終章 26話「アフターグロウ」
あの夜の体験から一週間が経過した。
世間は何事もなかったように変わらぬ日常の時の流れを謳歌しているように見えた。
ただ、一点、私は。
あの決断を自らに下し、津島家の血族に決別を宣告する覚悟を決めていた…。
いままで津島の繁栄の為に、私は学生時代の青春の時をも費やし、自分の全てを賭けて来た。
一人娘の私は、実の父である日本政財界の君臨者の一人、津島耕作から常に常人を超える異常な野心のエネルギーを間近で受け続け、自分の感情を理解しているつもりで押し殺し、人生の選択全てを図りながら生きて来た。
理にかなった無駄がない世界を生きているつもりでいた。
私は津島家の繁栄というもののために、存在し続け、それにより全てが許され、やがて全て、さらに思いのままになる人生を構築するつもりだったのだ。
後戻りができないように見えていた、あらゆる代償を払いながら。
しかし、もうどうでもよかった。
今、ここで自らの魂に実直にならなければ、私は一生後悔する。
そして、私の決意は、津島家と松岡家によって、長年計算されつくした機械仕掛けの「政略結婚」を粉々に粉砕しようとしていた。
それは秋の訪れを感じさせる爽やかな風が吹く日曜の朝だった。
晴れていたので窓を開けながら私は自室でショパンのノクターン20番嬰ハ短調「遺作」をピアノで弾いていた。
数分すると、
ドアが何度かノックされていた。
気付いて演奏を止めると、壮年の執事長、河村が私の顔を伺うように目を伏せ頭を下げた。
「おはようございます。お嬢様。会長がお見えになっておられます」
「ありがとう」
私は鍵盤を前にしたまま答えた。
すぐに父が入室してきた。
父は私を見ると河村に抑制的な小声で言葉をかけた。
「河村。今日はもういいからね。必要な時は呼ぶから。宿舎なり、自宅なりで休んでいなさい」
「かしこまりました。会長。下がらせていただきます。」
河村は父に一礼すると、音もなく退出した。
初老の父は、健康の為に毎朝、剣道着を来て地元の青年団にボランティアで剣道の指南役を買って出ていた。
その鍛え方は常軌を逸し、剣道七段の父は70代半ばとはとても思えない異常なバイタリティーで、毎朝、鬼のような特訓を、可哀想な青年団の男子達に訓示ていたのである。
この時間の朝は、いつもなら剣道着を着ている父が、今日は普段着の作務衣を着ていた。
手には父の愛用の黒檀造りのステッキが握られている。
父は窓の外を見るかのように私から目を逸らしながら、私が座っているピアノ椅子の側に近付いて来た。
「おはようございますお父様。今日は朝の剣道のお稽古は…」
「貴様は!!」
私はピアノ椅子から床に叩きだされ、信じられないような衝撃を頬に感じ、気づくと床に伏せていた。
父の平手が飛んだのだ。
軽い脳震盪を起こし、私はカーペットの床でうつ伏せになっていた。
それはまさに失禁でもしそうなくらいの一切の容赦呵責の無い恐ろしい平手だった。
見上げると父の顔色は紙のように白かった。紳士然と整えていた白髪が乱れていたが、その眼は完全に据わっていた。
反射的な涙が頬を伝わるの感じながら、私は父の顔を正面から見据えながら立ち上がった。
次の瞬間、父はステッキでピアノの鍵盤を激打した。
鋭い不協音が響き、ベーゼンドルファーの堅牢な鍵盤は一部おかしな形で折れていた。
「由紀子。お前は…お前は…自分が何をしたのかわかっているんだろうな?」
「はい。わかっております」
「何をした?言ってみろ」
