第一章 11話「幽界」


そして、私はいつの間にか見ていた。


ベランダの床に横たわる塚田の遺体のすぐ上に、浮かぶように立っている、もう一つの塚田の姿を。


彼は薄い燐光のような青白い光を身体の周囲に纏わせている。


そして、塚田の身体はホログラム映像のように透き通っていた。


(気がついたかね?)


塚田は私の思考に直接話しかけていた。


「あ!」


私は気が付いた。これは……?

いつの間に…、こんな所へ…!?


私は軽々と立っていた。3階のベランダの手摺りの上に、まるで平均台の選手よろしく、立っているのだ!


私を拘束しているものは何もなかった。


そしてその時、私の身体は、金縛りや怪我の痛みからも完全に解放されていた。


そして、何ということか…見ているのだ。


手摺りの上に仙人のように立ちながら、ベランダで椅子に縛りつけられている私自身の体を、上から傍観しているのだ!


(塚田さん。これって、まさか…?)


私は聞こえない叫びをあげた。


怨霊の姿は消えていた。


代わりにアキコによって、椅子にビニールテープで、後ろ手に拘束されていた筈の私の両腕が、


恐るべき力でテープを引きちぎり、自分自身の首に手を掛けている。


私は自分の手で自分の首を絞めていたのだ!


(やめなさい!)


私は全霊で命じた。


途端に、肉体の私は電源が切れたように動きを止めると、ガクンと項垂れた。


私はまさに「気」の抜けた人形でも見るように、少しの間、椅子の上で項垂れている私の体を見ていた。


(よく、気付いたな。危ない所だった)


(こういう事だったんですね)


(僕も死んでから気づいたよ)


そこはモニターカメラのような視点から3次元の現実をモニタリングしているような独特な場だった。


音の響き、雨や風の感触、稲妻の音や輝きまで、何かが違っていた。


時間は停止したように感じられ、つい今の私を襲ったあれ程の恐怖感でさえも、まるで、既に記録された何かの情報を客観的に見ているような気にさせる、異質な空間だった。


恐怖感は消えているというより、その再生を止めているような感覚に近かった。


拘束された私と塚田の遺体はベランダで相変わらず、嵐の暴風雨に晒されていたが、そこから数メートル先に浮かぶもう一つの身体は、それらの影響を一切受け付けていなかった。


(でも、これ、戻れるのかしら?)

 

私は少し不安になった。


(わからない。でも貴女はまだ死んでいない。貴女の肉体は生きている。戻れる可能性は、まだ充分ある。ただ僕の方はもう戻れないでしょうな)


塚田は自分の死体を見て、寂しげに笑った。


(塚田さん。重ね重ね…。あらためてお礼を言わせて下さい。ありがとうございます)


(津島さん。そんな良いんですよ。医師として立派とは言えない生き方を、僕はずっとして来ましたから。あれが僕の運命だったんです。でも貴女が綺麗な人でなければ、僕もあの場の行動を変えていたでしょうな)


ホログラムのような塚田は無骨そうに笑った。


(まあ、身体から外に出てもご冗談が言えるなんて…)


微笑みながら私は、手摺りの上に立っている自分のもう一つのこの体も、塚田と同じくホログラムのように透過性を帯びたものになっている事に気付いた。


(あの怨霊は何処に消えたのかしら?それともあれは、はじめから私自身の心が作りだした幻影だったのかしら?)


(いや。あれは幻影ではない。実在しています。この世界と物質世界に跨って存在しているだけです)


塚田は死して、何かを悟ったような様子だった。


(この世界と物質の世界に跨って存在してる?)


