第一章 10話「保安警備」


「さてと、お嬢様。今のがアルバイトの報酬だ。先払いですよ。今夜は眠れませんなぁ」


岸谷が笑う。


「加山建設社長として直々に、津島財閥のご令嬢様の貴女に、アルバイトを依頼します。警備員のアルバイトですよ」


「警備員…?」


コカインによる充血感と苛烈な張り手の応酬により、腫れ上がり、膨張したような頭部の感覚の中で、私は自分の言葉を聞いていた。


岸谷は清水に合図すると、拘束されている私を椅子ごとベランダに運び出すよう指示した。


清水は窓を開け、私の椅子を後ろから抱えると、倒れんばかりに乱暴にベランダに放り出した。


夜のように暗い空が迫ってくる。


次いで、清水はアキコと二人で部屋の端に倒れている瀕死の塚田を抱き抱えて

まるで粗大ゴミでも出すようにベランダに放り出した。


ベランダの床に放り投げられた塚田は、頭を打ち、微かに呻き声を上げたが、すぐに何も言わなくなった。


椅子に拘束されている私の足元に転がっている塚田を見ると、顔は既に紫色に変わりつつある。


このままでは確実に死ぬだろう。


「この人、命が危ない。見てわからないの?彼だけでもすぐ医務室に運んで。お願いします」


「このベランダが君達の今夜の仕事の現場だ。夜勤の保安警備をしてもらう」


岸谷は私の訴えを無視して続けた。


「昨晩、我々はこの接客室に立て籠っていた訳だが、ベランダのガードが手薄な事に気付いてね。しかも、今夜から、非常電源は切れ、管理AIの防犯機能も無効になってしまう。よって君達二人に怨霊がベランダの窓から侵入しないように、一晩中警備していて貰いたいんだ」


「なんですって?」


「私の計算では、怨霊は夜にやって来る。君達の仕事は怨霊が窓から入ってこようとしたら、悲鳴を上げる事だ。

君達が発狂し、怨霊に取り殺されているその間に、我々は戦闘体制を整え、室内から迎え撃つか、あるいはこの部屋を放棄し、車で脱出するか?の選択が可能だ。我々の生存の為の時間稼ぎに君達の全勢力を注いで貰いたい」


私はこの男が言っている事自体が、狂気に取り憑かれた人間の、悪質な妄言のように感じ始めていた。


「き…キチガイめ…」


その時、足元の瀕死の塚田が最後の力を振り絞り、呻くように声を上げた。


「黙ってろ、死に損ないが!」その言葉を聞くと清水が、倒れている塚田の顎を強かに蹴り上げた。


グウッと声を漏らすと、塚田は全く動かなくなった。


「やめて!塚田さん!しっかりして!」


目を剥いて塚田を見た私に、清水が女性声で楽しそうに言う。


「今夜はしっかり警備して下さいお嬢様。ちなみに教えてあげますが、別荘地で僕以外の4人の若手の幹部達とペンションの管理人ご夫婦を殺したのは僕なんです」


「貴方が…?」


「彼らは既におかしくなっていたんです。兆候はすでに現れていた。だから、先手を打ったんです」


「先手って…何言ってるの?」


「その同じ頃、岸谷社長とアキコさんのお二人は、別荘地を襲って相当な数の方々を猟銃で殺していました。僕は社長達と、その後合流してここに来た訳です」


「おかしくなってるのはあなた達じゃないの?」


岸谷は誇らしげに頷くと、ベランダに降りて来て私の前に立った。


そして街宣車から演説する政治家のように声を張り上げた。


「君、これは戦争なんだよ!狂い始めた人間は決して元には戻らない。怨霊になる。子供だろうが老人だろうが容赦呵責なく殺すしかない。我々は選ばれたんだ。日本はもうおしまいだ。新しい日本を我々が創造する。わかるかね?」


