第一章 7話「化粧室」


階段を登る途中、塚田医師が思い詰めた表情で先に私に何かを言い掛けた時、突然、廊下と階段の照明が消えた。


施設全体の照明が落ちたようだった。


完全な暗闇の中で、私と塚田は息を殺し、しばらく無言で顔を見合わせていた。


すると、フッと照明が再び復活したが、今度はかなり暗い非常灯に切り替わっていた。


共用部の時計の針は深夜2時を指している。


管理AIからのアナウンスが響いて来た。


「只今、この施設の主要電源はブレイクダウンしました。5秒後に予備非常電源に切り変えます」


「どうしたの?停電の原因は?」

薄暗い階段の踊り場で私はAIに尋ねた。


「K市の最南部にある第2発電所ダムからのメイン送電が途絶えたものと考えられます。原因は不明です。なおこの施設の予備電源の使用可能時間は、約21時間となっております」


「いやな予感がする…。」


塚田がポツリと呟いたその時、


ガシャーン!と何処かで窓ガラスの割れる音が私達二人がいた階段の踊り場に響いて来た。

緊張が走り、私と塚田はその場で動かず、外の音を聞いていた。


すると、今度は違う方向から甲高い金属音が聞こえた。


正面玄関のスチール製の門扉に何かがぶつかる音だ。


…カ、カン!カラ、カラ、カラ、カラ…!

カラ、カラ、カラ、カラ、カラ…!!


それは何者かが、木の枝のようなもので、門扉を叩き続けている音だった。


塚田は私を見ると、恐怖に見開いた眼でつぶやいた…。


「アイツらだ…。」


私は塚田に詰め寄った。


「アイツらって?」


「ど、どうして、こんな場所まで来たんだ。ま、まさか追ってきたのか…?」


すると、フッと門扉の打撃音が止み、

また静寂が訪れた。


そして、


「助けて…」


女の声がした。


力ないその声は消え入りそうな程儚げだったが、底知れぬ不気味さを感じさせた。


「…助けて」


私は塚田を見ると声を押し殺して言った。

「外に誰かいるわ。聞こえたでしょ?今の声!」


「応じちゃならん!上の階に逃げるんだ!」


私と塚田は弾かれるように2階への階段を駆け登った。


塚田は岸谷のインスリンセットを探す為に医務室に飛び込んだ。恐怖を感じながらでも職務を全うタイプの男のようだった。


「付き合わせすまんが、ここで待っててくれ」


塚田は私を医務室の入り口に待たせるとすぐに出てきた。


「あったぞ。これだ。これを持って接客室に急ごう!」


3階の接客室の前まで来た私達は、中に居る岸谷達にインターフォンでドアを開ける事を求めた。


数十秒してやっとドアは開いたが、接客室の玄関には岸谷が入り口を塞ぐように立っていた。


「岸谷さん、さっき外でした音を聞いただろう?また、アイツらだ。急ぐんだ!中に入れてくれ!早く!」


塚田が岸谷の傍をすり抜けんばかりに部屋の中に入ろうとすると、


「おっと。わかっているよ。君の入室は許可しよう。」

岸谷はインスリンを受け取ると、鷹揚に塚田の肩を叩いた。


「だが、君は別だ」


岸谷は私の方を振り向き、両手を拡げながら言った。


「64条か何か知らんが、俺にとって君は、身元もわからない単なる不審者だ。ここは我が社の幹部クラスの人間の為の部屋なんだよ。AIはともかく、この部屋の責任者は俺だ。俺が信用できない人間を、ここに入れたくないんだよ」