「松岡家との縁談を破棄させていただきました」
「お前はそれが、何を意味するかわかっるのか?」
「わかっております。わたくしの本当の人生をやり直す決断です」
父は私の顔を直視しながらゆっくりとステッキを突きつけ、私の胸に当て言った。
「お前のその浅はかな気まぐれによって、津島が…、一族がどれほどの損失を被るかお前は理解してるいるのか?」
「理解しておりますお父様。ですが、わたくしの本心からの決断を変える気は微塵もございません」
父は深い息を吐き、目を逸らし何度か頷くような素振りを見せると、向き直った次の瞬間、さらにステッキを振り上げ、横殴りに私のこめかみを容赦なく殴打した。
私はショックで、四股の力が抜け、再び、くずれるように床に膝をついた。
こめかみが熱く膨れ上がったような感覚が襲って来た。床に伏せた私の手の上に裂傷しているであろう側頭から数滴の赤い血が滴り落ちて来るのを見た。
しかし、私は再び立ち上がっていた。父から絶対に眼を逸らしてはならない。ここで負けたら…。私は…、私は…。
「由紀子。私の眼を見ろ。お前は代々由緒ある津島の血族を何と心得る?…何と心得ているんだ!?私の…、津島家の一人娘としての責務をお前は…。お前という娘は…!」
父は鬼神のような顔で、再び娘の私にステッキを振り上げた。
しかし、私は左手でそれを制する素振りを見せ、父に進言していた。
「責務…?ですか…?お父様。もうできません。私は自分の心に正直に生きていきたいだけです。今後、私はもう自分の心に偽りなく生きて行きます。どのような道を辿る結果になっても…。私は…。私は決して後悔は致しません!」
「この大馬鹿者が!!」
父は一喝すると、震える手に握っていたステッキを、床に癇癪任せに叩きつけた。
父は立ち尽くしながら目を伏せ、しばらく沈黙していたが、やがて重い溜め息と共に口を開いた。
「一体何が気に食わんのだ?あの男の。全て揃っているではないか。そして、お前はずっと承諾していたではないか?ここまで準備するのに私が…、いや、津島の一族が一丸となってがどれほどの労力を注いで来たと思っているんだ?それを、それを…ここまで来てお前は…、お前はそれを反故にするのか?正気なのか?」
「正気です。私には、やはり愛していない英一郎さんと伴侶になる事はできません。例え自分の心を偽り結婚したとしても、必ずお互いが不幸になるだけです。お父様は娘の私が不幸になる事によって、津島家が本当に繁栄するとお考えですか?」
「一端の口を叩くな!!」
再び父の強烈な平手が私の頬を打った。
私はまた気を失いそうになったが、かろうじて倒れるのを踏み止まった。
しかし、涙は止まらなかった。嗚咽が込み上げて来るを必死に堪えていた。
私はまた、父の眼を正面から見据えて言った。
「決心を変える気はありません。英一郎さんとの縁談はお断りします」
「お前にそんな事を決める権利など無い!この私が絶対に許さんぞ!」
「英一郎さんには、既に私の本心を打ち明けております。今回の婚約は破談にしましょうと。あの方は承諾して下さいました。」
「この馬鹿者共が…!!いいか?これはお前達二人だけの問題じゃないんだぞ!」
その時だった。窓際に置いてあった私のスマートフォンの呼び出し音がなった。
「失礼します」
私は父から離れスマートフォンを取りに窓際に向かった。
「電話など出ている場合か!出なくてよい!」
私は父の叱責を無視し、スマートフォンを手に取った。
着信の画面表示は英一郎からだった。
「英一郎さんからです」
