第一章 8話「空に浮かぶ眼」


管理AIは続けた。


「ところで現在の私達の会話はこの3階化粧室でのみモニター可能な内容となっております。プライベートロック機能により、岸谷社長と他の御三方には私達の会話は確認できません」


「そう…とにかくありがとう。貴女のおかげで助かったわ」


AIにお礼を言ったのは初めてだった。


「お役に立てて光栄です。由紀子様」


「さっきの岸谷社長と私のやりとりも聞いていたの?」


「はい。岸谷社長が由紀子様に及ぼした傷害行為につきましては、共用部のモニターを通して記録しております。この記録は由紀子様のご判断で、後の法的起訴に至るケースが生じた場合の案件データとして保存されております」


「あれね…。私の父の耕作を含め、ああいう性根の人間をよく見て来たけど、父以外の他人から、あんな暴力を受けたのは初めてだわ」


私は苦笑した。


「私が現在懸念しておりますのは、由紀子様の身体のお怪我と極度の疲労でございます。まず速やかな休息と治療、栄養補給をおすすめします」


私は化粧室の床に腰を下ろして管理AIの言葉を聞いていた。


「この施設には岸谷社長達がご使用なさっている接客室以外に、2階の西側に医務室がございます。接客室のような設備はございませんが、医療用ベッドが一つございます。体を横にして休息をお取りになる事が可能です。

また、麻酔用アンプルと注射器が保管されている冷蔵庫と、所員が利用するドリンククーラーもございます。もし、よろしければこの化粧室からそちらに移動なさってお休み下さい」


「ありがとう」


涙が出そうになった。人間よりもよほど思いやりがある。


「2階の共用部には4機の防犯熱レーザーが設置されております。判定対象が出現したと判断した場合、即座に対象を排撃します。ご安心なさって2階「医務室」へ移動なさって下さい」


管理AIの言葉に従い、私は悪夢のような化粧室を出て、2階の「医務室」へ暗い共用部をひとり慎重に移動した。


まだ心臓がドキドキしてる。


途中、岸谷達の立て籠っている「接客室」の前を通ったが、何事もなかったかのように鎮まりかえっている。


私は白いLEDが細やかに灯されている薄暗い医務室に入ると、ベッドに座り、冷蔵庫にあったモルヒネらしいアンプルと注射器を見つけ左腕に打った。


時刻は午前4時近くになっていた。


もうすぐ朝になる。果たして朝になれば、あの「幽霊」は襲ってこないのだろうか…?


初めて打ったモルヒネの効果は強烈で、私はベッドに横になるとたちまち昏睡に引き摺り込まれた。


深い昏睡の中でも、あの不気味な呻き声が、心に忍び寄って来るのを感じていた。しかし、激しい疲労とモルヒネの陶酔感が、一時的にしてもその呪いのような神経への影響力を、撹乱してくれているような気がした。


…その後、重く泥のような長い眠りから、私はゆっくりと目覚めた。


でも、一体、今が何時になっているのか検討が付かなかった。


あの事故の後の時のように、恐ろしい程の時間、気を失っていた…。


やっと目覚めはしたが、抜け側のモルヒネの副作用か、胃に微かな吐き気を感じ、体は熱っぽく重かった。


鏡を見ると相変わらず、酷い様相で応急手当のガーゼはとっくに剥がれ、黒く固まっている額上部の傷口と目の下の隈が、私を幽霊か、映画に出てくるゾンビそこのけのルックスにしていた。


医務室の時計を見ると、昼間の午後3時を指している。


私は、実に9時間近く、医務室のベッドで昏睡状態だった事になる。


重い身体を引きずって、眩しい昼間の外の様子を伺おうと、私は窓の電子ブラインドのスイッチをoffにして、窓の前で立ち止まっていた。


外は真っ暗なのだ。


今は昼間の3時の筈。これでは夜ではないか…?


時計が壊れているのかと思い、

ブラウスに入れておいたスマートフォンの時間も確認した。


同じく昼間の3時を指している。


私は窓を開け、空を見た。


空には異変が起きていた。


確かに昼間ではあった。しかし太陽の光は何かに遮断されているようにほとんど地上に差し込んでいない。


その暗さは皆既日食の闇を、幾十にも塗り重ねたような、私がいままでの生涯で見たどの空よりも暗い空だった。


目を凝らすと、研究所の周囲を囲む木々の間から、空模様のようなものが見えてきた。


何かが渦巻いている。


墨汁と黄土色の絵の具を混ぜたような、雲やスモッグと呼ぶにはあまりにも濃密な何かが、空というキャンパスの上でねっとりと重く、不気味にマーブリングしながら、日の光をほぼ完全に遮断しているのだ。


よく見ると闇の中に所々、木星の表面のような模様、そう、あの「木星の眼」のような奇怪な渦が見える。


あれは…?


私はあの異常な空をもっと近くで見てみたい衝動に駆られ、屋上に出る事を決心した。


相変わらず「圏外」のスマートフォンだけ、とりあえずポケットに入れると「医務室」の玄関にあったスリッパを履いて管理AIにドアロックの解除を口頭で頼んだ。


「外出するわ。屋上に出たいの」


しかし、数秒しても管理AIは何の反応も示さなかった。


もしかして、施設の非常予備電源が切れたのか…?


いや、昨晩の管理AIのアナウンスでは予備電源は21時間の残量があると言っていた。今の時刻なら、まだ5時間近くはAIは機能する筈だ。


どうしたのか、考えあぐねながら私はマニュアルで玄関のロックを解除して医務室のスリッパのまま、外出しようとした時だった。


誰かが、「医務室」のドアを叩いた。


一瞬、ドキっとしたが、その叩き方は例の「幽霊」ではなく人間のものである事はすぐにわかった。

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