが行く手を阻んでいた。朝の光を反射し、淡い虹色の光がガラス面を漂っている。その光景に一瞬だけ心を奪われるが、今は悠長に見惚れている場合ではない。俺はすぐに手を振り上げ、魔法を発動させた。


火球ファイヤーボール!」


 手のひらから炎が渦巻くように現れ、瞬く間に膨れ上がった火球が、灼熱の熱気を放ちながら窓に向かって一直線に飛んでいく。派手な轟音と共にガラスは粉々に砕け散り、燃え残った破片が光を帯びて四方へと散らばる。


 割れた窓から勢いよく飛び出すと、目の前には広大な王宮の庭が広がっていた。噴水や花壇が規則正しく並び、花々が風に揺れながら淡い香りを漂わせてくる。そして、その奥には高くそびえる外壁が見えた。どこを見ても敵の姿はない――今のところは、だが。


「……よし、今のうちに脱出するか」


 そう呟くと、俺は一気に王宮の敷地を横切り、外壁に向かって駆け出した。冷たい風が髪をなびかせ身体を冷やすが、それ以上に背中に感じる危機感が俺の足を速める。周囲に目を配りながら走るうち、やがて外壁の前に到達する。


「さて、どうやって越えたものか」


 高くそびえ立つ外壁を見上げ、ほんのわずかに眉をひそめた。このまま正面突破を図るのは得策ではない。兵士がいつ現れるかわからないし、派手に動けばすぐに追っ手がかかるだろう。魔法で飛び超えるのが一番手っ取り早そうだ。


風翔フライ


 俺の周囲に小さな竜巻が発生する。軽やかな風が身体を包み込み、宙に浮かび上がる感覚がした。まるで羽を得たかのように軽やかに空を舞い、王宮の外壁を飛び越え、空中から王国の様子を見渡す。


太陽が地平線からゆっくりと昇り、朝の柔らかな光が街全体を包み込んでいる。王宮を取り囲むように広がる首都は、石造りの家々が規則正しく並び、その隙間を縫うように通りが張り巡らされていた。


「本当に異世界に来たんだな。世界観はよくある西洋ファンタジーってとこか」


 俺は空中にふわりと浮かびながら、首都の街並みを眺めて息をついた。まるでゲームの中に入ったような錯覚さえ覚えるほど、整然とした街の風景。あちらこちらで行き交う馬車や行商人、そして生活を営む人々の姿は、ただの西洋ファンタジーを超えた生の活気を感じさせた。


「これだけ活気に満ちていると、魔王の脅威なんてものが本当にあるのか疑いたくなるな」


 王宮の外周を見渡すと、さっきまで俺がいた玉座の間がある主塔を中心に、小塔や砦が並び立っている。どれも外敵の侵入を防ぐために設計された堅牢な造りだ。壁には西洋甲冑をまとった衛兵たちが並び、鋭い目つきで周囲を警戒しているのが見える。


「魔王の脅威に備えて、王都全体を防御する設計になってるってわけか」


 視線をさらに遠くへ移すと、城壁の外に広がる農地や、はるか先の森の中にぽつりと見える小さな村落が目に入った。ああいった村々が、真っ先に魔物の影響を受けているのだろう。


 俺はその答えを確かめるため、静かに地上へ降り立った。ちょうど街の中心にある広場では、朝市が開かれており、店主たちの威勢のいい呼び声や、買い物客たちの笑い声が溢れている。


「まずは情報収集だな。適当に歩きながら、何かしらの手がかりを探してみるか」


 追っ手がいつ放たれるか分からない状況だが、最低限の情報は把握しておく必要がある。それに、置いてきた3人のことも気がかりだ。完全に見捨てたわけではなく、俺の魔法で彼女たちの行動は逐一監視している。

――不可視の義眼ヴェルマ・オクルス


 この魔法を使えば、彼女たち3人の動向をまるで『神の視点』のように見渡すことができる。今この瞬間も、視界の端には彼女たちの姿が映し出され、どんな些細な行動も見逃すことはない。もちろん、彼女たちがプライベートな場所……トイレや風呂に入った時は監視を中断するが。


今のところ、3人に危害が加えられる兆候はない。手首に拘束具を嵌められ、牢獄に連行されているようだ。このまま何も起こらなければいいが、気になるのは彼女たちが連れ出される前に、御影玲王が王の耳元で助言するように何か囁いていた。あれが何を意味するのか、警戒しておくに越したことはない。


少なくとも、今日一日は様子を見張っておくべきだろう。彼女たちの安全が確認できるまでは、安心などしていられない。せっかく助けた命を簡単に散らされては後味が悪い……いや、それは少し恩着せがましいな。せっかく助かった命は大切にしてほしいものだ。


 ――俺はふと自分の姿を見下ろし、異世界の街並みと比べてあまりにも不釣り合いな制服に気付く。現代日本の高校の制服――襟の高いブレザーと、アイロンでぴっちりと折り目のついたスラックス。その清潔感溢れる濃紺の生地が、周りの住人たちが着ているくすんだ茶色や灰色の衣服の中で、まるで異質な存在のように際立っていた。