私は父にそう告げると着信に応じようとした。
「貸せ!」
しかしすぐに父がやって来て私のスマートフォンを奪って耳にあてていた。
「あー、もしもし、私だよ。津島だが。英一郎君か?まず、会って話さないかね?…もしもし?、おい、英一郎君?…話聞いとるのか?…おい!」
父の様子がおかしかった。つい今までの激昂が消え失せ、表情は明らかに困惑している。
「お父様、私が代わります」
私は父の手からスマートフォンを取り戻し、英一郎の声を聞こうと耳にあてた。
その時、父に次いで私も異変に気付いた。
英一郎の様子がおかしいのだ。
「英一郎さん?」
少しの無言の後、声がした。
「ひひひ…ひひ…ひひひひ…」
背筋が冷たくなっていくの感じた。
聞こえて来る笑い声は奇妙に遠かったが、
その声は明らかに英一郎の声だった。
「英一郎さん!どうしたの?しっかりして!」
「…あ?.由紀子さん?…ひひひひ…ひひひ…僕だよ…。ひひ…うふふふ」
「英一郎さん!私です。しっかりして!ちゃんと話して!」
「ふふふふ…ふふひひひひひ…ぼ、僕が君に電話したのはねぇ、破談の件なんかじゃ無いんだ。あんな事はもうどうでもいいんだ。そ、そ、そ、そんな事より重要な事があるんだ…き、緊急なんだよぉ」
「重要な事?重要な事って何?仰って!」
「ふふふふ…動画だよ。ひひ、あの日の夜、僕らの車が山の中で轢いたあの白くてデカいミミズの動画だよぉう…。」
私は全身の血の気が引いていく感じた。
まさか…。
「あ、あれがどうかしたの…?」
「い、い、今から君のスマホにさぁ…あの時の動画を送るよぉ…。どうしても見てみて欲しいんだ…ひひひ、由紀子…ひひひひぃぃ…助けてくれぇ…助けぇ……」
「英一郎さん!」
通話は切られた。
すぐに英一郎にかけ直したが、その後、英一郎が電話に出る事はなかった。
「なんだ?英一郎君はどうしたんだ?朝から酔ってるのか?」
父のその言葉の響きの裏には、英一郎の明らかな異変を察知しながらも、認めたくない何か得体の知れない恐れのようなものが隠れていた。
「わかりません」
キラーンと音がした。スマートフォンが動画を受信した音だ。
私個人のプライベートSNSにその動画は送られて来た。
送信元は英一郎からだった。
すぐに動画を再生してみた。
それはまさに一週間前、あの深夜のK別荘地に向かう途中の山道が映されていた。
暗い山道でヘッドライトを付けたまま停車しているルノーの前に、英一郎が立って動画を撮影している。
英一郎はライトに照らされた車道の上をしきりに興奮している様子で撮影していた。
姿は直接映っていないが、シルエットと声で、私自身も英一郎の側で撮影の対象物を一緒に見ている様子が伺える。
しかし、彼が写しているのはアスファルトの車道の上で、山林から落ちた落ち葉や、小枝、そして追い越し禁止用の黄色いセンターライン以外に道路の上には何も無かった。
何も映っていないのだ…!
(あれが…。あれが映っていない…!)
しかし、再生されているこの動画は、確かに英一郎と私が車道の上で見つけたその「何か」を夢中で撮影しているかのように見えた。
「何なんだ?この動画は?英一郎君は何を撮ってるんだ?」
テーブルの上で動画再生していた私のスマートフォンの画面を、側で覗き込んでいた父が言った。
「何も映っていないじゃないか?くだらん。一体お前達は…」
その時だった。
英一郎がスマートフォンのカメラを向けている道路の上から4、5メートル離れた先に、誰かが立っている姿が映し出された!