岸谷は続けた。


「それに、その君の汚い裸足はなんだね?その足で部屋に入られてはカーペットが汚れるだろう?常識で考えたまえ」


私は二の句が繋げなかった。この岸谷という男は、私の父、津島耕作の上を行く酷薄な人間かもしれない。


「まあ、特例として当施設に宿泊する許可は与えてやる。感謝したまえ」


岸谷は玄関の外を指差した。


「ただし、寝るんなら、隣の資料室か、廊下で寝るんだな」


私は怒りよりも、この男の中に寂しさに近いものを感じた。人の上に立つ人間の中にも稀に、この種の人間がこの世界にはやはり存在するのだ。


岸谷は冷笑を浮かべてさらに続けた。


「それとも、64条とやらを振り翳して強引にこの部屋に入れろと言うのか?いや、恥も外聞もなく土下座でもして俺に頼み込むのかね?」


「岸谷さん、アンタって人は!」


塚田が割って入った。


「今、そんな事言っとる場合か!?」


溜まりかねた塚田は、接客室の玄関で岸谷の腕を掴んでいた


「おいおい、何するんだよ。手を放せ。放さないと君も一緒に出て行ってもらうぞ」


「言われなくてもそうするわ」


私は岸谷の顔をまともに見て言った。


「塚田さん、鎮痛剤と救急セットだけ貸してください。自分で手当したらお返しますから」


「ダメだ!君、今、そんな事言っとる場合じゃないんだ、あの…、」塚田が言い掛けたその時だった。


「助けて…」


また、あの、か細いが、限りなく不気味な女の声がした。


しかも今度はその声は外からではなく、明らかにこの施設の中から響いて来たのだ。


玄関にいた全員が凍りついた。


「パパ!来たわ!早くドア閉めて!」


私達のやりとりを見ていたアキコが恐怖に駆られ岸谷を見た。


「社長!早く部屋に入って鍵を掛けて下さい!」


清水が部屋の奥から走って来て猟銃を岸谷に渡す。


受け取ると岸谷はまた猟銃を私に向けた。


「お前さんがあれの仲間でない保証はないよな」


「あんた、正気か?やめるんだ!」


塚田が制止しようとしたが、


「出て行きたまえ。廊下で寝るんだ!」


岸谷は私の負傷した膝を、容赦なく足で蹴り、私は激痛と共に玄関から廊下に尻もちを着くように倒れた。


玄関先から塚田の抗議の声が一瞬聞こえたが、「接客室」のドアはシュッと蓋を閉めたように閉ざされ、中から施錠する金属音がした。


管理AIに命じても、中からマニュアルで施錠されてしまってはドアは開かない。


玄関から締め出され、独り暗い廊下に座り込みながら、私は岸谷に蹴られた膝の痛みや出血よりも、あの声のありかに意識を集中していた。


あれは一体誰なのか?今さっきあの声は、この建物の中から聞こえて来た。

外から一体どうやって中に入って来たのか?ガードAIは反応しなかったのか?


また、彼ら4人はなぜあの声の主をあれほど恐れているのか…?


AIに質問したかったが、あの声を聞いた後、この暗い廊下で独り、AIとの質疑に声を張り上げる勇気は無かった。


(ここにいては危ない…!)


寒気がする。


何かはわからないが、本能が危険を知らせていた。私が膝の痛みを堪えながら、立ち上がった時だった。


「…助けて…」


また、あの声がした。しかも今度はもっとこちらに近付いて来てる。


1階の階段の方からだった。


私は身を隠す場所を探す為に、足音を殺して廊下を走った。


岸谷の言っていた「資料室」の前に来たが、「工事中入室禁止」の表札と旧式のダイヤル錠がかかってある。

岸谷はこれを知っていたのかもしれない。


私が次の手段を探そうと、共用部の廊下を見渡した時、


「…助けて」


また、あの声がした。しかも、その声の後に、今度は階段の方から別の音がした…。


…ヒタ…ヒタ…ヒタ…ヒタ…ヒタ…。


ゆっくりだが、誰かが素足で階段を登ってくる足音が、静まり返った共用部の吹き抜けから響いて来るのだ…!


はっきりと全身の血が引いていくのを感じ、私は資料室の向かいにあった「化粧室」に飛び込んだ。女子トイレの中に入り、音を立てぬように扉を閉め、中から静かに鍵を掛けた。


息を殺して、あの声の主がこれ以上絶対に近づいてこないように祈った。


そして、しばらく時間が経った。10分か、20分か…。


共用部は静まり返っている。


あの声は聞こえなくなっていた。


あの不気味な声の主は階段を上がっていた筈。


その後どこに移動したのか?


このまま絶対に音を立てずに、トイレの中で朝を待つべかきかしら…?


私は忘れかけていた極度の疲労と怪我の痛みから、四方を囲むトイレの白いパーティションに静かに寄り掛かろうとした時、


「助けて…」


女の声は化粧室のドアの前からした。


思わず叫び声を上げそうになった…。


ここまで来ていたのだ…!


ギィーっと、化粧室のドアが開いた。


「助けてぇ…」


声の主は化粧室に入って来た。


素足と思われる湿った女の足音が、ヒタ…ヒタ…とゆっくりこちらに近づいて来る。


「助けてぇ…」


間近で聞く、か細く、儚げなその声は、例えようもなく不気味で、もはやその声は耳からではなく、直接、私の頭の中に響いてくるようだった。


(応じてはならん!)塚田医師の言葉が脳裏によぎった。


ヒタ…ヒタッ…と足音は私が隠れているトイレのドアの前に近づいて来て、フッと止まった。


「ふぅ〜〜う、ううう…うぅ…。」


溜息とも呻き声ともつかない恐ろしい声がした。


その声は今度は、足元、いや化粧室の床の辺りからした。


ピチャ、ピチャ、ピチャ、ピチャ…。


声の主の女は這いつくばり、床を舐めていた。


ピチャ…ピチャ…ピチャ…。


いや…


私は気づいて凍りついた。


女は私の傷から床に滴っていた血痕を舐めているのだ…!