「狂ってる。あなた達狂ってるわ」


「僕達は新しい社会の代表なんです。責任を全うするのが職務です」


清水は爽やかにそう言うと、岸谷が続けた。


「しっかり警備してくれたまえ。君が発狂した時が定時の勤務上がり時間となる。伝票はいらない」


岸谷は室内に戻ると、清水に命じ、


ベランダの窓、シャッターを全て閉めさせた。


私と塚田は3階ベランダに閉めだされた。


異常な空の闇はさらに深まり、大気がざわめていている。


真っ暗な空をパックにする夏山から吹き降ろされた生温い風は、ポツっポッっと雨を含み始めた。


雷鳴が轟き始めた。


ふと、何処から線香を焚いたような、不思議な香りがし始めた。


雨が急に激しさを増して来た。


私は椅子の足元に転がっている塚田を見て声をかけた。


「塚田さん。ありがとう」


裂けるような鋭い音が走った。近くに落雷があったようだ。


「貴方は、私が今迄の人生の中でお会いしたお医者様の中で、一番お医者様らしい方だわ」


塚田は死んでいた。


手足を拘束され、頭から血を流した土気色の死に顔に、雨があたっていた。


時刻は既に21時を過ぎている筈。建物の非常電源は既に切れている。塚田の遺体と共に、もはや嵐となっている真っ暗な3階のベランダに閉め出された私は、例えようのない感覚に襲われ始めていた。


また、あの寒気がする。


気を抜くと、雨の音を中継して、人の呻き声のような、あの声が聞こえて来るような…。


気を抜くと、今の自分が誰かがわからなくなる。


気を抜くと何かが心の中に入って来ようとする。


(冷静さを失ってはならない)


見えない強い力が椅子に拘束されている私の体を、さらに内側から金縛りにしていた。


稲妻が光り、間近で生木が裂ける危険な音が響いた。落雷の頻度が高まっている。


皮肉な事に、傷の痛みはコカインの影響か、ほとんど感じなくなっていた。

しかし、逆にその痛みに向かっていた感覚の全てが、外界を捕らえる知覚へと向かい、近づいて来る異常な気配を普段以上に、本能が鋭敏に捉えようとしていた。


私は知らずに岸谷達が言っていた話を頭の中で反芻していた。


彼らの主張、そして、行動はもちろん既に正常とは思えなかった。あの常軌を逸した冷酷な感性は…?


一体どうなったら人はああなるのだろう?


ここにやって来た彼らは、何かしらの災害や事故、人災で避難して来た生き残った人達などではなく、別荘地で突発に猟奇的な大量殺人を犯して逃亡してきたサイコパスのグループなのではないか?唯一正気を保っていた医師の塚田は、ただ岸谷のインスリン確保の為だけに利用され、連れてこられたに過ぎないのでは?


しかし、昨夜のあの化粧室で私を襲ったあの「幽霊」は?


あれは…


あれは何だろう?


私は所謂、霊感等が自分にあると感じた事はないし、「霊」の存在というもの対し、今までの人生で否定もしてこなかったが、あえて肯定もしてこなかった。目に見えるもののみを信じ、見えないものの方を、どこかで感知しながら、極力見ないようにして生きて来たのだ。


私の周りには両親も含め、そのような生き方の人達ばかりで常に固められていた。私自身、そういう生き方で、表向きは何も問題はなかった。今迄は…。


だが、昨夜のあれは間違いなく人間ではなかった。あんなまるで、悪夢の中で頭の中に直接響くような気味が悪い声を人間が発声出来る訳がない。


それとも、私が英一郎との事故で頭を打っておかしくなり、心の中で聞いた幻聴なのか…?


私がトイレの中でみた、扉にかけられたあの白い指…。


でも、管理AIの監視レコーダーにも実体が記録されていないそれは…?


あれが岸谷達の言っていた「怨霊」ならば、それは恐るべき事だった。


もうあの声を絶対に聞きたくない。


次こそ、私の神経の糸がそれに耐える事はできないだろう。


その時だった。


まるで、私のその恐怖心をどこかで 察知していたかのように、近くで微かに誰かの声がした。


(まさか…。)