それは急に姿を現した。
それは、全裸の血まみれの女だった。
女の肌は異様に白く、頭と腹部から夥しい血を流し、女の足元には血の池が出来ていた。
しかし、女は笑っていた。
思わず叫び声を上げそうになった私に、動画の中の血まみれの女はこちらを向いて語りかけた。
「これで、勝ったと思うなよ…津島由紀子…」
それはあの精神科の市川女医だった。
「忘れたの?お前達の世界は滅ぶと言ったわよねぇ。計画は絶対に変更は出来ないのよ」
市川女医は、勝ち誇ったように笑った。
「な、なんだこの女は…!?事故か?事故なのか?おい、由紀子…。まさかお前達、轢き逃げをやったんじゃないだろうな?」
ここまで動画を見ていた父が、血の気を失った顔で私に詰め寄って来た。
「おい!由紀子。正直に言え!」
父は私の両肩を掴み、激しく揺さぶりながら言った。
「この女はどこの誰だ?英一郎の女か?今なら間に合うぞ!お前達が痴情沙汰の事件を起こしたとしても、そんなのは大した問題ではない。K署の署長など何とでもなるんだ!検察も金さえ積めばいくらでも言う事きかせられるのはお前もよく知ってるだろ?悪い事は言わん、今のうちに手を打っておくんだ!おい、由紀子!」
その時、部屋が急に暗くなった。
快晴だった日曜の朝、突如、空が前触れも無しに夜のように暗くなった。
深夜のように暗くなった部屋の中で、スマートフォンの画面だけが光っていた。
そして、一週間前の深夜の山道を撮影した筈の動画の中で、市川女医は、今度ははっきりこちら側を見て言った。
「ぼんやり由紀子ちゃん。お前も大変ねぇ。自分の欲得の事しか考えられない、能無しの腐った豚のような父親のお世話で…。」
「な、なんだと…?」
録画済みの動画から発せられた、その女の言葉を聞いて、父が信じられないような表情でスマートフォンの画面に目を戻した。
「欲ボケジジイの津島耕作。お前も、もうすぐ狂うわよ。
アハハハハハハハ」
「お父様!そいつと話しちゃダメ!!」
私は父を押しのけ突き飛ばすと、壁の剣吊りに掛けてあるフランス性の実戦用フェンシングサーベルを、掴んでいた。
次の瞬間、壁際から跳躍し、サーベルを先端をテーブル上のスマートフォンの動画の中から語りかけてくる市川女医に向け、渾身の力を込めて真上から垂直に突き立てた!
「ギャーーーーーーーー!!」
市川女医の絶叫は私の頭の中に直接響き渡った。
実戦用サーベルの先端はスマートフォンのガラスフィルムの画面を突き破り、さらに本体裏のアルミパネルを貫通し、テーブルに「ビーン」と突き立ってスマートフォンを串刺しにしていた。
次いで、スマートフォンの画面から粘性のあるような黄色い液体が流れ出し、例の芳香剤に似た吐き気を催す悪臭が漂って来た。
私に突き飛ばされ床に尻餅をついて座り込んでいた父は、呆けたような表情で私の顔を凝視していた。
おそらく、今の市川女医の絶叫を父も聞いたのだろう。彼のいままでの人生で決して聴いた事のない、頭の中に直接響き渡ったあの恐ろしい絶叫を…。
一生、忘れる事の出来ないあの断末魔を…。
その時だった。
「お、お、おい…由紀子!」
座り込みながら父が私を指差した。
「おい!お前…。その腕はどうしたんだ?!腕はどうしたんだ!?」
ふと見ると、私の右肘の付け根から先がバッサリと切断されていた。
いや…、切断されているいうより、「消失」している言うべきか…。
痛みは全く無かったが、右肘の付け根の切断面はまるで、光る木の切り株のように、暗い部屋の中で、不気味な緑色の光を放っていた。
私は悟っていた。
あの時だ…。
この右腕の消失は、彼らが作りだしたループ次元で市川女医と闘った時、市川女医のペンライトのような武器から発せられた光線によって、私の不死身の肉体である筈の「ゴーレム」が初めて受けた負傷であると。
今頃になって、この次元に現象化して来るなんて…。
恐るべき武器だった…。
しかし、私自身は狼狽している父を他所に右腕を失っても、不思議な事にそれほどショックを受けていなかった。
消失した私の右肘から先の手は、何処か他の次元に跳ばされているに違いない。
で、あるならば、いつか必ず取り戻してやる。
必ず。
私は暗闇の中で妖しい輝きを放っている自分の右腕の切り口を見ながら、
独り、そう決意していた。
終
低層アストラル 上野健太郎 @kentaro0130
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