「……これじゃ、いかにも”異邦人”って自己紹介してるようなもんだな」


 チラリと周りを見渡すと、通行人たちが俺を好奇の目でじっと見つめているのが分かる。彼らは一瞬だけ視線を合わせると、すぐにひそひそと何かを囁き合い、距離を取るようにして足早に去っていく。その目は、まるで奇妙な珍獣でも見るかのようだった。


 大通りを歩く行商人たちの姿は、いかにもこの世界の住人といった風情だ。彼らの服装は粗末な麻布や厚手のウールでできており、色合いも茶色や灰色、くすんだ緑といった暗い色が中心だ。対して、俺の制服はというと、色鮮やかな紺色のブレザーに白いシャツ、そしてネクタイという、どこか場違いな組み合わせ。生地の滑らかさや服の裁縫技術も異様なまでに精緻で、この異世界の住人たちには見慣れないものなのだろう。


「どこかで目立たない服に着替えないとな。仕立て屋なら制服も買い取ってくれそうだ」


 俺はゆっくりと歩き始め、露店の間を見て回った。野菜や果物、肉類、さらには布地や装飾品まで、さまざまな商品が所狭しと並べられている。どれも異世界らしい独特の形状をしており、見たこともない色や香りに満ちている。


「いらっしゃい、旅のお方! おいしい果物はいかがですか? 王都でしか手に入らない珍しい品ですよ!」


 ふと、一軒の露店の前で女性の店主に声をかけられた。彼女は籠いっぱいに積まれた色とりどりの果物を手に取り、俺に向かって差し出してくる。見た目はどれもみずみずしく美味しそうだ。


「へえ、これは……何て果物ですか?」


「これは『サフィリア』といって、王宮の庭で育てられている特産品なんです。魔法の加護を受けて育てられた果実だから、他の果物とは比べ物にならないくらい甘くて美味しいですよ!」


 店主がそう説明しながら差し出したのは、まるで宝石のように輝く青りんごのような果実。淡い光沢を放つその果実は、見るからに美味しそうで、俺の興味を引きつける。手に取って匂いを嗅ぐと、ほんのりと甘い香りが鼻をくすぐった。


 しかし、ふと我に返ると、今の俺には金がない。ポケットに手を突っ込んでみるが、そこには小銭と袋入りのグミが一つ入っているだけだった。当たり前だが、異世界で使える貨幣は持っていない。


 悩んだ末、俺は思い切って、手にしていたグミの袋を差し出した。


「これは『グミ』という異国の食べ物なんですが……どうですか? これとサフィリアを交換してもらえませんか?」


 自分でも無茶だと思いながら提案したが、店主は意外にもその袋を大事そうに受け取り、興味深げに眺めている。やがて、彼女はゆっくりと袋を開け、色とりどりのグミを一粒摘まむと、慎重に口の中へ運んだ。


 次の瞬間、彼女の目が見開かれ、頬がほんのりと赤く染まる。グミが口の中で弾むように溶けていくのを感じているのだろう。その様子はまるで、初めて新しい世界の扉を開いたかのようだった。


「な、なんて柔らかくて甘いんでしょう……! これも魔法の果実か何かですか?」


 彼女は信じられないといった様子でグミを眺め、目を輝かせている。その反応に、俺は思わず笑みを浮かべた。どうやらこの世界にはグミのような食べ物は存在しないらしい。交渉はうまくいきそうだ。


「ええ、まあ……そういうことにしておきましょう。もし気に入ってくれたなら、ぜひ交換をお願いできませんか?」


 彼女はしばらく迷った様子だったが、やがてコクリと小さく頷いた。


「サフィリアは他の果物に比べてちょっと高いんだけど……サービスしてあげる!」


 満足そうな笑みを浮かべた店主は、俺にサフィリアを4つ差し出す。俺はサフィリアを一つ手に取り、口元に運んだ。噛んだ瞬間、果汁が口の中に広がり、濃厚な甘みとほのかな酸味が絶妙に絡み合う。林檎なんかよりも余程美味しい。


「ところで、この街ってかなり平和そうに見えますが、魔王の影響とかはないんですか?」


 俺の問いに、店主の顔が一瞬曇った。周囲を見回し、誰も聞いていないのを確認してから、小声で答える。


「……魔王の影響ですか? 王都の中では、あまり直接的な被害は聞きませんね。まあ、王宮がしっかり守ってくれているからってのもあるでしょうけど……でも、外の村や町では、魔族の襲撃が増えてるって噂もありますよ」


「そうなんですね……」


 俺は頷きながら、彼女の話を頭に刻みつける。王都では守りが固いため、魔王の影響はほとんどないが、外の地域では被害が出始めている……か。これをどう解釈すべきだろうか。


「ありがとうございます。参考になりました」


 俺は礼を言って店を離れ、再び広場の中を歩き始めた。今の話が本当なら、この街は安全圏にあるが、王国全体はそうではないということだろう。


 問題は、俺がこの世界で何をするべきなのか……だ。


「さて、次はどう動くか」


 俺は広場を見渡しながら、異世界での第一歩をどう踏み出すか考えていた。

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