壊れる日常・3
「ガアアァアアァァァアアァァ!」
耳をつんざく叫び声とともに、魔物がこちらに向かって突進してくる。二人は恐怖のあまり動けなくなっていた。そのとき、ジャックたちの体が強い力で下から押し出された。ジャックが目を開けるとそこには、凶暴な目つきの魔物の前に立ちはだかる、傷だらけの老ドワーフの姿があった。
「ジャック、武器をよこせ」
その声はしわがれているが、先ほどとはうってかわって力強さを感じる。ジャックは迷わずバックパックから先ほど拾ってきた短剣を取り出すと、ダグリックに手渡した。
「ダグ爺……」
「ここには武器は山ほどある、しばらくはもつだろう。お前たちはこのまま逃げろ」
「でも!」
ルーシーが叫ぶ。ダグリックとは、ジャックが一緒に住みだしてからの知り合いだ。孤児院で育てられたジャックを受け入れたこの気難しい老人を、ルーシーは最初は恐ろしいと思っていた。しかし荒々しい岩のような態度の奥には、暖炉のような温かさが宿っていることをルーシーは知っている。その彼が今は、鍜治場の炎のような怒りを胸に彼らの前に立っていた。ダグリックは振り返ると、しわの刻まれた厳しくも優しい目で二人を見つめた。
「わしはお前たちに出会えて、幸せだった。さあ行け、生き延びろ!」
興奮した魔物はダグリックに向かって突進する。老ドワーフは相手の顔面に、構えた短剣を突き刺した。一瞬怯んだその隙に、ダグリックは壁にかかっていた戦斧を取る。その姿に、ジャックはかつての勇猛果敢な冒険者の姿を見た。
「すまねえダグ爺、ありがとう」
そうつぶやくと、ジャックはルーシーを連れて崩れた工房の壁から外に走り出した。後ろで怪物の咆哮が聞こえたが、彼は振り返らなかった。
◇ ◇ ◇
都の様相は一変していた。あちこちで黒い魔物が暴れ、逃げ遅れた住民が犠牲になっている。オルドレア騎士団の兵士たちも戦っているが、城から次々と現れる敵に押されていた。城の方は完全に炎に包まれ、頭上の暗雲はさらに恐ろしさを増している。緑色の怪しい炎が暗い空を照らし、悲鳴と爆音、建物が崩れる音が日常の崩壊を告げていた。
「ダグリックさん……」
街の外へとがれきを避けて走りながら、ルーシーが呟く。ジャックはそんな彼女を見て、安心させるように言った。
「ダグ爺はきっと大丈夫だ。きっと……」
その言葉はルーシーに向けられたものか、自分自身に向けられたものか分からなかった。
◇ ◇ ◇
街角を曲がり大通りに出ると、魔物達が新たな餌の登場を待ちわびていた。妖しく光る大きな目をこちらに向け、血とよだれの混ざった液体を垂らしながらゆっくりと向かってくる。ジャックは今まで、大ネズミ程度のモンスターとしか戦ったことがない。ルーシーも、騎士団での簡単な対人訓練しか戦闘の経験がなかった。だが目の前にいるのは、馬車ほどの大きさもあるオオカミのような化け物だ。ジャックは思わず身震いした。
「下がってろ、ルーシー……」
前に出ると、震える手でマスクをつけるジャック。バックパックから先ほど見つけたアイテムを取り出す。ガラスでできた球体を、ジャックは怪物に向けて力いっぱい投げつけた。
閃光がほとばしり、視界が一瞬白一色に染まる。閃光の小瓶は有効なダメージを与えることはできないが、周囲にまばゆい光を放ち敵の視界を妨害する。しかし味方の視界も一瞬そがれるので、あまり冒険者たちには好かれていなかった。何よりガラス製なので、不慮の事故で暴発する危険性がある。しかし今のような状況では、まさに救いの綱であった。突然の光に怪物たちが苦しむ中、ジャックとルーシーは走り出す。