(半分は物質、半分はこの世界にまだ属しているんです。死んでも、強い恨みや悲しみで魂の体が昇華できない存在です。だから怨霊になる)


思考に直接届け合う会話は、何の障壁も介さないようにクリアだった。思った瞬間に全ては相手に伝わっていた。


(気を付けて下さい。津島さん。怨霊は相手の心に僅かでも同調するポイントを見つけると、そこから手繰り寄せるように近付いて来る)


確かに塚田の言っている事が、今はっきりとわかる。


(貴女は今、肉体から魂の体がショックで飛び出した状態なんだ。もうこの認識に目覚めたのならば、後には戻れない。津島さんは今、凄く特殊な状態にいる。死んだ訳ではないからね。僕の場合と違って)


私は椅子に項垂れている自分の体を見た。

たしかに肉体は生きてるのがわかった。


(僕も今彼らに殺されたばかりだし、本来なら、怨霊になってもおかしくなんのだが…どうゆう訳か不思議と怒りや恨みが湧いてこないんだ…。レアケースってやつなのかなこれが…)


塚田はまた、寂しそうに笑った。


(しかし、僕はもう長くはこの場にこの身体で存在できない…。最後に、気になっている事を貴女に伝えておく)


塚田のホログラムのような体は徐々に薄くなって来た。


(物質世界とあの世を隔てる断層のようなものがあるのだが、それが崩壊したらしい。何故か、今の僕にはそれがわかる)


塚田の言葉が映像のようになり、私の思考の中に直接入ってきた。


それは、果てしなく広がる、暗い賽の河原のような場所だった。


地平線のように広がるそこには、木や草のようなものも無く、ただ、大小の石が無数にうず高く、何かの弔いの為の墓石のようにひたすら積み上げられいた。


その何者かによって積み上げられている墓石群が、暗く広大な荒野に無限に展開しているのだ。


空にはやはり、木星の目のようなあの不気味な、渦のような縞模様が現れていた。


(ここは元々、一種の境界線でもあったのですが、この場所が地震のようなもので破壊されています)


そこまで言うと塚田は、


(ああ、もうこの状態を保てなくなっている…。生きてるうちに…生きてるうちに、この認識に気付いていたなら…。医学に、いや、僕の人生そのものが…)


塚田はほとんど見えなくなり掛けていた。


(塚田さん…!)


(さよなら津島さん。どうか…気をつけ…て……)


消えかけていた塚田のもう一つの体は完全に消失した。


嵐の吹き荒ぶベランダに、死人のように魂の入っていない私の体と、横たわっている彼の遺体だけが遺された。


彼の犠牲の為にも、この窮地を切り抜けなければ。命を無駄にしてはならない。


私は椅子に項垂れている自身の体を改めて見た。


なんとかしなければ…。


もしこのままなら、私は死んでいると同じ事になってしまう。


私は、この透き通ったもう一つの身体が、ずっと手摺りの上にいた事に気付いて、


ベランダに降りてみようと考え、思い切ってジャンプしてみた。いや、正確にはジャンプするようにイメージした。


そして次の瞬間、体は手摺りから浮き上がっていた。


浮遊したもう一つの体は何の重さもなく、フワッと浮かんだかと思うと、まるで床に落ちてゆく鳥の羽のように、音もなくベランダに着地した。


私は椅子の上で項垂れている自分に近づき、頭を触ってみた。


手は、吸い込まれるように頭を擦り抜けていく。


今度は身体を抱きしめてみたが、同じように何の抵抗もなく、両腕が自分の肉体の身体を、虚しくすり抜けてしまうだけだ。


突然、えも言われぬ悲しみが込み上げて来た。


私はやはり死んだのだ。


自分の肉体にこれ程の、愛おしさと憐憫を感じたのは初めてだった。


仮に、まだ私の肉体が仮死状態だとしても、このまま魂の体が元に戻らなければ、遅かれ早かれ肉体は機能停止するか、植物人間になってしまうのではないか。


そして、消えて行った塚田のように私のこの魂の体も、もうすぐ薄くなってこの世から消えるのかしら?


絶望が目の前に広がって来た。


覚悟を決めるしかないのか…。


と、その時、閉じていたベランダの窓のシャッターが勢いよく開いた。

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