「ここにいるんでしょ…」


声が急に大きくなった。


「あ〜〜け〜〜て〜〜〜」


私は気が狂いそうだった。


「あ〜〜け〜〜て〜〜〜」


金縛りにあっている!


体が動かない…!!


するとトイレの扉の上部の切り側にカタカタと音がした。


白い指が見えた。


女はそこに手を掛け、扉をよじ登ろ うとしているのだ。


「い〜ま〜い〜く〜か〜ら〜ね〜〜〜〜」


その時、一瞬!化粧室の天井が赤く光った。


チカッ!


チカッ!…チカッ!


真っ赤なフラッシュを焚いたような閃光が暗闇の化粧室に連続して走った。


「いたぁ〜いぃ〜 いたぁ〜〜〜〜いぃ〜」


怨みがこもった泣き声が化粧室に響いた。


光は女を攻撃していたらしく、女の声は何処かに掻き消すように消えていった。


天井にはまるで、遺骨を焼いたような匂いと、何かが焦げたのか、微かな煙が漂っていた。


静寂が戻って来た。


私は扉の外にあの女の気配を感じなくなっていた。


金縛りはとけていた。


ここは、静かに一度外へ出てみようかと考え、扉のドアの鍵に慎重に手をかけた時だった。


「ご無事ですか?」


心臓が止まるかと思った。

突然の声の主は管理AIだったのだ。


「お、脅かさないでよ。死ぬかと思ったわ。さっきとは違う意味で」


「申し訳ございません。先程は防犯的処置を取らせて頂きました」


「貴女だったのね。犯罪防止用レーザーであの女を撃ってくれたのは」


この施設の共用部の天井には犯罪防止用の熱レーザーシステムが取り付けてあるようだった。


施設全体の脳である管理AIが、不審者とターゲットロックした対象に対して犯罪行為を犯しているとAIが判定した場合即座に、死なない程度の高出力レーザーの洗礼を与えるという防犯装置の一つである。


よく聞く話では、レーザーの威力は約1秒程度の照射で

先を火で炙り、真っ赤になった針で皮膚を突き刺すぐらいの激痛が与えられるらしい。 


普通の人間なら一撃で悶絶、あるいは失神するだろう。


「あの女は何処からこの施設に入って来たの?」


「わかりません。一階の研究室フロアの南側の窓ガラスが割れたのですが、

そこからの侵入ではないようです」


管理AIは落ち着いた美しい女性の声で答えた。


AIは続けた。


「ですが、私の監視モニターの解析に寄りますと、中央階段の2階の踊り場辺りから、午前2時23分に女性の姿を捉えています。認証を通過していない対象の為、ターゲットロックの判定を下し、先程のこの化粧室に侵入して来るまで、あの対象の行動を自動監視しておりました」


「何?あの女は突然、2階の踊り場に現れたって事?」


「そうとしか表現できません」


「今、あれは何処にいる?モニター出来る?」


「追跡しましたが、姿そのものが消えてしまったかのように、現在どのセクションにも例の対象は見当たりません」


「そんな…事って…ありえないでしょう…?」


「私も困惑しております。また、先程の判定対象以外にも午前2時21分、表玄関のガードAIが、木の枝のようなもので門扉を叩いている別の女性の姿を捉えています」


やはり、あの、カラ!カラ!カラ!という打撃音は、誰かが門扉を何かで叩いていた音だったのだ…!


「ガードAIの監視カメラから映像は記録しているの?」


「はい。表玄関のナイトビジョン映像は捉えております。ですが、こちらも実体が映像として確認できない内容が記録されておりました。只今原因を解析中です」


非常用電源により照明の抑えられた暗い化粧室で、管理AIからの報告を聞きながら、私は悪夢の中にいるような気がした。


実体が捉えられない…?


「幽霊」という言葉が心によぎった。いや、今さっき化粧室で私を襲ってきたあの女を、逆にそれ以外の何かと言い表す言葉が今の私には見つからなかったのだ。


と、なると岸谷や塚田、アキコと清水の4人はK市の別荘地から「幽霊」の襲撃を逃れてここに避難して来たというのか…!?

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