互いのために・1

「ルーシー危ない!」


 崖が崩れる中、テオドアは全力でルーシーの体を掴む。もがく彼女を全力で引っ張りながら、テオドアは細い足で懸命に踏ん張った。


「放して! ジャックが!」

「落ち着きなさい! このままではあなたも落ちます!」

「私のことはどうでもいいの! ジャックーーー!」


 泣き叫ぶも、その声はゴバンガ山に無常にこだまするだけであった。すすり泣きながら、ルーシーは膝から崩れ落ちる。その顔は絶望で引きつり、大粒の涙が零れ落ちていた。


「テオドア……どうしよう、ジャックが……」

「まずは落ち着いて、私がどうにかしますから、絶対に……絶対……」


 そういう彼も、本を取り出す手は震えていた。寒さのせいではなかった。書物の中には必ず答えがある。そう信じて、テオドアはページを必死にめくった。吹きすさぶ吹雪の中、二人はただ動けずにいた。


「これだ、これです! 地図によると、この下は川。この高さであれば、ジャックが助かった可能性は十分にあります!」

「ほんと……?」


 テオドアが興奮気味にまくしたてると、ルーシーは涙が凍り付いた顔を上げる。テオドアは必死に地図を読み、ジャックの生きていそうな場所を探った。その指は地図の上を止まらずに動き、ときおり何かを計算するように宙に式を描く。


「流れる方向は西、速さは……温度、余裕はない……ルーシー、今すぐ出発します。私の計算が正しければ、ジャックはまだ生きているはずです。今すぐにいけば、まだ間に合います!」


 ルーシーはふらつきながら立ち上がった。焦点の定まらない目で歩き出そうとするが、バランスを崩して倒れかける。そんな彼女を、テオドアはそっと支えようとした。鎧で重装備した彼女の重みを支えるのは、彼にとっては一仕事であったが。そのまま抱きついてしゃくりあげる彼女の頭を、テオドアは優しく撫でて積もった雪を振り払う。


「ありがと……行こう、テオドア。ジャックを助けなきゃ」


 そう言って顔を上げるルーシーの目には、決意の炎が宿っていた。


◇ ◇ ◇


 轟音を上げて流れる川の中、ジャックは意識を取り戻した。すぐさま濁流が容赦なく襲い掛かり、口から鼻から冷たい水がなだれ込む。バックパックの重みが、ジャックを川底へと引きずり込もうとした。


「クソッ……」


 濡れて重たくなった肩紐は、脱ごうとしてもまとわりついて離れない。冷たい流れの中、ジャックは何度も流木に体をぶつけ、そのたびに意識が飛びそうになった。幾度も彼の命を救ってきたバックパックが、今は彼の命を奪おうとしている。


「すまねえ、ダグ爺」


 このバックパックは、ジャックが誕生日にダグリックからもらったものだ。彼がしわだらけの手で作ってくれた革のバックパックは、見た目以上に多くのアイテムを入れられるのでジャックの大切な宝物であった。だが今、ジャックはナイフでその肩紐を必死に切ろうともがいている。


 体がふっと軽くなると同時に、思い出の詰まったバックパックが川底へと沈んでいく。体勢を立て直そうとしたのもつかの間、水面から顔を出したジャックの目の前で川は途切れ、滝が姿を現した。


「ああぁぁああぁーーーー!」


 悲鳴は滝の轟音にかき消される。流れに逆らうことはできず、ジャックは滝を落ちていった。氷点下の冷たい水の中、滝つぼに落ちたジャックは何とかの流れの弱い地点まで体を運んだ。泳いだ経験はほとんどなく、半ば溺れる形で必死に手足をばたつかせる。足が地面につくまで、彼は生きた心地がしなかった。


「寒い……死ぬ……」


 ここで意識を失えば、水に濡れた体はすぐに凍り付き、彼の眠りは永遠のものとなるだろう。脳裏に焼き付いたルーシーの姿を必死に思い出そうとしながら、ジャックはただただ仲間の元に帰ることだけを考え続けた。