どのぐらい距離が稼げたであろうか、ジャックは確認のため後ろを振り返った。残念なことに怪物たちは怒りに目を燃やし、こちらに向かって駆けてきている。重装備のルーシーは走るのが辛そうだ。しかも槍と盾は、ダグリックの工房に置いてきてしまった。対するジャックも、バックパックの中のハズレ装備しか使えるものがない。それも、大したものは残っていなかった。ジャックはバックパックから旧帝国の青銅制の小さな盾を取り出すと、ルーシーに手渡した。ところどころへこみ、一部が小さく欠けたその盾は、後ろから迫りくる怪物の前にひどく無力に見えた。
「ルーシー、とりあえずこれ持っとけ。何もないよりはましだ」
「ジャック、あいつら、もうすぐそこまで来てる!」
「分かってる。まだ閃光の小瓶が一個だけあるから、それ使うぞ」
走りながら振り返り、ガラス球を投げる。しかし今回は期待していた光は出ず、淡い煙のようなものが立ち上っただけだった。むしろ、鼻先にガラスをぶつけられた魔物たちを怒らせてしまったようだ。
「クソッ、不良品かよ!」
必死でバックパックを探るが、もう武器になりそうなものは短い刃こぼれしたナイフ一本しかない。あと少しで結界の範囲から出られるのだが、そのあと少しが二人にとっては永遠にも感じられた。
「危ない!」
ルーシーが叫び、先を行くジャックの体を引っ張る。刹那、轟音とともに燃え盛る家が崩れ、目の前の道を塞いでしまった。振り返ると、荒い息を吐く怪物たちはすぐそこまで迫ってきている。ジャックは覚悟を決めてナイフを構えようとしたが、ルーシーに遮られた。
「行って、ジャック。ここは私が食い止める」
勇ましい言葉とは裏腹に、その声は力なく震えていた。小さい盾を構えたその姿は、あまりにも頼りない。彼女の目には、恐怖がありありと浮かんでいた。
「何言ってんだ、このがれき超えれば街の外はすぐそこだ!」
「だから! だからだよ、ジャックだけでも……」
「いいや、もうこれ以上失うわけにはいかねえ!」
ジャックは必死に頭を回転させ、打開策を考える。二頭の魔物はすぐそこまで迫ってきており、目の前の餌をどう食べようかと思案しているようだ。ジャックは手に握るナイフを見た。普通の鉄でできた刀身、エンチャントの類はかかっていない。さらにあたりを見回す。『
「おい犬ども! 取ってこい!」
一瞬注意がジャックに向いたその隙に、彼はナイフを羊肉の樽へと投げる。羊の脂がべっとりとついたその樽は、瞬く間に赤々と燃え始めた。突然上がる炎と肉の焼ける匂いに、獣たちは思わず後ろに振り向く。その隙に、ジャックとルーシーはがれきの山を越えようとした。
「ギエェアァッッ!」
目の前のごちそうが逃げようとしているのに気づき、魔物たちはがれきの山を上るジャックたちに飛び掛かる。しかしルーシーが盾を構え、その攻撃を受け止めた。暴力的なまでの衝撃で腕全体に激痛が走る。ルーシーは苦痛に顔をゆがめた。しかし気力だけで踏ん張り、盾を構えた手を押し出す。バランスを崩した魔物は、がれきの山を転げ落ちた。ルーシーが作ったその隙に、二人はがれきの山を乗り越え街の外へと走った。
◇ ◇ ◇
「ジャック! 小瓶!」
「ああ!」
ジャックは転移の小瓶を地面へ叩きつける。途端に青い魔方陣が二人の足元に広がった。二人の体を魔法が包み、ジャックは体が浮き上がるような感覚を覚える。しぶとく逃げ惑う獲物に怒り狂った魔物は、二人を捕えようと牙をむきだしてこっちに駆けてきていた。その牙と爪が二人を切り裂く寸前、転移魔法により二人の体は消え去った。
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