嵐の雨風が叩きつける音の中に、誰かがいる…。


それは女の声だった。昨日のあの女とは別の女の声だった。


ウッ。ウッ…。と、泣いているのだ。


いや…啜り泣いているというべきか。


その啜り泣く声は、悲しみというより怨念を感じさせた。その奇妙にしゃくりあげるような泣き声は、聞くものの気が触れる何かを発していた。


しかも、時間と共にその声は少しずつ大きくなって来る。


降りしきる雨と強風の中、女の啜り泣く声は、私の頭上辺りにいるとわかった時、私は慄然とした。


女は屋上にいるのだ。


でも、どうやって、屋上に?非常電源が切れても門扉は内側からしか開かない。


女は屋上で夜の雨の中、独り何かを呪うように、啜り泣いているのだ。


耳を澄ますと、啜り泣きながら女が屋上を、おそらく素足でピチャ…ピチャ…としばらく徘徊しているような音がした。


(意識してはならない)


心の声が警告した。


だが、丁度、接客室のベランダの上辺りで、その足音は止まった。


「…せぇんぱぁい…。わ〜たぁしぃぃひ、ひ、ひぃぃぃとりにし〜なぁ〜いで…」


若い女の声だった。屋上の手摺りから身を乗り出し、下のベランダを覗き込むように啜り泣きを始めた。その呪うような泣き声は、私に向けられていた。


「お〜い〜て〜か〜な〜い〜で〜〜〜」


反射的に悲鳴を上げようとしたが、声が出ない…!!


そう感じた瞬間だった。


ガボッ!!と、大きな水の入った袋を床に置いた時のような異様な音がした。


その音は私を拘束している椅子の真後ろでした。


私の真後ろに誰かが立っている。


女は屋上からベランダに降りて来たのだ。


「せぇ〜んぱい。せぇーんぱい…。」


女は啜り泣きながら私を先輩と呼んでいる。


(私はあなたの先輩じゃない…!)


女は私の背後から、近寄って来た。


目を閉じる事さえできない…!


私は本能的にわかっていた。この女の顔を直視したその時、私は発狂するだろう。


(絶対に!絶対に見てはならない!)


「ひ、ひひひ」


何処からか狂気の裾に触れたような、

奇怪な笑い声が聞こえて来た。


「ひひひひ…」


女は私の真後ろに立つと、真上から顔を覗き込むようさらに近づいて来た。


女の髪から水滴がポタポタと滴り、私の顔を濡らした。


「ひ、ひひ、ひひひ…」


椅子に拘束されている私の背後から覆い被さるようにしながら、女はゆっくりと、両手を私の首に掛けて来た。


冷たい水の中で冷え切ったような両手が、私の首を弄るように触っている。


「ひ〜〜ひぃ、ひひひ」


私はやっと気付いた。


気の触れた笑い声を漏らしていたのは私自身だった。


私は知らず知らずに、狂いかけていたのだ!


「アハ、あははは」


精神の破綻を警告する笑いがひとりでに漏れて来る。


すると、私の首を弄っていた女のつめたい両手が、急に力を込めてきた。首を絞めているのだ。


女は首を絞めると同時に、私の顔を、上から覗き込もうと、髪を揺らしてヌウッと顔を近づけて来た。


「せぇ〜んぱぁ〜い〜〜。のぉ〜ろってや〜る〜〜うぅぅ…」


怨念がこもったその声は急に低く、唸るような凄みを帯びた声になった。


つめたい女の手に首を閉められながら、私はいつか、白目剥いてよだれを垂らしていた。


私は発狂のとば口に立っていたのだ。


首を閉める力は、気管を潰しにかかるかのように容赦なく強まり、海藻のような濡れ濡った女の髪の毛が顔にかかった。


その時だった…!


(しっかりしろ!しっかりするんだ!)


何処からか叫び声がした。それは激しい叱責に似た叫びだった。


私に向けられ発せられたその叫びは、

どこか聞き覚えのある声だった。


(狂うんじゃないぞ!しっかりしろ!)


鋭い叫びに、狂気の奈落へ飛び降りる手前で、私は立ち止まった。


(戻れ!狂うんじゃない!)


金縛りに遭いながら、女の怨霊に首を絞められていた私は、意識の羞の方に辛うじて残されていた正気の糸を掴んだ。


そして理解した。その叱責を私にぶつけているのが誰かを。


(無心になりなさい!取り込まれたら狂うぞ!)


その声は塚田だった。


足元で死んでいる筈の塚田の声だったのだ。

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