「火打石……よかった、まだあるな……」


 手で何度もこすって水気をふき取り、木の枝を集めて焚火の形を作る。何度も石を打ち合わせながら、彼の頭の中にテオドアとの思い出がよみがえった。


「こうやって、辛抱強く打ち続けるのです。最初は難しくても、すぐにできるようになりますよ」


 走馬灯のように、旅の思い出がジャックの目の前に現れる。彼はそれらにすがることで意識を保ちながら、必死に火打石を打ち続けた。小さな火花が、彼の祈りに応えたかのように枯れ木に火を灯す。消え入りそうなその火種を、ジャックは全身を使って風から守りながら、懸命に息を吹きかけた。


◇ ◇ ◇


 どれほどの時間がたっただろうか。濡れた服は大部分が乾き、ジャックもやっと意識がはっきりとしてきた。それと同時に、とてつもない罪悪感が彼を襲う。ルーシーにひどいことを言ってしまった。そのことが、彼の頭を支配していた。


「……謝らなきゃ」


 口をついて言葉が出た。ジャックは弱々しい火に当たりながら、ルーシーとテオドアの元へ戻ろうと強く思った。


「それにしても、まずは装備だよな。手元にあるのはナイフと火打石、銀貨三枚と薬草、短い紐だけか」


 腰のベルトのポケットからわずかに残った財産を出しながら、ジャックはため息をつく。同時に、猛烈に腹が減ってきた。


「探索しないと」


 重い腰を上げて立ち上がると、ジャックは右足に鈍い痛みを感じ膝をついた。先ほどまでは極限状態のため気づかなかったが、見ると右のくるぶしが紫色に腫れ上がっている。どこかで岩にでもぶつけたのだろうか。


「……駄目だ、止まれねえ」


 手持ちの紐をすべて使い、木の枝を足に括り付けて即席の添え木を作る。痛む足を引きずりながら、ジャックは森の奥へと向かった。


◇ ◇ ◇


「ありゃなんだ?」

 仮面の奥の目が青く光る。『ゴミ漁りスキャヴェンジ』を用いて深い森を探索するジャックの目に、何やら光るものが止まった。動くそれをもっとよく見るために近づくと、茂みの中から出てきたのは小さな野ウサギだった。黒いつぶらな瞳は好奇心旺盛といった感じでジャックの方を見つめている。背中には小さな翼が生えているが、丸々としたその体を見るに飛べないようだ。ジャックの腹が物ほしそうに音を鳴らした。


 仮設の拠点には肉の焼けるいい匂いが漂っていた。久々に腹を満たし、ジャックは満足そうにため息をつく。先ほどのウサギの体内にあった毒々しい色の器官が少々不安ではあるが。


「テオドアがいりゃあ、あれが何だったか教えてくれたんだろうな……」


 寂しさにまた心がくじけそうになり、ジャックは慌てて頬を叩く。懐かしい思い出をいったん脇に追いやり、食料を探しに行ったついでに見つけた洞窟のことに頭を巡らせる。外から軽く見たところ、石レンガの壁が見られた。どうも天然の洞窟ではなさそうだった。


「よっし、ちょっと行ってみるか。もしかしたら、いい装備が落ちてるかもしんねえし」


 しばらくして、ジャックは謎の洞窟の入り口に足を踏み入れた。手の中の一振りのナイフだけが頼みの綱だ。幸いにも、魔物の声などは聞こえなかった。焚火の燃えさしから作った即興のたいまつを掲げ、暗い洞窟を進んでいく。しばらく行くと、壁面が明らかに石レンガでできたものに変わっていった。


「ダンジョン……旧帝国制か? すげえぞ、まさに冒険者って感じだ」


 旅を始めたころのワクワク感が再びよみがえる。ジャックの足取りも自然と軽くなっていった。だが、少々不用心すぎたようだ。


「カチッ」


 足元の石が少し沈む。避ける間もなく、左右の壁から突然巨大な斧が振り下ろされた。


「うおぉっ⁉」


 年月の経った斧のトラップは、錆によりかなり劣化していたようだ。ジャックを三枚におろす寸前で、二振りの斧はギイと音を立てて止まった。ほっと胸をなでおろすジャック。


「トラップもあるのか……これは、お宝がある予感がするぞ」


 安心するのはまだ早かった。先ほどの音で、寝ていた番人を起こしてしまったようだ。廊下の奥に光る眼が、ジャックの方を向いていた。

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