第一章 4話「水質研究所」


水分を補給してかろうじて賦活した私は、新たな目的地に向かって、また少しずつ歩き出した。


この果てしない山道が本線に合流するポイントに辿り着くには、少なくともまだ17km以上歩かなければならない。そこで血だらけのヒッチハイクをして通りかかる車に助けを求めるか、または、そこからさらに別荘地まで行くなら約3km歩くか?


いや。もう絶対にそんな事はできない。


口を開いていた頭と左膝からの出血が止まらなくなって来ていたのだ。


こうなると、当然このバイパス道沿いにある叔父が建てた「水質研究所」に辿り着くのが最良の選択で、それが霞み始めていた意識の中で今の私にできる唯一の判断だった。


深夜の、ましてや都市から遥か郊外の施設に、この時間駐在している職員がいるとはとても思えないが、叔父の会社の施設に行けば、たとえ誰も「人」が居なくてもそこに入れる方法を、私は知っていた。


私の推測通り、歩き始めて200mを過ぎた辺りに「加山水質研究所」の

案内板が見えて来た。


その施設はこの道から、さらに枝別れした細い道を右に入り、森林の中の舗装道を60m程坂を登った場所にあるらしい。


坂の麓から上を見ると林の奥に建物のシルエットと灯りが見える。


残った気力を振り絞り、蛇行した坂を登り切ると急に視界が開け、


20台程の車が停めれる広さの駐車場が見えた。


当然のように、この時間停めてある車は一台も無い。


駐車場を横切って奥に進むと、イメージしていたよりは大きくない3階建ての白いビルがあらわれた。


近づくと大理石の門柱に「加山水質研究所」の表札が見える。


スチール製の門扉の横には、AIによる声紋と虹彩認証用のオーバルセンサーがついている。


近づくと、センサーが点灯し、AIの質疑が始まった。


「いらっしゃいませ。こちらは加山建設の水質研究所です。失礼ですが、この施設の関係者の方ですか?」


紳士然とした男性の合成声だった。


「施設の直接の関係者ではないわ。私は加山建設の二代目会長、津島大輔の実兄にあたる津島耕作の娘、津島由紀子よ。」


「照合いたします。」


私の虹彩に、ほんの一瞬光りが走ると、


「照合が完了いたしました。貴女様が津島耕作様の御息女、津島由紀子様でいらっしゃる事の確認が取れました。」


「緊急事態よ。この施設から外部に連絡したい。私を中に入れなさい」


「かしこまりました。ご要望がございましたら、施設内の管理AIに何なりとお申し付け下さい。」


門扉は直ちに開き、同時に中にあるオートロック錠も開き、研究所の玄関は自動的に開いた。


私の父、津島耕作は、地震や津波等の災害非常事態の発生を想定し、いざという時の為に津島家とそのファミリーが所有するほぼ全ての施設に、身内の人間だけは何時でも自由に出入りし、必要とあれば地下や上層階へ避難できるように、虹彩と声紋、そしてDNAを各建物のガードシステムのデータバンクに登録させていたのだ。


私がこのシステムを使うのは始めての事だった。


それもまさかこんな形で…。


玄関からこの施設の一階にあたる「研究室」の中に入ると、フロア全体が照明に照らされた。


白いリノリウムの床の上、円状に並べられたテーブルに数台の計測器らしい機械や、意外にも型遅れなノートPCが雑然と並べられている。


私はすぐにバッテリー切れしたスマートフォンを、壁側にあった無線充電テーブルの上に置くと、

この施設の「管理AI」を起動させる為、天井の中央に設置してあるオーバルモニターに向かって話しかけた。


「聞こえる?管理AI。すぐ外に連絡したい。まず警察、それから父、津島耕作のプライベート回線に直通連絡して。その後救急車。大至急繋ぎなさい。」


1秒と経たない内に管理AIからの返答が、落ち着いた美しい女性の声で返ってきた。


「大変申し訳ございません。由紀子様、現在この施設の通信、及びデータ回線は全てオフラインになっております」


「オフライン?何ですって!どういう事…!?」


「はい。現在の状況をご説明いたします。只今より22時間56分前、8月8日午前1時31分、

東日本に84箇所あるNTXの通信基地局の全てに、なんらかの深刻な通信障害が発生しました。よって現在、全ての回線は不通となっております。

また、津島耕作様のプライベート回線による接続も、衛星基地局の内部にある通信モジュールに、同様の問題が発生した為、現在お繋ぎする事が出来ません。」


「そんな…!」


私は血の気が引いていくのを感じながら、管理AIに問い詰めた。


「いつ、復旧するの?」


「申し訳ございません。現在全てのオフラインの状態にある、この施設の管理AIである私が、事態の復旧時刻を予想する事はデータ不足により大変難しく…」


「もういい!」私はAIの言葉を遮ると、続けた。


「では質問を変える。私は数時間、この施設沿いにあるバイパス道を歩いて来たわ。私と同乗者の車はそのバイパス道から本線へ抜ける途中で事故にあったの。今から約23時間前よ。

その間、一台も街からこの道に通行車がなかったのは何故か?」


「現在、テレビ、ラジオ等の公共の放送媒体も含め、外部からのオンライン交通情報も全て遮断されている為、推測でのお答えしかできませんが、本線第2084環状ルートとK市街地からのバイパスジャンクションの双方で、大規模な車の衝突事故、道路の火災等の深刻な交通障害が、同時に発生した可能性があります」


私のまさかの予想は的中していた。


しかし、今、テレビやラジオまでも機能していないと管理AIは言った。

それは一体…!?


「テレビとラジオの放送中断は何故?なにが起きたの?」


「原因はわかりません。ですが、オンライン遮断が発生した時刻と同じ、8月8日午前1時31分を境に、国内のテレビ、ラジオの全ての局からの放送が中断されております」


まさか…。都市部で何か大規模な災害が起きたのではないか。


私と英一郎の乗った車が、あの異様な光が近づいて事故を起こした、あの時刻に…。


「それでは、もう一つ尋ねる。私がこの施設にたどり着く数時間前に、山間部で自衛隊のジェット機の編隊が、かなりの低空飛行で東に向かって飛んで行くのを見たわ。この事は約23時間前に発生した通信障害と関係あると思う?」


「残念ながら現時点では、自衛隊機の編隊がこの度の通信障害と、直接関係があるか?については、言及できません。ですがここから西、約180kmの距離に、航空自衛隊のM基地があり、その基地から、編隊を組んでの夜間発進は、訓練ではなく政府の要請を受けた航空自衛隊が実戦に対処する為の「緊急スクランブル」発進である可能性があります」


「緊急スクランブル…?」


私は得たいの知れない不吉さを感じ始めていた。

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